闇中
パトロールチームが出発して1時間近くが経過。本来ならば既に山道を走破していてもおかしくないが、状況が状況なだけに足の進みは遅かった。ドローンで偵察しては進むのを繰り返している。
追い掛けて出発した交通捜査課の係員2名と鑑識1名を乗せた高機動車も程なくして追いついてしまったが、人数が増えた分だけ安心感も増していた。
「どうだ。何か居るか?」
「そうですね。50m先までは問題ありません」
堀越の問い掛けに後部座席でドローンを操る筒井一士が答える。暗視モードで操作しているので、肉眼では見通しが利かない道路の先の映像は問題なく見えた。
「よし、ドローンを戻せ。取りあえずそこまで前進しよう。加藤、後方警戒は頼むぞ」
筒井一士がドローンを帰投させ始める。あまり高度を上げてしまうと、不具合が発生して森の中に落ちた場合の回収が難しくなるため、人間の目線程度の高さで飛ばしていた。
戻って来たドローンは銃座に居る赤羽士長の手によって掴まれ、無事に帰還を果たした。
「分かった、ゆっくり進んでくれよ」
もしも野犬の群れが正面から襲って来た場合を想定し、車列は現場指揮官車と軽装甲機動車の位置を入れ替えていた。これならば搭載している機関銃で対処が可能になる。後続となった現場指揮官車へも回線を開いた。
「前進します。車間距離は1台分を確保願いします」
『了解、追従します』
軽装甲機動車まで直接来てやり取りしていた加藤が戻ったのを皮切りに、車列は前進を再開した。
彼らは既に、犬捨て峠にこの事態を引き起こした何かがあると想定して行動している。最初はその「何か」をあの捕獲器に関連したものとして紐付けていたが、今は例のトラック横転事故の方が根本の原因にあるのではとの見方を強めていた。
岸菜町役場 対策本部
猪又は欠伸によって誘発された涙を拭いながら、時計を一瞬だけ見やった。パトロールチームが出発して約1時間が経過。第ニ陣の出発からも30分が経過している。相馬原駐屯地に野犬の死骸が運び込まれ、無事にヘリでの空輸が始まって以降は現場にも動きがなかった。
「今、何時だ」
「23時半前ですね」
牧田も眠そうな表情で時間を確認した。高井も時折り舟を漕いでいたが、樋口だけはしっかりした意識でいるようだ。
「申し訳ありませんが、少し休ませて頂きます。変化があれば直ぐに呼んで下さい」
そう言って牧田は立ち上がり、会議室を後にする。猪又は見計らったように予め用意していたメモ帳の切れ端を、同席する警官へ机の下から隠して渡した。内容を確認した警官は、「すみません、トイレに」と言ってから立ち上がった。勿論これは嘘で、牧田が何所に行くのかを確認するよう指示したのである。
退室する警官に対し、特に誰も怪しむような仕草は感じられなかったが、向こうに意識が移るのを妨害するため、猪又は行動を起こした。
「県警本部から何か言って来てるか?」
「いえ、まだ何も」
「そうか」
具体的な救出作戦については、まだ何も指示が無かった。何所でどうなっているのかさっぱり分からない状態である。
「上島さん、県の方ではどのようにお考えでしょうか」
危機管理係長の上島へ問い掛けた。何度か携帯に出て会話している光景は見たが、明確な指示はされていないように感じられた。
「狂犬病の存在に対して、色々と二の足を踏んでいるようです。基本的には殺処分の方針らしいですが、その手段を決め兼ねているみたいですね」
手段も何も、こうなったら自衛隊と警察が前面に出る他は無いだろう。相応に武装と防護装備を整え、万全の体制で上岸地区へ踏み込むだけだ。悠長に事を構えている暇は無い。
「田川さん。仮に災害派遣の要請が正式に出たとして、準備までどれぐらいの時間が掛かるでしょうか」
「そうですね。当旅団の主戦力は新潟と長野に駐屯しています。これ等を必要な分だけヘリで空輸するのには、恐らく4~5時間が必要でしょう。また各種の手続きも必要ですし、武器弾薬の手配も考えると実質は半日、早くても8時間弱は掛かるかと思われます。上の方で判断して貰うしかないですが、一つの目安としてお考え下さい」
