43 結界の奥
ベアトリーチェは油膜に触れる。
それはシャボンの泡のように、触れるとゆらゆらと揺れる。
森を全て多い尽くす大規模な結界である。結界は、森の中にあるものを隠している。
それは今まで、ベアトリーチェにさえ気配に気づかせなかった、高度な魔法だ。
「結界ですね」
「そうね。これほどの規模のものをずっと維持しているなんて、ちょっと考えられないわ」
「そういうものなのか?」
ジェリドが尋ねてくる。「犬は魔法を知らない」「動物の耳のある人間はこれだから」などとユミルとノエルが冷たく言うので、ベアトリーチェは二人の頭を握りこぶしでゴン、と叩く。
「その発言、よろしくないわ」
「お姉様に怒られた、嬉しい」
「姉上に叩かれてしまいました、幸せです」
「私は叱っているのだから、喜ぶのではないわよ」
えへへと嬉しそうに笑う二人を、ベアトリーチェは注意する。
はぁと、ベアトリーチェは溜息をついた。多少は丸くなったものの、残酷で残虐な二人の本質が突然変わったわけではないのだ。
獣人に対する差別発言に特に怒った様子もなく、ジェリドは肩をすくめた。
「私は魔法は使えないからな。お前たちは獣の姿になれないだろう」
「変身魔法を使うわ」
「変身魔法を覚えれば、なんにでもなれる」
「そういうものか? ともかく、純粋な腕力では私のほうが強い。お前たち生意気な子供……いや、違うな。ベアトの可愛い弟妹は、私にとっても弟妹だ。可愛い可愛い弟妹たち」
「何故」
「何故そうなる」
「ベアトリーチェにはエルシオン様がいますわ! あなたなど、エルシオン様の足元にもおよびませんことよ。主に見た目が」
ジェリドともめる弟妹、そしてなぜか参戦するアルテミスを尻目に、ソフィアナが結界に触れた。
これを消し去るのは難儀しそうだと考えていたベアトリーチェに、ソフィアナが微笑む。
「ベアトリーチェ様、私、こういった魔法は得意分野なんです。癒やしを主にする光属性の魔法の中に、結界などの防衛魔法も含まれています。ですから、その魔法を構成するのと逆のことをすれば、魔法は消せるということで」
「そうね。あなたに任せるわ」
「はい!」
今までのベアトリーチェならば、自分がやると言っていただろう。
だが、ソフィアナに任せることにした。
一度、魔力が底をつき、ベアトリーチェは魔力枯渇に陥った。
ベアトリーチェの体に流れる魔力には限りがある。かつてのようにはいかないのだと、思い知った。
それに、人に頼るということや、人を信頼するということを──少しだが、学んだのだ。
前世の自分がどれほど愚かだったのかにも、気づくことができた。
あの時も手を伸ばせばもしかしたら、助けてくれる者がいたかもしれないのに。
ソフィアナが結界に触れる。彼女の体が神々しく輝いた。
強い魔力の奔流が、彼女の体から放たれるのを感じる。ソフィアナは癒やしの魔法に特化している。
それはもしかしたら、その分野では彼女の力はベアトリーチェよりも格段に上かもしれない。
目を閉じて何かに祈るように集中をしているソフィアナの髪が、風もないのにふわりと浮かんだ。
彼女の手のひらで触れている結界に、紙を火であぶったような穴が生まれる。その穴は徐々に広がっていき、結界の一部に人が一人通れる程度の風穴を開けた。
その先の森は──結界の外側から見ている森とは、景色が違う。
暗く、淀んだ風景が広がっている。木々は不格好にねじれて、地面にはうねうねとした蔓がはびこっている。重苦しい瘴気が漂い、まだ昼間だというのに真夜中のように暗い。
「まぁ、不気味ですこと」
アルテミスの率直な感想に、皆が頷いた。
確かに不気味だ。深淵に続くような暗闇の中に、ジェリドが率先して足を踏み入れる。
肩で息をしているソフィアナに、アルテミスとベアトリーチェは「お疲れ様ですわ」「ありがとう、ソフィアナ」と声をかけた。
ソフィアナは額の汗を腕で拭って「まるで全力疾走したあとみたいです」と笑った。
「これほどの規模の魔法を維持しているなんて、エルシオン様を浚った人はどんな人なのでしょうか。どうして、エルシオン様を」
「国家に対する反逆に決まっておりますわ」
「ええ、そうね……多分、きっと」
それだけだろうかと、ベアトリーチェは眉を寄せる。
あの男は明確な意思を持って、エルシオンを浚った。
そして、ベアトリーチェをクリエスタと呼んだのだ。
嫌な予感が胸を渦巻く。急がなければと、ベアトリーチェもジェリドの後に続き、結界の中に足を踏み入れた。




