第三十一話『泥を見る者』
青駕来滾は無気力な人間だった。
やりたいことも好きなこともなく、すべてに対して冷めていた。
生きているというより、死んでいないだけ。
そんな彼を学校の同級生などはもちろん、両親までも奇異の目で見ていたが、気にしなかった。
そういった人間を、いやそもそも自分以外の人間をうっすらと見下していたのだ。
そんな彼が寄処禍に覚醒したのは中学校一年生の頃。
それにより人生が一変──ということはなく、彼はいたってそれまで通りの生活を送っていた。
覚醒したことで見えるようになってしまった禍霊を時折祓うことはあった。
恐怖も敵意もなにもなく、ただ害虫を見つけたから、殺虫スプレーを吹きかけて駆除した。
彼にとっては、その程度のもの。
そんなある日、一人の男と出会った。
その男に寄処禍や禍霊の知識、憑霊術の扱いなどを教わった。
仲間へ勧誘されたが断り、それまで通り普通の生活を続けた。
寄処禍としての力を悪用することはなかったが、誰かのために役立てるようなこともなかった。
時は流れ高校を卒業。
東京の大学に通い出した。
そこである事件が起きる。
学生同士の不同意性交事件だ。
男側は有力者の祖父を持ち、その力で強引に示談に持ち込み、女性側は心を病み最終的に退学。
ある日大学の食堂で男がその話をまるで武勇伝のように語っているのを目撃した青駕来は、間世を経由して男の自宅に侵入し、憑霊術を用いて殺害した。
義憤に駆られたわけではない。
女性を不憫に思ったわけでもない。
ただ漠然とそうしなければならないと思った。
この男は排除されなければならないと。
汚泥と化した男を見下ろし、青駕来はようやく自分がどういう人間なのか理解した。
世の中には死すべき人間がいて、誰も手を汚さないなら、自分が。
自分こそが。
自分だけが。
ふと青駕来は以前読んだある小説の一節を思い出した。
──選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、現行秩序を踏み越える権利を持つ……。
☆
「ここは……」
青駕来が目を覚ます。
薄暗いコンクリートの部屋。
窓もなにも無く、地下室のように見える。
そこで椅子に座らされ、しっかりと拘束されていた。
「お目覚めですか?」
殺風景な部屋には不似合いなリクライニングチェアに腰掛けて読書をしている男が声をかける。
「誰だ?」
「冷たい言い方ですねぇ。ずっと私を探していたんでしょう?」
「……お前がザナドゥの製造者か」
「甘楽と言います」
甘楽はそう言って本を閉じ、立ち上がる。
ここは蛇蝎のメンバーが経営する風俗店の地下。
青駕来は拘束を解こうとするが、まだ憑霊は眠ったまま。
「捕らえたなら、さっさと殺せばいいものを。それともなにか用か?」
青駕来の言葉に、甘楽が見下すような笑みを浮かべる。
「単刀直入に言えば、勧誘ですよ。ビジネスを今以上に拡大するには拝揖院が邪魔になる。それと戦うためには寄処禍が戦力として必要なのです」
両手を広げ仰々しく目的を告げる甘楽。
それに対して青駕来はなんの反応も示さない。
「蛇蝎と組んでいましたが、トップの兄弟が捕まってしまいましてね。ここにいる皆さんは普通の人間ですし」
その言葉で青駕来はようやく大勢の男たちが、自分の後方で扉を背に待機していることに気づく。
「どうです?」
「受け入れると思うのか? 僕の目的はお前を殺すことだ」
吐き捨てるように言う青駕来。
甘楽は肩をすくめながら、ため息を吐く。
「仲間にならないと言うのなら、死んでもらうしかなくなりますよ」
「やってみるといい」
挑発的な物言いに、甘楽の眉がぴくりと動く。
そしてもったいぶった足取りで青駕来に近寄り、右手をかざす。
「"桃華幻"」
桃色の煙が発生し漂う、それは青駕来の鼻と口から体内に入り込み、彼を理想郷へと誘う。