それはつまり、少なくとも今夜中は具体的な動きが無い事を意味していた。住民たちの救出は確かに急務であるが、突如として浮上した刑事事件の可能性を探る秘密の捜査も憂慮すべき事であり、彼らの目の前で町長としての手腕を揮う牧田が何かしらを知っているかどうかを判断するための材料になり得るのだ。
この時、猪又は遠くから聞こえて来る銃声に気付いた。阻止線に再び野犬の群れが押し寄せているのかと思い、現場に確認を取るもそちらは平穏そのもの。どうやらあの銃声は、パトロールチームによるものらしかった。
山道を進むパトロールチームは、進路上に現れた数体の猪と交戦中だった。ヘッドライトに照らされるその体には無数の咬傷や肉が抉れた跡があるため、どうやら発症の後に凶暴化した事が窺える。
これ等を排除しなければ前進出来ないため、猪同士で乱闘中だった所に介入した形となったが、軽装甲機動車から送り込まれる機関銃の制圧射撃で猪は次々に射殺されていった。それでも何体かは急にちょっかいを出して来た存在へ果敢に突進を繰り返すも、車体やコンバットタイヤに弾かれて昏倒し、路上でバタバタとただ暴れるだけだった。
「陸曹長、目標が近過ぎます。捌き切れません」
赤羽士長が新しい弾薬箱を開いて、5.56mm弾のベルトリンクを取り出した。それをミニミへ装填し、暴れる猪へ向けて射撃を繰り返す。
「バックしようにも難しいか。ここは何とかして進むしかないな」
堀越陸曹長は車載無線機を持ち上げ、真後ろに居る現場指揮官車への回線を開いた。
「援護願います。こちらも隊員を降車させます」
『了解、援護に入ります』
後部座席に座る鷹山・筒井の両一士が降車し、フラッシュライトを装着した89式小銃による射撃を開始した。その脇へ更に銃器対策部隊の安岡・坂東巡査たちが進出。MP5での援護射撃を行った。
猪の排除が粗方終わろうとしていたその瞬間、鷹山一士の隣に居た安岡巡査が草むらから飛び出して来た何かに襲われて倒れ込んだ。
「うお!」
「どうした!?」
安岡巡査の装備するヘルメットには、キジトラの猫が張り付いて執拗に噛み付こうとしていた。口の周りは泡で塗れており、ヘルメットにガリガリと牙を立てている。足や背中には咬傷が見て取れた。
何とか猫を引っぺがそうとするが、体格の割りには凄まじい力で張り付いていてどうにもならない。
「じっとしていろ!」
鷹山一士は猫の頭を掴んでヘルメットから少しだけ離すと、銃剣を喉元に突き立てた。しがみ付く力が次第に弱まり、最終的にはダランとした状態になる。そこでようやく猫を引き剥がす事が出来た。
「……死んだか」
「あ、ありがとうございます」
猪と猫の死骸は道路の脇に寄せた。全員は再び車両に分乗し、先を急ぎ始める。
「さっきの猫、何だったんでしょうね」
「野猫だな。山の中で野生化した猫だ。人が居る所で生活する野良猫と違って、自分で狩りをして獲物を捕らえる、本来の猫としてあるべき姿と言っていい。しかし野犬ども、手当たり次第に野生動物も襲っているようだな。食われずに済んでも発症して凶暴化した動物が無数に居ると考えていいだろう。もしくは、野犬が食い散らかした物のおこぼれを食らって発症しているケースもありそうだな」
「……この辺、熊とか居ませんよね」
運転手の大津三曹が不安そうに口走った。だが、この辺りに熊が居ない事は事前に把握済みだった。もしそんな物でも出て来たら、手持ちの火器ではどうしようもない。50口径弾を使用するM2重機関銃でもなければ怖くて近付けないだろう。
その後は特に問題なく前進を続け、車列はついに「犬捨て峠」へと辿り着いた。10mほど先から右手にはガードレールが見えている。あそこからは、正しく断崖絶壁が続く道となるのだ。
「これより犬捨て峠に差し掛かります。ちょっと確認になりますが、銃対のどなたかでここを走った経験はあるでしょうか」
堀越の問い掛けに、なんと新田巡査部長が名乗りを挙げた。意外な結果に驚く。
『任官したばかりの頃、地域課の警邏中にここを通った事があります。先輩が落ちるぞ落ちるぞと脅かすもんで、肝を冷やしながら運転しましたよ。一応は片側一車線の道路なんですが、不思議と狭く感じるんです。注意して進んで下さい』
