第42話 魔境への旅支度
旅の極意とは何か。
それは「我慢」ではない。「日常の持ち運び」である。
枕が変わると眠れない?
なら、枕を持っていけばいい。
外のトイレが汚い?
なら、綺麗なトイレごと移動すればいい。
「……完璧です」
王宮の裏手にある専用ガレージ。
そこに鎮座する巨大な物体を見上げ、私は満足げに頷いた。
「エリアナ。……これは、本当に馬車なのか?」
隣で、旅装束に身を包んだクロード様が、あんぐりと口を開けている。
彼の足元には、大型犬サイズになったルンが「でかい!」と尻尾を振っていた。
「ええ。名付けて『特注・居住型魔導馬車』。通称、『動く引きこもり部屋』です」
外見は、真っ白な箱型の馬車だ。
ただし、通常の馬車の二倍はある。
車輪は四つではなく八つ。
すべてに帝国製の最新サスペンションと、衝撃吸収魔法陣が組み込まれている。
牽引するのは、王家最強の軍馬四頭だ。
「さあ、中へどうぞ。内覧会です」
私がタラップを下ろすと、プシューという気密性の高い音がした。
◇
中は、驚くほど広かった。
空間拡張の魔法は使っていない(魔力消費が激しく、魔境では不安定になるから)。
その代わり、徹底的な「収納術」と「可変ギミック」が駆使されている。
「玄関を入って右手がリビング兼ダイニングです」
壁に収納されたテーブルを引き出す。
椅子も床下からポップアップする。
ソファは、夜になれば広げてダブルベッドに変形する仕組みだ。
「左手はキッチン。魔導コンロ二口と、氷魔法を使った冷蔵庫を完備しています」
さらに奥の扉を開ける。
「そしてこちらが、最新式水洗トイレと、簡易シャワー室です」
「……馬車の中に、風呂があるのか?」
クロード様が絶句した。
「魔境の泥や瘴気は、その日のうちに洗い流さないと肌荒れの原因になりますから。水は循環浄化式です。私の魔力で常に清潔なH2Oを供給します」
「……君の『快適』への執念は、時々恐ろしくなるな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
私は入り口の壁に設置された、小さな魔道具を指差した。
水晶板に、時計の針が浮かび上がっている。
「そして、これが今回の旅の最重要アイテム。『魔導タイムカード』です」
「タイムカード?」
「はい。今回の旅は『ルンの引率』という業務です。したがって、この馬車から一歩外へ出たら『出勤』。中に戻ったら『退勤』とみなします」
私は宣言した。
「外では、私は王弟妃として、魔導師として働きます。魔獣の撃退も、野営の準備もしましょう。……ですが!」
私は人差し指を立てた。
「一度この扉をくぐり、カードを『退勤』に切り替えたら、私はただのエリアナに戻ります。仕事の話は一切禁止。魔獣が吠えていても無視して、お茶を飲み、本を読み、寝ます」
「……なるほど。オンとオフの切り替えスイッチというわけか」
クロード様は苦笑しつつも、納得したように頷いた。
「いいだろう。魔境の緊張感に飲み込まれないためには、そういうルールが必要かもしれないな」
「ご理解いただけて何よりです。……では、荷物の積み込みを始めましょう」
◇
荷造りは、価値観の衝突から始まった。
「エリアナ。このスペースには、予備の剣と解毒ポーションを詰めたいのだが」
クロード様が、物々しい木箱を持ち込もうとする。
「却下です。そこは私の『入浴剤コレクション』と『アロマキャンドル』の場所です」
「……は? 命を守る道具より、風呂の粉を優先するのか?」
「クロード様。魔境での死因ナンバーワンは何かご存知ですか?」
「魔獣による襲撃だろう?」
「いいえ。『ストレスによる判断力の低下』です」
