Ⅸ.擦れ違い
『ねえ、今日はちょっと、外に出てみない?』
今宵渡り廊下にて交した温もりは夢ではなく、ふたりの距離も、そして外に出られる日も近づいているのは記憶から忘れ去られていなかった。ウズメは声を弾ませて、だが気を窺う様に、目覚めた許の御霊に云うた。懸命に自然さを装っていたが、彼女の黒眼がちの瞳は雨に濡れた様に潤い、火に焼かれた様な肌は未だ熱を帯びている。
天智彦の指先がぴくりと震える。目覚めた許の所為なのか、最初その顔にはぼんやりと表情が無かった。其がゆっくりと口角を上げる。
『―――そうだな』
ウズメが足を布刺繍靴に押し込め、羽衣を纏う。この御霊で無ければ、ふたりにとって外出なんて夢のまた夢。
幽閉されていた時期も含めて碌に外へ出ていなかったウズメは、其は其は心の底から喜んだ。
『・・・やっぱりだいぶ変っているわね。良い方向にだから文句は無いけれど』
・・・ウズメが志賀島から筑紫へ連れて来られた時は、乾燥し切った茶一色の凸凹した地面に同士が狗の如く這い蹲らされていた。其が今では空上の雲を映す透明な水が張られ、瑞瑞しく日光を返す緑の葉達が幾重にも直立していた。同士達は二本の足で立つ事を赦され太陽に微かに近い位置にいる。
ウズメは部屋を出ている間の天智彦の姿を知らない。天智彦が約束を守って呉れたのかも知れないし、天智彦の肉体に憑いたこの霊が革命を起したのかも知れない。将又、自分の霊妙な舞を怖れていた天智彦の父が先手を打ったのかも知れない。
だが、ウズメにとって誰が遣って呉れたのか、其は如何でもよい事であった。
『ありがとう』
・・・恐らく、今迄一緒に遣ってきた中で最も素直な気持ちの告白だろう。涙目乍に最高の笑顔だった。
『・・・外にも連れ出してくれて、ありがとう。天智彦も初めて外に出た筈だから、屹度貴方に感謝しているわ」
・・・どこまでも出る、天智彦の名前。先程礼を云われたのは自分か或いは天智彦なのか、判断が最早つかないのはこの御霊とて同じであった。
天智彦の手がウズメの着ている服の袖を引っ張った。そのびらびらとした袖をもつ豪奢な漢服を彼女の為に用意したのは誰か。
ウズメが天智彦の目線に合わせてしゃがむ。すぐにふわっと彼女の頬を、柔かな絹の感触が掠った。
間も無く、過去に触れた唇が叉ゆっくりと下りて来て、ウズメの唇を捕まえる。
『――――・・・』
ウズメにとってはやはり不意の出来事であった。口づけを交したという今この状況を確認する様に、ウズメは暫くは目を見開いた侭だったが、軈て静かに目を閉じ、唇のゆく末を相手に委ねた。
自分から唆しておいて、恐慌情態になっているなんて余りにも無責任ではあるまいか。
以前の変態霊に迫られたのと比べれば遙かにソフトなものであったのは確かで、あの肉体とは実質2回目であったとは謂え、自分でも不思議な位にウズメは落ち着いていた。寧ろ後味の良ささえ感じている。同じ肉体である筈なのに、之程迄に反応が違うのは、憑いている御霊の違いだけではないと信じていたのに。
天智彦はその夜、久久に表層として意識を現した。其も、異様な格好で。
彼の意識は入浴中に突如、解放されたらしい。少なくとも傍からはそう見受けられる。宦官やらに頼ればよいものを(御霊が恐らく人払いをしていたのであろうが)夏とはいえ薄衣一枚で、而も其を身体も拭かず適当に腹の辺りで結んでいるだけで(努力の跡が見られなくもなかったが)髪に至っては絞れば床に水溜りが出来る程に大量の水を含んでいた。水も滴る何とやら、なんてものではない。
天智彦は水を被って衣もびしょびしょの状態で、併し顔だけは熱でもあるかの様に紅く、御簾の前まで来ると
「宇受賣、開け給えっ」
と急かす様に云った。
「えっ、天智彦!?開け給えって・・・自分で開けなさいよ。って・・・何て格好しているの貴方!!」
ウズメは器用にも全てに対してツッコんでみせた。天智彦は柄にも無く恐慌情態で、ウズメに何か云って遣ろうとわなわなと震え乍待ち構えている。
「君は一体何の心算だね」
えっ。肩甲骨辺りで切り揃えた烏羽色の髪を慌てて拭くウズメは、浴布に隠れて見えない天智彦の顔を見下ろした。
「何よ」
「君は本当にあの御霊を成仏させる気はあるのかと訊いているのだ!」
天智彦は憤然とした様子で顔を上げた。天智彦のしっとりした髪と浴布の間に空気が入り、浴布が髪から剥される。ふわりと浴布が空中を舞い、木張りの床を滑った。
「・・・君は、若しかしてあの御霊がずっと私の肉体に留まればよいと考えてはいないかね」
「――――!」
