ⅩⅣ.志津彦(シツヒコ)
―――遙かなる・・・と感じられた刻を超えて、平穏が訪れた高木家。
併し、ウズメに平穏は感じられぬというか、寧ろ平穏を通り越し、じれったささえ感じていた。
「天智彦?出て来なさい?」
「――――・・・・・・」
天智彦がばつの悪そうな表情をする。
「貴方、自分の身体なのに如何して堂堂としていないわけ?」
「・・・・・・」
・・・天智彦は黙っている。
天智彦はずっとウズメの前に姿を現していた。そういう意味ではずっとウズメの前に“出て来て”はいたのだが、豪奢な椅子に腰掛けた侭、ぴくりとも動かずにいた。視点も一箇所に定めた侭、瞬き一つすらしない。脱殻の様に、肉体だけが只其処に在るのだ。
ウズメは溜息を吐いた。
天智彦の肉体は依然として、二つの魂が居残っていた。一つは天智彦自身の魂、そしてもう一つは、ウズメとラブ‐ロマンスを演じ、天智彦の魂を救った、遙か遠い異国の御魂である。
天智彦は御魂への引け目を自覚していた。一方で、御魂は天智彦の魂を尊重し、肉体の主導権を元の主へ返そうとしていた。
天智彦はウズメに対する負い目もある。互いが肉体を譲り合って、肉体が宙ぶらりんになっているのである。
「・・・何故、天智彦を呼ぶ」
天智彦がやっと口を開いた。御魂に己の魂を押されて、漸く出てきた言ノ葉だ。
天智彦の肉体の眼が眇め、仄かに頬に紅みが差す。
「高木を厭う赤子の霊が消え、この血肉を護る魂の存在を確認できた今、天智彦の魂が在る必要は何処にも感じない。君はその・・・この奥に在る魂と好き合っているのであろう」
天智彦は自身の唇に触れる。ウズメはその仕種につい、ドキッとした。併し其は、御霊から受けた口づけではなく、自分から天智彦にした接吻を想起させる。
「・・・・・・御魂であれば、鈴鹿の事も可愛がって呉れるであろうしな」
天智彦が御簾の取り払われた廊下に視線を向ける。
鈴鹿が部屋との境になる柱に身を潜めて、室内を見ていた。びくりと震えるその小さな肩を見て、天智彦はふっと鈴鹿から視線を逸らす。
「――――莫迦ね」
『――――莫迦だな』
どくん・・・っ、と、背の内側から強く押された様な感覚がし、天智彦は椅子から前のめりに墜ちた。己の肉体の扱いに慣れない天智彦は受身を取り損う。
「・・・っ」
「兄上」
!そんな天智彦を墜落から守ったのは他ならぬ妹の鈴鹿だった。巻きつける着物の奥は存在しないかも知れない程に頼り無い身体を放すまいと、天智彦の身体をギュ、と抱しめる。
「鈴鹿・・・」
「今迄さぼっていた所為よ。自分の身体は、きちんと自分で管理しなさい」
ウズメの笑顔に違和感が走り、また天智彦は心が軽くなる感覚に己が胸を掴む。
「御魂・・・!?」
と叫んだ。
“―――何を云う。肉体は初めから天智彦を求めている”
「併し」
“妹御だって、天智彦を選んだ”
天智彦ははっと、改めて鈴鹿を見る。鈴鹿は涙を必死に堪え乍ら猶も天智彦にしがみついている。
「―――宇受賣は、其で良いのか」
「男のクセに、口数は多いし小心者ね」
ウズメは突き放す様に返した。
「・・・魂を留め置くのはだめだって云ったのは、貴方じゃない」
――――・・・ 嗚、之は、哀しみを堪えて哂っているのだ
「―――魂を留め置くのは」
―――フワリと気配がしたのは、ウズメの隣にかれが立ってからだった。このクニの神は皆そう。魚すらも棲みつけぬ程澄み切った、無音の水面の様に清らかな魂。故にその湖畔には何ものもいないかの様に静かで、声を発しなければ傍に立つ迄気づかない。
「・・・危険な場合もあるけれど、御霊の魂はもう浄化されているよ。
天智彦を護る事に縁ってね」
「天児屋命―――」
「そんな堅苦しい云い方はやめておくれよ。私は託宣の神、君達の力になれると思ってまた来たんだ」
「そんな・・・先日の御礼もまだなのに」
咄嗟の言葉が未だ見つからない天智彦より先に礼を云うウズメに、天児屋はにっこりと微笑んだ。
「君はとても良い子だね。そして、御霊もとても気高くて律儀だ」
体内の魂が共鳴する感覚を天智彦は捉えた。ふと、内と外を仕切る垣の向うを見遣ると、小さな童の姿が視える。眼が合い、何かしらの違和を感ずるも、正体を掴めない侭、彼はその違和感を忘れて仕舞う。
「御霊に肉体を与えてあげられるよ」
御霊の魂が大きく揺らいだ。ウズメの大きな瞳が揺れる。
そして何より、天智彦の“心”が大きく揺れた。
「その様な事が・・・可能であるのか」
「天智彦。魂は、切ったり貼ったりが出来るんだ。御霊は自我が関与しない一部分だけを遺して去る心算でいる様だけれど、霊力も実は分割できる。之迄君が沢山の魂から貰った霊力を御霊に分け与えれば、かれは肉体を得る事が出来るよ」
“併し”
ウズメには聴こえない天智彦を介しない御霊の言葉が、天児屋には解る。御霊が皆迄云う前に、天児屋は肯いた。
「そうだね。でも、其でも天智彦の内に在る霊力は天智彦の魂を大きく超えるだろう。魂が霊力をコントロール出来るかどうかは今後の天智彦次第だからまだ何とも言えないけれどね」
御霊が何を云っているのか判らないウズメが不安と焦燥の色を浮べる。
「だから、斯う考えるのは如何かな」
天児屋はそんなウズメを流し見て再び焦点を天智彦に戻し、併し天智彦を見ていない、遠く視透かした様な眼で言ノ葉を続けた。
「天智彦が自立できるようになる迄、君が天智彦を守ってあげるのさ」
え。天智彦の内に在る二個の魂が同じ反応を示した。魂同士が向き合っているのは天児屋にしか視えない。
何れの魂もがウズメの方を向いた刻に、天児屋は思わず吹き出して仕舞った。
「え???」
ウズメは益益不審な眼をする。
“―――然ういう事にしておいて遣るか”
「・・・・・・好きにし給え」
天智彦の感情が天智彦の肉体を通し表情筋に現れる。心なしか、紅潮しているかも知れない。
「―――決りだね」
「えっ!?」
―――天児屋が穏かな声で云った。ウズメの知らない処で勝手に話が進んでいる。
ウズメが天智彦の許へ駆け寄り、顔を覗くと、彼は真直ぐにウズメを見つめていた。
左右で表情のつくりが微妙に異なる。一方は齢相応の天智彦の貌。もう一方は―――・・・
併し、そのどちらもが、決意の籠った、逞しい、頼り甲斐のある貌をしていた。
「―――大丈夫だよ」
・・・天児屋の声が雨の様に、ウズメの頭の上に優しく降り注いだ。ウズメは反射的に見上げると、天児屋の頬骨が真上に在った。
(―――このひと、こんなに男らしかったかしら―――?)
「・・・とは謂え、全く双児の様に属性も、能力も平等に振り分けるのは至難の業でね。偏りが出て仕舞うのは、大目に見ておくれよ」
―――その言葉を最後に、辺りは光に包まれた。