私は力説した。
「ギスギスした心で剣を振るうより、ローズの香りで熟睡した翌朝の方が、生存率は高まるのです。……ポーションなら、最小限の濃縮タイプを私のポーチに入れてあります」
「……ぐうの音も出ない」
クロード様は剣を一本に減らし、入浴剤のスペースを空けてくれた。
物分かりの良い夫で助かる。
続いて、食料だ。
魔境には食品店もレストランもない。
現地調達できるのは、毒々しい色のキノコか、硬い魔獣の肉くらいだ。
「そこで、これの出番です」
私が床下収納から取り出したのは、大量の銀色のパッケージ。
「これは……?」
「『圧縮保存食』です。帝国との外交の際に考案した技術の応用ですね」
食材を一度凍らせ、真空状態で乾燥させる。
栄養と風味を損なわず、重量は十分の一以下。
お湯を注げば、瞬時に出来立ての味が蘇る。
「メニューは豊富ですよ。クリームシチュー、野菜カレー、リゾット、そして食後のデザートにフルーツポンチも」
「すごいな……。これなら一ヶ月籠城しても飽きないぞ」
「ルンのご飯も、馬車から出る生活廃棄物で賄えます。完全なエコシステムです」
「ママ、ご飯!」
ルンが期待に満ちた目でゴミ箱を見つめている。
頼もしい掃除機だ。
◇
準備は整った。
ガレージの外には、見送りの人々が集まっていた。
「エリアナ様……っ!」
シルビアさんが、ハンカチで目元を抑えながら駆け寄ってきた。
その手には、重箱のような包みが抱えられている。
「シルビアさん。留守をお願いしますね」
「はい……! ですが、やはり心配です。魔境などという恐ろしい場所へ……お供できないのが悔やまれます」
彼女は今回の旅には同行しない。
魔境の環境は過酷すぎるため、戦闘力のない一般人は連れて行けないのだ。
「大丈夫ですよ。この『動く要塞』がありますから」
「はい。……こちら、道中で召し上がってください。シルビア特製、究極の幕の内弁当です」
「まあ!」
受け取ると、ずっしりと重い。
中身は見えないが、早起きして作ってくれたのだろう。愛を感じる。
「ありがとうございます。最初の『退勤後』に頂きますね」
「行ってらっしゃいませ。……ルンちゃんも、いい子にするのですよ」
「シルビア、またね!」
ルンがシルビアさんの手をペロリと舐めた。
シルビアさんは涙目でルンを抱きしめた。
すっかり孫を可愛がるおばあちゃんのようだ。
「では、出発しようか」
クロード様が御者台に座り、手綱を握った。
今回は彼が御者を務める。
もちろん、ただの手綱さばきではない。
馬たちに強化魔法をかけ、自動操縦に近い形で制御するのだ。
「エリアナ、乗ってくれ」
「はい」
私は馬車に乗り込み、窓を開けた。
「行ってきます!」
「ご武運をー!」
「お土産話を待ってますー!」
騎士たちやメイドたちの声援を受け、馬車が動き出す。
滑らかな滑り出し。
振動はほとんどない。
王都の門を抜け、街道を北へ。
目指すは地図の空白地帯、竜の谷。
本来なら、悲壮な決意で挑むべき冒険旅行。
けれど、今の私たちには、そんな気負いは微塵もない。
車内には、アロマのいい香りと、シルビアさんのお弁当の匂い。
足元では、ルンが床に落ちたパン屑を探して冒険している。
「……ふふっ」
私はソファに背中を預けた。
これは冒険ではない。
少し遠くへの、ドライブだ。
「……クロード様。お茶、淹れますね」
「ああ、頼む。……天気もいいし、最高の旅になりそうだ」
窓の外、遠くに黒い雲(魔境の入り口)が見えてきた。
普通なら恐怖を感じる光景だ。
でも、私にはこの「最強の馬車」がある。
定時になったら、カーテンを閉めてしまえばいい。
そうすれば、そこはただの、幸せな我が家なのだから。