「了解、では進みます」
3台は峠道へと踏み出した。これまでもそうだったが、照明は一切無い。自身のヘッドライトだけが頼りだ。
右手には、遠くの夜景が微かに見えた。それ以外は暗黒の世界である。念のため、前方の安全を確保する意味で再びドローンを飛ばし、偵察を始めた。
「……犬が1匹居ますね。路上をウロウロしています」
「距離はどれぐらいだ」
「30mもありません。緩やかに左へ曲がるカーブの先に居ます」
堀越はドローンを戻すよう命じ、銃座の赤羽へ発砲を許可した、3台はゆっくりと前進し、カーブを曲がり始める。
「射撃用意」
堀越の命令で銃座の赤羽士長がミニミの安全装置を外し、引き金に指を掛けた。左手でストックを掴んで銃の角度を安定させる。同時に、車列はその足を停めた。
防弾盾の隙間から、ヘッドライトを頼りに暗がりを見つめる赤羽士長の視界に現れたのは、座ってはこちらに向けて歩くのを繰り返す野犬の姿だった。狂犬病に感染して恐ろしい存在へと変貌を遂げた犬であると当然思ってしまうが、犬が尻尾を振っていた事で状況は一変する。
車内で協議した結果、後部座席の鷹山一士が89式小銃を構えながら降車して近付いた。犬は依然として座ったまま、舌をだらしなく出して荒い呼吸を繰り返している。
「……飲むか?」
弾帯から水筒を取り出して、路上に水を垂らした。犬は小走りでやって来てその水を嬉しそうにピチャピチャと舐め始める。
これに驚いた新田巡査部長は、不測の事態に備えて鷹山一士を援護するべく坂東・安岡の両巡査を降車させた。2人がMP5の安全装置をフルオートに送り込みながら、犬を十字砲火の隊形で仕留められるよう左右に展開する。
「鷹山、咬傷が無いか確認しろ」
「了解」
水に夢中になっている間に、犬の体を調べた。幸いにも噛み傷の跡は見受けられなかったが、犬は酷くやせ細っており、何日もまともに食事をしてない事が窺える。足も泥で汚れていた。
「捨て犬でしょうか。まだそんなに長い日数が経ってはいないようですが」
犬は頭を撫でると、甘えたような仕草を見せた。明らかに人馴れした元飼い犬であるのは間違いない。
無事な個体が居るとは思っていなかった一同は、この犬を現場指揮官車の後部座席に乗せて保護。山道を事故現場へ向けて更に進んで行った。
幾度かのカーブを曲がった後、破損したガードレールが見えて来た。あそこが事故現場のようだ。
「前方に事故現場と思しき場所を確認。これより降車して現場検証を防護する。下車戦闘用意」
銃座の赤羽士長と運転手の大津三曹を除いた3人は降車。軽装甲機動車は現場より先の道路に布陣して、野犬集団の出現に備えた。
後続の現場指揮官車からも新田を始めとする3人が降車し、前方で警戒配置につく堀越・鷹山・筒井の後方警戒に入った。運転手の関口巡査は現場指揮官車を対向車線に入れ、ヘッドライトで現場を照らしてから合流する。
最後尾に居た高機動車は現場指揮官車が移動したために空いた空間へ前進。同じくヘッドライトを使って現場を照らし出した。バックドアから飛び出した偵察隊員たちは、後方からの襲撃に備えて警戒配置につく。同乗していた交通捜査課の宮内警部補と岩木巡査部長、鑑識の安達巡査はその光景に戦々恐々としながら現場に降り立ち、安全が確認されるのを待った。
風に揺れる木々の音だけが鳴る中、偵察隊員たちは小声で安全の確保を報告し合った。こうして車両のヘッドライトを頼りに、渋川署から来た3人の警官たちが2度目の現場検証を始めた。
「……こう見ると、ブレーキ痕の位置から岩場までは、まだそこそこ距離がありますね」
「この辺で目が覚めて岩場を確認、ブレーキを踏むが間に合わなかった。にしちゃあ、結構早い段階で気付いたモンだな。これならそこまで踏み込まなくても、十分に停車出来たと思うが」
宮内と岩木が想像を膨らませる中、鑑識の安達巡査はアスファルトを見つめていた。そこで何かに気付き、2人を呼び寄せる。
「見て下さい、何かの足跡があります。泥か土のようですが」
