85 どうか、この腕のなかで
「『あるべきものを、あるがままに。無は無へと帰すように』。あのとき、私はそう願ったんだ」
スイとセディオはレギオンの背に相乗りしてフランを迎えに行った。
街道は眼下に遥か遠く、人びとは豆粒ほど。セディオは腕のなかの細い腰を再度閉じ込めた。
「こら。聞いてる?」
「もちろん聞いてる。それで?」
訊き返しつつ、たなびく黒髪に鼻筋を埋める。セディオの懇切丁寧な相槌に、スイは苦笑した。
「以前……最初に職工の街を出たとき。《輝水晶の谷》に転移したの、覚えてる?
あそこは門の子の力がつよいから、時間の流れがなかった。『門と時の精霊は相容れない』――原理的にはそういうこと。ヨーヴァは擬似的な『門』を作り出したんだ。あの場所で。
最初にアメシストを純粋な『力』に変えた。それを用いてオニキスの体にスイを宿した。この場合、ひらかれた門はオニキス。
今、私に内在する魂は……実は二つある。彼は優しかったから、無理矢理注がれた私を受け入れてくれた。ヨーヴァが行使した歪んだ魔術もそのまま、人間の女性への変化も何もかも。みずからの意思をほぼ、私に溶けさせることで」
心なしか声音と体が固くなる。
セディオは、それを目を閉じて感じた。
「……今、ここにいるのは『スイ』?」
「うん」
「なら、それでいい。俺は、国の宝だった『始まりの紫水晶』もその精霊も知らない。他の何が混ざっていようと、あんたが好きだから」
「………………う、うん」
「……」
照れてる。
絶大に照れている。
顔が見えなくたってわかる。
(関係ねぇよ。人間じゃん、まんま)
込み上げる愛しさのまま、セディオはスイの耳元に顔を寄せた。
「はぁ……やっぱ俺、男の体がいい……。めちゃくちゃ落ち着く」
「私は落ち着かない……あの、続き、聞く気ある?」
「ありますあります」
「もう!
――――と。
天馬のレギオンがうっそりと半眼になり、砂糖を吐きそうになるほど甘い空気を醸す二人の会話は、目指すフランがさまざまな采配を振るう広場上空に辿り着くまで続いた。
曰く。
アメシストの粉とオニキスの変化を媒体に、術が執り行われた塔が擬似的な『門』となったこと。時の精霊を含む他の元素霊の誰も寄り付かないような、特殊な結界が張られたこと。
人間だったアナエルの魂を琥珀の体に移し変えた瞬間、それは呪いじみた場と化した。すべての鉱石の母たる地の司の息吹を受けたアメシストの『力』に、正面切って抗える宝石などいない。
けれど、アンバーは魂を無理矢理書き換えられた。それは、精霊としての喪失だった。
ただの人間に過ぎなかったアナエルは魂を剥がされた時点で死んでいる。つまり、琥珀色の彼女は生ける屍だった。骸とならなかったのは、歪んだ『門』の気配が濃すぎて『時』が作用しなかったからに過ぎない。
二度に渡って忌まわしい術に手を染めたヨーヴァ自身にも、『時』の作用は緩慢となった。あれは急に老いたのではない。本来なら、あれほどの時が流れていた。
「……昔。ミゲルに、たくさん謝られた。でも、とても憐れんでたんだ。彼を」
――――すまない。あいつを止めることも諌めることもできず。きみに、たくさんの宝石たちに癒えない傷を負わせた。悲しい思いをさせた、と。
でも、知ってる。
ミゲルがいちばん悲しんでいた。
実の息子を救えなかったくるしさと、大切な我が子とも呼べる、宝石の精霊達への愛情の板挟みで。
(歪みを正すことでしかヨーヴァを救えないだなんて、認めたくなかった。本当は、私だって手を下したくなんてなかった……)
矛盾。
葛藤。
あやまち。
見ない振り。
そんな諸々の御しがたい感情を。己のあり方を、スイは改めて自覚する。胸の裡の一部が荒れさざめいている。
唇を噛み、浮かんだ涙をさりげなく振り払った。つとめて明るく問いかける。
「ね、セディオ。私は『人の子』? ちゃんと人間かな」
「この上なく」
「! わっ!?」
頬に啄むような口づけを受けて、不意打ちとくすぐったさに、スイは身じろいだ。
玉を結ぶ涙の粒はみごとに無視されている。
もう、着くんですけど――? と、言外に嗜めると、顔のすぐ横で端正な微笑。
ただし、いたずらな。
愛しさに満ちた笑みだった。
「人間だよ。かけがえのない、この上ない宝。俺にとって、たった一人の『女』だと思ってる。
……だからさ、もう置いてくなよ。危なっかしいから。ずっと、腕のなかに居てくれ」
「!!」
言葉が。
返事が喉の奥に詰まって、息ができない。
上がる体温。
不規則になる脈動。
忙しなく瞬いてしまう瞳。
こういうとき、黒はすぅっと隠れてしまう……。
スイは、いまや自分の双眸が曙の紫雲色に染まっていることを疑いもしなかった。
「綺麗だよな。スイの目。俺は好きだよ。黒いときも。混ざってるときも。いつだって愛してる」
「――――ッ!!!??」
(お願いします、それ以上は)と。
妙齢の魔術師が乙女そのものの可憐さでぼそぼそと背の恋人に訴えかけたのは、空を駆ける天馬を見上げ、目を丸くするフランを認めてすぐのことだった。




