23 都市のはじまり
森を、北へ進むこと半日。
森の最長老から貰った果物や、水筒に移しておいた香草茶などで休憩を挟みつつ歩いた一行の視界が、急にひらけた。
「うわ、ぁ……!」
キリクの感嘆が渓谷へと吸い込まれる。
そこは深い深い渓谷―――
足元の地面は突然途切れ、眼下は切り立った崖。右手をゆるゆると流れていた広さと深さを増した川は引力のなすがまま、真っ逆さまに滝壺へと落ちてゆく。
あまりにも距離がありすぎて、ドオォオオ………という滝の音は遠く、雄大。そして複数。
滝はここだけではない。ざっと数えると東側からも二本。西に幅広のものが一本。そして遥か対岸、北側がもっとも広範囲に渡る壁、あるいは巨大カーテンのような大瀑布。計五本の滝が織り成す景観と水音は荘厳ですらあった。
セディオは、ひょい、と半身を乗り出す。
――高い。
西の小瀑布は幾つかの白っぽい岩棚を経て。それ以外の滝はすべて一直線に渓谷の底をなす湖へと流れ込んでいる。
湖の透明度はたかく、水底の岩の色形まで窺える。青々とした茂みと柔らかそうな苔にあちこちを覆われ、水面はたえず波紋を描いていた。
「……綺麗だ。研磨した、澄んだ緑柱石の色だな。あれ」
「……」
「うん、私もそう思う。エメルダの本体の色に近い」
「あ。僕もそう思いました。……あるんですね。本当のエメラルド・グリーンって」
三名は心の底からの賛辞を。一名は強烈な照れで、無言で応じた。
――その瞳は、大渓谷の湖と同じ澄みとおった翠色。
こぼれんばかりに見開かれ、長い睫毛で影を落とし潤んだそれは、高揚感で紅潮した頬とあいまって絵画から抜け出たようにうつくしい。
風に靡く、空色と親和性の高い淡い翠の髪。抜けるように白い肌。華奢な体躯。芸術品のごとき造作。
それらすべてが、本体であるエメラルドと台座の装飾・仕上がりの見事さゆえの容貌なのだと知ったら、かれらは一体どんな顔をするだろう……?
いまだ動けぬ一行のなかで、スイだけは微笑み、次いで思索を巡らせた。
(宝石の精霊だけは、人の子の介助あってのもの。エメルダも――セディオやキリクのお陰で、こんなにも綺麗で伸びやかな子になれた。大事に育てないと……)
と、そこで瞼を閉じる。
深く潜りすぎた思考を戻すべく、ゆるゆると頭を振った。気分を整え、意識してあかるい声を出す。
「さて、じゃあ行こうか」
「え! ここから? 渓谷を迂回して向こう側……ってこと? でも全然、建物の影も見えないわ」
一番に答えたのはエメルダ。スイは、ふむ…と一拍間を挟んだ。
「いや、ここが目的地だよ。ただ見えてないだけ。ちょっと待っててね」
白いフードを下ろし、ちゃり、と胸元を寛げて鎖をたぐる。取り出したのは昼下がりの陽光に虹色の光を弾く、小さなクリスタルのプレート。黒髪の魔術師はそれを右手に掲げながら、穏やかないつもの声音で失われた言語を紡いだ。
“疾く現れよ。我、帰りし精霊の魔術師にして許しを得たものスイ。安寧の都までの階よ、姿をみせて”
すると――――
スウゥッと見えない幕が取り払われたように、眼前に見事な装飾を施した門と、対岸の大瀑布へと至る長い、長い繊細な手すりを備える屋根付きの通路が現れた。
よく見ると左右からも同様の通路が伸びている。それぞれ、東西の崖上の白い門へと繋がっており、あらゆる意味で奇跡のような建造物だった。……優美だが、力学的におかしい。
目の前の、見上げるほど大きな門の左右は神殿の如く天へと屹立する柱。上部は精緻な彫刻を施したアーチ。
その、複雑な幾何学模様にしかみえない紋様を食い入るように見つめていたセディオは、低く呟くようにそれを読みあげた。
「【安寧の都にして人の子の学術都市、その南門】――うそだろこれ。伝説の神代の楽土、《宝玉の都》の別名じゃねえか…!」
青い垂れ目が、抱えきれない驚きを宿して炯々と輝く。
紫がかった黒瞳の魔術師は、ほう…と息を吐いた。「さすがセディオ」と、のんびり漏らしている。名を呼ばれた青年はバッ! と外套の裾をさばき、隣に佇むスイに体ごと向き直った。
「いやいやいやいや……おかしいだろ? 《学術都市》の仕組みができてまだ、百年と経ってないはずだ。それが何で神代の―――って、まさか」
心持ち青ざめた顔のセディオに、魔術師はこくり、としずかに頷いた。
「そう。当時、長だった精霊がたった一人の人間の細工師と契約を結び、招いたんだ―――自分達の唯一安寧の住処に。……それが、学術都市のはじまり。わずか八十余年前のね」




