32 抱擁
“おいで、かまどの火。パンを焼くのにちょうどいい、優しい子”
――昇りたての朝陽が差し込む、気持ちのよい厨房は竈と周りが赤レンガ。
長い黒髪をゆるく後ろに束ねたスイが失われた言語で歌うようにささやくと、瞬く間にオレンジ色の炎が宿った。ちらちらと、踊るように竈の中で揺れている。
スイはキルトのミトンを付けた手で、具材を入れてパイ生地で蓋をしたホーロー鍋を持ってくると、炎が楽しげに踊る竈の中に長い持ち手のついた鉄板を使い、ぐっと差し込んだ。
覗き込み、場所を調節すると「ふぅ…」と息をつき、ぱたん、と扉を閉める。
次いで持ち出したのは、丸く平たい生地が四つ乗ったフライパン。それも、そっと竈の扉を開けて差し入れる。
“焦がし過ぎないでね”と、やはり歌った。
歌っているつもりはないのだろうが―――スイの唇から溢れる言語は音楽的で、異国の歌のようだ。
傍らの作業台で、サラダ用の豆のさやから筋を取っていたキリクは、ふと思い立ち、顔をあげて師に訊ねた。
「お師匠さま」
「ん? なに、キリク」
「その……僕も、言語は教えていただけるんですか?」
「うん、そのつもり。《学術都市》で暮らすなら大なり小なり必要だ。都市の表層部分の、この街だけなら人の言葉で通じるけど。下層部分にあたる《宝玉の都》では、こうはいかない」
日常ではあまり使わない伝説の地名に、キリクは大きな空色の瞳をぱちくりとさせた。
「え? そっか。ここ、元は精霊達の《安寧の都》ですもんね。それを伝え聞いた人間が《宝玉の都》――と、字したんでしたっけ」
「ご名答」
にこ、と笑みながら師である女性はミトンをはずし、青を基調としたタイルの壁掛けに引っかけた。
時刻は午前六時半。
エメルダはまだ眠っている。
昨夜、遅くまで道具の整理や片付けをしていたセディオも、おそらく未だ夢の中。
スイはキリクのことも寝かせておくつもりだったが、真面目な一番弟子は定刻通りに目が覚めたようだ。
ちら、と家主の魔術師は壁掛け時計を眺める―――七時には、二人を起こそうか、と。
「今日はね、朝食のあと四人で下層部分に行こうと思う。私のクリスタルの身分証、知ってるでしょう? あなた達にとってのそれも、必要だから」
話しつつ、愛弟子の手伝いのため側に立つ。途端に、手際よく筋を取ったさや豆の山は嵩を増していった。
キリクは手を止めずに目線を上げ、何かをぽやぽやと想像している。
「下層には、クリスタルが……そんなに、たくさんあるんですか?」
「うん? ……あぁ、あれは別にクリスタルじゃなくてもいい。好みや直感で好きに選んでいいんだ。それこそ、金でも銀でも普通の石でも。形状も、プレートにする必要はない。
《学術の徒》としての身分証は、都市の長が魔法で言語と紋様を刻印することに意義がある。庇護されるべき者は、それぞれに適した素材を探して回るだけでいい。
……あと、ついでに貴方達を下層の精霊に紹介しなきゃいけないからね」
話す間に、筋付きのさや豆はなくなった。…手早い。キリクはほんの少し息を漏らして、じとりと師を眺める。
「お師匠さま……それ、『ついで』ではありませんよね。むしろそっちが本命なのでは?」
師である黒髪の女性は、屋根に大きくとられた明かり取りの窓から部屋を白く染める朝陽に負けぬほど清らかに、にっこりと微笑む。
「ご明察……さすがキリク。トーリスはすごいね。きみを、とても賢い子に育てあげた」
「祖父は」
言いかけて、ふと言葉に詰まるキリク。俯いた空色の瞳が少し、頼りなげに揺れた。
「……だいじな、恩人です。血の繋がらない僕を本当の孫みたいに―――衣食住はもちろん、文字も知識も彫刻の技も。必要なことはすべて教えてくれました。
ちいさな村で、慎ましい生活でしたけど……僕は、祖父と居られたあの村が……好き、でした。ごめんなさい。せっかく引き取ってくれたお師匠さまに、今更こんなこと言って」
「ばか」
「……」
スイは、キリクをふわりと抱きしめた。少しかがんでふわふわの金茶の髪に頬を埋め、よしよしと撫でている。
……この子は自身を十二歳というけど、やはり体格が良いとは言えない。
トーリス――かつて、ケネフェルの筆頭彫刻師をつとめた友人から『身寄りのない男の子を引き取った』との報せを受けたのは、実に七年前だった。
死期を悟った友人が、養い子の少年と―――ひょっとしたら精霊付きがいるかもしれない鉱脈について『後を託す』と、風の精霊に文言を運ばせたのは凡そ三ヶ月前。
かれは腕のよい、人の子の魔術師でもあった。……彫刻のほうが肌に合うと、よく笑い飛ばしていたけれど。
「いい子だね、キリク。トーリスも幸せだったろうな。君みたいな子と晩年をしずかに過ごせたんだから―――本意、だったと思う。
君が成人したら好きに選ぶといいよ。村に戻ってもいいし、ずっとここに居てもいい。……幸い、腕のよい細工師どのもいることだし。好きなことを学びなさい。いくらでも助けるから」
抱擁から逃れることもなく。
撫で続ける師の手を振り払うこともなく。
金茶の髪の少年は、ややあってこくり、と頷くと小さな声で謝意と。少しだけ涙をこぼした。