それは、山のような模様とその上に4つある小さい楕円形が特徴的な足跡だった。ここで3人は、直感的にこれが何の足跡なのかを悟った。同時に、現場指揮官車へと走り出す。
「ほれ、来い来い。ちょっと足を見せてくれ」
後部座席で寝そべる犬の足を掴んで持ち上げた。4本の足は全て、泥か土によって汚れている。試しに犬を抱えて足跡の場所まで連れて行き、大きさも確かめた。サイズはピッタリである。
「そうか、犬がトラックの前を横切ったんだ」
頭の中で糸が繋がった岩木巡査部長が、そう喋った。
「運転手はそれに気付いて、急ブレーキを踏んだ。しかし間に合わなかった。そして、トラックは岩場に激突。車体は衝撃で持ち上がり、右側へ倒れ込む。荷台の部分がガードレールを破壊。同じく衝撃でバックドアが開き、中に入っていた何かが谷底へと落ちた。ってのはどうだ?」
「ですが、この足跡が本当にこの犬の物かどうか分かりません。それに事故自体は二週間も前ですよ」
捲くし立てる宮内に、安達は冷静な意見を述べている。しかし、宮内の口は止まらなかった。
「事故があった日の同じ時間帯に、ここから沼田市か渋川市へ抜けた一般車が無いか探って貰おう。それで、積荷のリストはどうなった」
件のリストは、鑑識の安達巡査が携帯する公用のタブレットに送信されていた。内容は殆どがリネン関係だったが、中には実験後の器具等も含まれていた。そして一際に彼らの視線を集中させたのが、「実験動物№17 安楽死処置済み」の文字だった。他にも№19と20が存在している。
これ等に関しては、事故によって全て燃えてしまった物として処理されていた。研究センター側も特に深く追求はしておらず、運送会社側が過失を申し出て終わっているようだ。
「臭いな、これ。やっぱり原因はあの研究センターにあるようだな」
「それでどうします。この下も調べますか?」
岩木の問い掛けに、宮内は渋い顔をした。「この下」とは、目の前で大口を広げている、谷の下の事である。
「……この下に行くには、1度山を降りないとダメか」
向こう側まで降りれば犬捨て峠の下へ行く道はあった。元々、山を潰した事で湧き出した水が池を作り、それが下へ流れて沢とも呼べない小さな流れを作っていた。一時期は癒しスポットとして話題になったが、そこへ犬猫の遺棄が相次いで次第に野犬が群れを作るようになってからは、行政が人の立ち入りを戒めていた。
「加藤、ここで警戒監視をしてくれ。俺は銃対とあの3人を連れて下へ行って見る」
堀越は後方警戒中の加藤へ、下へ行く旨を伝えた。
「了解。気を付けろよ。援護が必要なら、ここから手榴弾でも投げてやるからな」
こうして、事故現場には高機動車が残って警戒を続ける事となった。軽装甲機動車と現場指揮官車は、山を1度降りて犬捨て峠の最深部へと足を向けた。
その頃、現場からの要請で渋川署交通捜査課は、県警本部において防犯カメラの映像を洗い出す作業を始めていた。
あの事故があった時間帯より少し前に、犬捨て峠の方向から渋川市もしくは沼田市方面へ抜けていく車が無いかを虱潰しに探している。
念のため数日ほど遡った映像も確認していた。保護された犬は中型サイズなので、それを乗せられるような怪しい車は無数に登るが、判明したナンバーから住所を割り出してそこが犬を飼っているかどうかを判別すれば割と難しい作業ではなかった。しかし、これはこれで結構な情報量として蓄積していく。
その中から、ある家族が捜査線上に浮上した。前橋市に住む5人家族で、両親と子供3人が一戸建てに住んでいる。前橋署に協力を要請し、そこの地域課から確認に向かった係員は、庭先に空っぽの犬小屋があるのを見つけた。
さっそく渋川署の人員も到着し、まだ家の窓が明るい事から誰かが起きていると考え、呼び鈴を鳴らした。
「夜分、大変失礼致します。前橋警察署地域課の戸波巡査と申します。実は御宅で飼ってらっしゃる犬の事で少々お伺いしたいのですが」
そこまで言うと観念したかのようにドアが開き、青ざめた表情の夫婦が現れた。寝巻きのため外には出さず、家の中で話を聴く事となる。