―――その疑いは、ウズメの心を鋭く抉った。遺憾さに眉をつり上げるも、同時にどきりと引っ掛るものがあるのを否定できなかった。
「―――何を云っているのよ」
ウズメは其を掻き消そうとせんが為にきつい口調で返す。併し天智彦の濁りの無い瞳に見抜かれている様で怖く、引っ掛った其は己の脳内全体を侵している様で其も叉怖かった。
天智彦はいつも意識を霊に支配され、自身の意思は監視され封じられて、霊の怨念に常に侵食されている。自分は自分のものではないのかというウズメが一瞬揺らいだ確信が、天智彦は四六時中揺らいだ侭だという事を考えれば、この痴話喧嘩の解決は早かったのだが、そこまで汲める程ウズメもまだ成熟してはいなかった。
「―――いいかね。君が何処の誰と情事を交していようとも、私には関係の無い事だ。だがね、君は今回如何様な相手と恋仲に落ちようとしているのか、自覚は有るのかね」
「だから、何の事よ!」
ウズメはムキになって叫んだ。ムキになっているのはどちらかと謂えば天智彦の方であったが、ウズメも充分にムキになっている。
昼間の口づけを忘れた訳ではないが、本人の意思が伴わぬ接吻は事故と同じ。そう思おうとしていた。
「御霊は此岸の者ではない。此の世に留まった処で、孰れ禍となって害悪を及ぼす存在となる。君はその手伝いをしているのだぞ」
「珍しく出て来たと思ったら何!?・・・天智彦、貴方何か勘違いしてない?あの霊とは何も無いってば!」
「ならば、あの時、何故接吻を拒まなかったのかね」
っ!そちらから勝手に口つけてきたくせに、何故自分が責められないといけないのか。ウズメは気づいていないやも知れないがその顔は紅く染まっていた。一方、天智彦も告白の最中であるかの様にらしくもなく頬を染め、真剣だった。
「あ・・・、貴方とは前にも・・・」
「以前は抵抗したではないか。この身が死にそうになる迄殴って。あれとあの時で何がどう違っていたというのだ」
「状況が違うわ!」
ウズメがそう云うと、天智彦は不可解そうに片方の眉を上げた。
「―――同じではないか。どちらも私の肉体であり、どちらも私の意思では無い」
「そうね。でも、其だけじゃない。あの頃は霊にも慣れていなかったし、男の人にも慣れていなかったから」
「御霊に慣れていて相手が男なら、君は誰にでも唇を寄せるのかね」
「・・・・・・!!」
天智彦はどういう受け取り方をしたのか、露骨に愕いた顔をすると軽蔑の視線をウズメに浴びせる。遊行女婦でも見る様な其は、ウズメに屈辱の種を植えつける。
「悪かったわね・・・・・・!!」
ウズメは叉も、被害的な想いに駆られる。だって仕方無いじゃない。他者にわざわざ媚びずとも思い通りに生きられる女など在ない。女は捧げられるものだと育てられてきたのだから。
「・・・・・・いいじゃない。貴方には関係の無い事でしょう、あたしが何処の誰と何をしていようと」
「俟ち給え。君と散歩に出掛け、語らいをしているのは、私の肉体なのだぞ」
「だから?」
ウズメの声はとても冷たかった。
「―――あたし、天智彦の事なんて見ていないから」
・・・・・・天智彦が、ゆっくりと眼を見開く。
「呼んでも出て来てくれない貴方より、いつも傍に居てくれたあの霊の方が・・・・・・あたしにとっての“肉体の持主(天智彦)”だから」
!宇受賣っ!! 天智彦は叫んだ。ウズメは天智彦の脇をすり抜け、御簾にぶつかって部屋を去った。御簾は突風に吹かれた様に翻る。ウズメは泣いていた。其は産れてすぐに見た、母の涙によく似ていた。・・・気丈故に、悲しみの深い一筋だけの涙。
「俟つのだ、宇受賣・・・・・・!」
ちくりと天智彦の心も痛む。ウズメが己の肉体に御霊の幻相を視ていた事は、疾うに解っていた。周囲の者もこの肉体と高木家後継という地位があれば、御霊の魂の侭でもよいと思い始めている事を知っていた。承知は・・・・・・していた筈だった。
ウズメを追い駆け外へ出た。併し長く真直ぐな廊下に、ウズメの姿はもう無かった。ウズメに逢いに来た鈴鹿が、廊下の端でびっくりした顔をして立ち尽している。
「・・・・・・兄上・・・?」
鈴鹿の天智彦に対する警戒も、少しずつ解けてきている頃だった。
天智彦は鈴鹿の頭に手を乗せる。鈴鹿は咄嗟に首をすくめたが、はにかんだ表情になりその頭を兄の掌に預けた。撫でられると思ったのだろう。
併し天智彦は何やらぶつぶつと一頻呟き、突如ぐっと鈴鹿の頭を鷲掴みにした。
「――――!?」
鈴鹿の表情が恐怖に変る。天智彦は満悦しそうに顔を綻ばせ、鈴鹿の戦慄く表情を玩味わう様にじっくり視ると、一言、云った。
「去ね」




