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翠の子  作者: 汐の音
3章 人の子の禍福

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32/88

31 それぞれの幸せ

 『傷つけたりなんかしない』

 セディオがそう誓ってからも、二人はなかなか動けない。


 沈黙が訪れる。

 痛いほどの緊張をともなう静寂――長の館の、ウォーラとの会見の時とは違う。


 (しまったな……)


 つかの間、息ができなくなったセディオは瞑目し、ため息をゆるゆると溢したわずかな隙に、認めた。

 自分のなかで(くすぶ)るように抑えていた感情が、スイに向かってまっすぐに動きたがっている。

 それが、思いのほか苦しい。


 救いを求めるようにそっと、俯いてしまった黒髪の魔術師の頬に手を当てる。

 ぴく、と肩を揺らしたが拒まれなかった。ほっとして――抱き寄せた。


「っ、セディオ、あの」

「うん?」

「私は、ちょっとおかしな三十七歳みたいなんだけど」

「うん」

「おまけに、ずっとこの姿らしいんだ……」

「いいね。ずっと美人。それから?」

「それから……えぇと、おっかない後見人の精霊が、わんさかいる。いわゆる千里眼のとか」

「よし、見せつけよう」


 言うが早いか、それこそいわゆる手が早いのか。セディオは遠慮なくスイの左頬に口づけた。

 音は立てず、唇でやわらかく触れるだけ。

 そのままの状態で、掠れるような小声で、そうっとささやく。


「言って。スイが心配なことは何でも聞く……さ、次。どうぞ?」

「!! や。あの……ちょ、……お願い。待って?」

「いやだ、待たない」


 ―――だって、触れる部分のどこもかしこも、こんなに熱い。いつも優しいけれど、つめたいスイが。……それが、自分のせいだとわかるから、今、こんなにも嬉しい。


 セディオは笑みながらスイのこめかみに、額に、ついでに鼻の頭にと、次々に唇を落とす。

 スイはもう限界と、身をよじり始めた。


「ふっ……ふふっ! だめだ、セディオ、くすぐったい……!」

「うーん。その『だめだ』は可愛いけど却下。それで?」


 言いながら、なおもくすくすと笑い続ける彼女の顔や首筋、あちこちに口づけを贈る。

 惹かれて、知らず求めてやまなかった手の届かない存在……それが、いつの間にかスイになっていた。


 一生涯、だれにも預けることはないと思っていた感情は――――思いのほか苦しく、癖になるほどあまい。

 仮初めの、今までのどんな繋がりよりも、こうして腕のなかに閉じ込めて声を聞くだけで。触れるだけで。心地よく、ずっと頭の芯を酔わせてくれる。ぐらぐらする。



 これが、幸福感だというのなら。


 ……さんざん無為だと(なじ)った日々も、こうして彼女に触れるためだけにあったんだと思えば。


 ――――笑える。全然、わるくない。


 そんな酩酊感のまま。

 ゆっくりと、あまく唇を重ねた。




   *   *   *




「……気づいてるかもしれないけど。私には精霊としての記憶がある。けど魔法は使えない。体は、人間の女性なんだ」

「だろうね。体は人間だよ、保証する」


 大真面目に頷いた青年の頬を、スイはわりと本気でぺちん! と、叩いた。

 それでも嬉しそうに笑うセディオに―――つられて苦笑する。どうしようもないな、と困り顔になりながら。


「その、記憶の主が……初代の、都市の長で……」

紫水晶(アメシスト)だった?」

「! そう。よくわかったね?」

「そりゃあ――……」


 わかるよ、という言葉は、なぜか喉元で引っ込んだ。

 今のスイは、それはそれは綺麗な紫色の瞳だ。こんなにも透明で深く、見るものを惹き付ける貴色(きしょく)はセディオの知る限り、一つしかない。


 細工師でよかったと、心底思う。

 細工師でなければ彼女と出会えなかった。

 それほどまでに、スイ(このひと)は得難い。



「じゃあ、あとは追々(おいおい)ってことで。……私はそろそろ居間に行くよ。あの子達は、静かすぎても心配だ」


 眉根を寄せて(こぼ)す姿がやたらと可愛く映るのは―――まぁ、そういうことだなと自分に言い聞かせ、セディオはクスッと笑う。

 「よっ」と、軽い掛け声とともに立ち上がり、寝台に並んで座っていた彼女に当然のように手を差し出した。


「了解、俺の大事な人。………おいで、一緒に見てこよう」





 連れだって一階に降りたスイとセディオが―――遊び疲れ、居間で寝入った弟子達を見つけたのはそのすぐ後のこと。


 二人とも、それはそれは気持ち良さそうに。

 幸せそうな顔でぐっすりだった。


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