「なんだ……?」
「貴方もザナドゥに変えてあげますよ」
青駕来の意識が桃華幻の作り出す幻の世界へとトリップする。
その世界では自身の理想が現実となる。
青駕来の理想とする世界は死すべき人間、悪しき人間がいない世界。
犯罪だろうが迷惑行為だろうが、社会にとって害となる者は問答無用に排除されるべき存在。
司法の裁きなど必要なく、ただ殺してしまえばいい。
あくまで彼の独善的な価値観だが、この世界では彼の理想こそがすべてだ。
この世界にはそういった人間がいない。
犯罪者も迷惑行為を行う人間もいない。
誰もが善良で正しく、駆除すべき害虫のいなくなった世界。
この世界を受け入れれば、青駕来の肉体は死を迎え、彼はこの幻の理想郷で生き続けることになる。
しかし、
「ありえない」
青駕来が小さく、暗く、重い声で呟く。
桃華幻には弱点がある。
それは能力をかけた相手が理想を持ちながらも、それが決して叶うことはないと諦観している者の場合、理想郷を脱されてさしまうこと。
もっとも今までそんな相手はいなかったため、甘楽自身もこの弱点を知らない。
理想を持ち、それが叶った極めて現実感の高い幻の中で、こんなものはまやかしだと拒絶できる人間。
そんな人間には桃華幻は無力だ。
そして、青駕来滾という男はまさしくそういう人間だった。
青駕来にとって、人間の本質は悪であり、善き人間とは|まだ悪しき人間になっていないだけ《・・・・・・・・・・・・・・・・》の人間のこと。
遅かれ早かれ、誰もが死すべき悪しき人間なのだ。
彼は心から善き人間だけの世界を望んでいるが、それとまったく同じ強度で諦めてもいる。
故に青駕来はこの世界をまやかしと拒絶し、受け入れない。
「こんな世界はありえない」
再び青駕来が呟き、理想郷が音を立てて崩れていく。
「馬鹿な……」
桃色に染まり始めていた青駕来の身体が、急速に元の色を取り戻す。
そんな初めて見る現象に甘楽は狼狽える。
「なんだ……? なにをした!」
意識を取り戻した青駕来に甘楽が叫ぶ。
「なにをした? なにかしたのはお前の方だろう。それが僕には効かなかったというだけの話だ」
「そんな馬鹿な! 私の力が……桃華幻が効かないはずが……!」
あからさまに取り乱す甘楽。
その様子に待機している男たちがざわつき出す。
「だったら……物理的な手段で殺すまでだ! やれ!」
甘楽が叫び、少しして男たちが青駕来目掛けて駆け出す。
手には鉄パイプ。
それを青駕来の脳天に振り下ろす。
「最初からそうすべきだったな」
青駕来の憑霊は、既に目を覚ましている。
「"腐端正"」
紫黒色の光が発生し、男たちを包み込む。
「ぎゃあああああああああ!」
「うわあああああああああ!」
「なんっ……ひぃぃぃぃぃぃ!」
「があああああああああああっ!」
絶叫が響き、次々と腐り落ち、汚泥と化す。
それを踏みつけ、甘楽に迫る。
「くそっ!」
甘楽が桃色の煙を硬化させ、叩きつける。
しかし、青駕来の放つ紫黒色の光に触れた途端に腐り落ちる。
「無駄な抵抗はよせ」
「がっ!?」
瞬時に距離を詰め、首を掴み持ち上げる。
甘楽は桃華幻の桃色の煙を浴びせるが、もはやなんの効き目もない。
「まっ待ってくれ! たの……」
「断る」
甘楽の命乞いを最後まで聞きもせず、首を掴んでいる手から紫黒色の光を放つ。
それにより甘楽は顔面から腐り落ちていく。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
凄まじい絶叫をあげながら、甘楽は汚泥と化し、ぼとぼとと地面に垂れる。
青駕来はそれを冷たい目で見下ろし、思い切り踏みつける。
それと同時に、部屋の扉が吹き飛んだ。
青駕来はゆっくりと振り返る。
「見つけたぞ。青駕来」
「ああ。君か」
現れた男──天平を見て、青駕来は薄く笑みを浮かべた。




