45 それぞれの石
“其方らに祝福を”
それだけを実に素っ気なく告げたアクアは、浜辺に降ろしたかれらを省みることなく、ふいっと来た方向に蛇体を捩ると同時にチャプン、と消えた。水に沈んだ……というより、水そのものと同化したらしい。
「……ご気分を、害されたんでしょうか」
炎の司と違い、一人一人に声を掛けることなく去った彼女に、キリクの表情が曇った。
弟子の少年を慮ったスイは、おや、と苦笑する。いっそ申し訳なさそうですらある。
「大丈夫。アクアは元々、人の世に全く興味がないんだ。他の人を連れて来ても姿を見せたことはなくてね。今回は顕現して、あぁやって優しく運んでくれたわけだし。キリク達のことは気に入ったんだと思うよ?」
「……お師匠さまの、昔の持ち主や僕のおじいさまが来たときも、あんな感じでした?」
訊かれた内容が意外だったのか、黒髪の魔術師の眉がぴん! と跳ね上がった。一瞬後、「そうだね……」と、懐かしげに瞳を細める。
「あのときのアクアは怖かった。私はまだ色々と経験の少ない紫水晶の精霊だったし、かれらも若かった。……会えばわかると思うけど、昔の私の人型はこれから向かう第三階層の主、アーシィの姿に似ててね」
「はい……?」
一行は、スイの語り口調に惹き込まれたように聞き入っている。が、動き始めた彼女に従い、歩き始めた。
キュ、キュ……と、足元の砂が鳴る。とても細かい砂だ。それが四人分。
水晶の林は深く、奥へ進むほどにその高さを増している。今はまだ足首までしかないが、遠目に見える下り坂の入り口周辺には、エメルダの背丈ほどの塊もあった。
「ずっと、本体の宝石はアーシィが持ってたんだよ。だから、里帰りみたいなものだと甘く見てた節があって。サラ……サラマンディアはあの通り人の世に興味津々だからね。あっさりとかれらの移住を認めてくれた。アーシィもね。問題はアクアだった」
「……まさか、問答無用で攻撃されたのか?」
半ば確信に満ちた低い声。セディオの問いにこくり、とスイは頷いた。
「うん。さっきの湖、最初は誰もいなくて急に水が渦巻いたでしょう? あんな感じでね。水弾・津波は挨拶程度。ひどくなると鋭い氷弾になる。あれはだめだね、えげつない。氷水の結界の流用でこっちの火の結界を水蒸気で役立たずにしたり……土の結界はぐずぐずに溶かされちゃうし。風の魔法は、地下だから効きが悪い。“門の子”に境目だけ異界に隔離してもらう方法を思いついて、ようやく互角に戦えるようになったんだ」
「えぇと? 師匠。聞き違いじゃなきゃそれ、立派な戦闘よね? アクアさん、本気で殺しにかかってるよね……??!」
ーーそれがなぜ、あぁまでスイにべた惚れになったのか。
三名が同時に抱いた疑問は次の瞬間、魔術師本人の晴れやかな笑顔で払拭された。
「どうもね、私がかれらに連れ去られて、無理やり使役されてると勘違いしたらしい。あの時の私は指輪の姿を好んでて、持ち主に身に付けてもらってたから。
でも、アクアとは対話の必要性を痛感してね……。人型をとったアーシィからみっちり“失われた言語”の発音を習って、後日私だけで地底湖に行ったんだ。
……一発で認めてもらえた。あやうく水底に引きずり込まれそうになったけど」
(((あ……っぶな!!! 何、その命がけの対話っ!?)))
またしても、スイ以外で心の声が一致した。
「まぁ、今となってはいい思い出だよ。私もアクアは好きだし、問題ないから……そろそろ石を選ぼう? アクアも別れ際、『好きな石を好きなだけ選ぶといい』と、言ってくれたことだし」
しれっと促す右手の先。
確かにそこは、見事なクリスタル・クォーツの柱が岩肌を覆う、透明な光の乱反射による虹の坩堝だった。
よく眼を凝らすと、草入りのもの、気泡を閉じ込めたもの、乳白色のものなど様々だ。
「わっ……すごい、たくさん。どれも綺麗……!! 師匠のもここで?」
「うん。有無を言わさずアクアに押し付けられた無色透明のやつ。……いや、嫌いじゃないよ。好きだよ、うん」
「いいんですか? そんな基準で……」
キリクが珍しく、スイを気の毒そうに眺めている。
スイは特に気にした様子もなく軽く吐息し、ひょいっと肩をすくめた。
「いいよ。要は、一生涯気に入って身に付けられる素材なら何でもいいんだ」
「それ、結構悩むわね……あ。でもわたしは、師匠と同じがいいって決めてたから。これにするわ! キリク、採って?」
「え? あ、うん。いいよ。ちょっと待ってて」
ごそごそ、と腰のポーチから養い親譲りのノミと木槌を取り出すキリク。天然の水晶群を前に、きん、と気配を研ぎ澄ませる。
最も、高い透明度。最も澄んだ結晶体ーー
空色の瞳がつかの間、感情と温度の一切を消し去る極度の集中。
(これかな)
胸に浮かべる言葉はあくまで優しく、しかし手つきは無駄なく。
狙い定めた六角形の結晶の根元にノミの刃先を当て、躊躇せずコンッ! と、一打ち。
ぽろっ……と零れたそれを、素早く持ちかえて空けた左の手のひらで、危うげなく受け止める。「はい」とそのまま、翠の妹弟子へと手渡した。
「ありがとう……! さすがキリク、格好いいっ!」
「えっ……? な、何で? 採っただけなのに??」
「それがいいのよ。ねぇ、師匠?」
「うん。すごく格好よかった」
「ーーーッ!! も、もういいでしょう? さぁ次! 次、行きましょうっ」
「はいはい」とゆるく応じる師。
にまにまする妹弟子。
彼女らを置き去りに、キリクはどんどん幅が狭くなる通路を、さらに奥へと突き進んだ。
その十二歳にしては華奢な背を、エメルダも「待ってー!」と、慌てて追う。
「……」
スイは、しずかに水晶の壁面を撫でる青年の側へと近寄り、真剣な横顔を覗き込んだ。
ーーこちらも、職人の表情だ。
「俺、ここの銀砂を精製して、……こいつを装飾に使おうかな」
ぴたり、と。
セディオが長い指先を止めたのは、透明な水晶群の端でわずかに色を違える、粒の小さな結晶体。そのごく一部が、うつくしい宵闇の色を控えめにまとっている。ーー紫水晶だ。
「いいんじゃないかな」
にこ、と。
魔術師はほんの少し、頬を染めて微笑んだ。




