47 第三層への近道
落ちる。落ちる、落ちる。
穴は意外に大きく、真下へと続く形はほぼ真円。その筒状の縦に伸びた通路ーーと呼べるか定かではないがーーを、スイは降った。
精霊に助けは乞わない。ひたすら引力に任せ、落ちている。
耳許では間断なく風が唸り、外套の裾はパタパタパタ……! と忙しなくはためく。風圧で目を開けるのはつらい。瞼は潔く閉じている。
穴に飛び込んだときは足が下だったが、今は頭が下。このままいけば悲惨な状況となるだろう。
が、そうはならないと熟知していた。
(そろそろか)
経験での目測。体感での距離。
黒紫の目を薄くひらいた魔術師は、“風の子……”と、ささやいた。
ーーーバッ!
視界と風圧が、劇的なまでに変わる。
つかの間、スイの体を支配したのはある種の滞空感。ひゅうぅぅぅ……と、落下に伴う風鳴りが高く、乾いた音に変わった。
広い。
おそらくは円形のドーム状。その大空洞の広さは、ちょっとした村程度。
且つ、明るい。
ここが地底湖より更に深い下層だということを、忘れてしまうほどに。
ーーー敷地の周縁、やや片側寄り。
面積にしておよそ半分を占める黄金の穂波は丹精に育てられた小麦畑。
だんだんと近付いてくる白い正八角形は、《学術都市》の地下唯一の建造物である四阿の屋根。その周囲を柔らかそうな草地の緑が飾り、季節を問わず咲き乱れる花々が囲む。溢れんばかりの実をつけた木々も。
その昔、ここを訪れた人びとの話がやがて、おとぎ話となってしまったのも頷ける。
そんな夢幻のうつくしさだった。
スイは、今度はしっかりと声に芯を通し、周囲の元素霊へ歌うように請願を織り上げる。
“おいで。ありったけの風の子。ゆっくりと受けとめて。このまま真下へと運んで”
決して大きくはない、高くも低くもない耳触りのよい声に乗せられた願いは、忽ち聞き届けられた。
地下とは思えぬほど目映い緑の光の粒が、落ちる魔術師の身体を包む。
その粒子、一粒一粒を視認できるスイの脳裡には、かれらの思念のようなイメージまでが珍しく、つよく届いた。
(……『もっと早く喚んで』、か)
緊迫感の欠片もない整った顔に、にこっと笑みが浮かぶ。楽しげな口許は再び言語を紡いだ。
“ありがとう風の子。ごめんね、遅くなって。
いま私を受けとめてくれたように、あとから来る三組も助けてあげてくれる? 怖がらせないように。出来ればとっっても、優しく”
“……”
ややあって『是』と返されるイメージ。
ーーどうやら大丈夫そうかなと、それなりに詰めていた息を吐き出した。
ふわっ……と、ブーツの爪先が草地に触れる。
ひゅうぅぅ……と一巻きの風が足元から頭へと抜けるように螺旋を描いて巡り、緩くほどけてゆく。
サラサラと黒髪が肩と背に滑り落ち、衣服と外套はふたたび身体の線へと添い戻った。
風の元素霊への魔術が継続しているのを肌で感じたスイは、まっすぐに四阿を目指す。
地属性の宝石らにとって。また、命あるものの母として。
朽ちた後はやさしく受けとめてくれる安らぎの象徴でもある、偉大なる大地の力の司。
踏みしめる土とクローバーの柔らかさについ微笑を浮かべつつ、スイはまるで実家へ帰った娘のような気安さで彼女に語りかけた。
「ただいまアーシィ」
ラウンド状に中央が盛り上がる八角形の四阿の屋根の下、階段を二段あがった先に開放的な席が設けられている。
シンプルなテーブルと椅子が五つ。椅子は背もたれのない簡素な箱型のもの。そのすべてが質の良い大理石だった。
奥の座に肘をつき、ゆったりと腰かけた美女は優雅な笑みを口許に湛え、心からの歓喜を露にする。
「おかえりスイ。いとしい、わたしの流転の子」
しゃらん、と硬質な響きが四阿を満たす。
小首を傾げた地の司の、深く淡く色合いを違えて揺らぐ、紫の不思議な髪が奏でる音だ。
瞳はつややかな黒。それはとびきり上質な黒曜石に似ていた。或いはーー……
そこまで考え、スイはほろ苦く笑んでアーシィの左隣へと腰を降ろした。「流転、は言い返せないなぁ」などと溢しながら。
「他の子達は? 地の小人を迎えに寄越したのだけど」
「あ、私だけ先に来たの。そろそろ来ると思う。風の子らに頼んでおいたから」
「ふうん?」
母娘……というより、仲のよい姉妹にも映る彼女らの耳に、はしゃいだ少女の楽しげな声や絶叫に近い少年の声が届くまで、あと少しだった。




