24
村長は、黙って像を持ち上げ、ユナの前に差し出した。そして、村長は低く、短い詠唱を紡ぐ。
空気が震えた。
像は、音もなく――さらさらと砂のように崩れ落ちていく。粉塵は風に逆らうように舞い上がり、ユナの身体へ吸い込まれた。
その瞬間だった。ユナの青い瞳が、夜そのものを溶かしたような、深く冴えた蒼へと変わる。
村長は、ゆっくりと彼女に向き直った。
その片腕のない身体で、深く、深く頭を垂れる。
「――幽凪の魔王、ナハト=アエル=ユルナス様」
その呼び名が、夜気を震わせる。
「この記憶、かつては風哭の側近《ヴェル=カイナス》と呼ばれておりました」
村長は顔を上げないまま、続ける。
「魔王様の御前に立ち、風と夜を記し、戦場の行く末を読み、退路を切り拓く役目を担っておりました」
片腕のない身体を、静かに見下ろす。
「私は“彼”ではありません。ただ、彼が仕え、守り、託した記憶を失わせぬために残された、影です」
一拍置いて、静かに続ける。
「術も知識も、確かに私の中にあります。だが、それを使うたび、削れるのは――この身の方です」
「……よく、守り抜いたな」
ユナの声ではない。静かで、冷えた威厳を帯びた声。
幽凪の魔王――ナハト=アエル=ユルナス。
ガルドは、その名を耳にし、身体が硬直していた。呼吸すら、忘れるほど。
村長――記憶を継ぐ者は、最後に小さく言った。
「久しいな、ガルド。そして……ようやく、時が動いた」
夜風が吹き、広場の空気がわずかに揺れた。
村長は振り返り、淡々と告げる。
「ガルド。お前の像も、出せ」
「な……」
ガルドは一瞬ためらい、それでも懐から像を取り出した。手が、わずかに震えている。
「貰うぞ」
その言葉と同時に、村長は像を受け取り、迷いなくユナ――いや、ユルナスへと手渡した。
再び、詠唱。
像は同じように崩れ、ユルナスの中へ消えていった。粉が消え、静寂が戻る。
ユルナスは、ゆっくりと自分の手を見下ろした。小さな指を開き、閉じる。
「……まあまあ、か」
その呟きは軽い。
だが、その奥には、かつて世界を震わせた存在の確かな感触が宿っていた。
夜風が吹き、広場の灯が揺れた。
誰も、次の言葉を発することができなかった。
「ふふっ。ガルド、久しいな」
低く、楽しげな声が夜気に溶けた。
ユナの姿をした魔王は、口元にわずかな笑みを浮かべている。
ガルドは即座に片膝――いや、片足をつき、深く頭を垂れた。
「……どうして、そんな汚らしい顔なのだ?」
ユナ――否、ユルナスは眉をひそめ、ガルドの髭に覆われた顔を値踏みするように見た。
「……素顔だと、目立つので」
ガルドはわずかに視線を落とし、恐縮したように答える。
「もったいない」
「おそれ多いお言葉です」
一拍の沈黙。
魔王の瞳が、遠くを測るように細められた。
「まだ、魂の欠片は足りぬ。ガルド――ユナを守れよ」
「は」
即答だった。迷いはない。
「我は、ユナの意識がない時なら、こうして出られそうだ……今はな」
「それは……?」
ガルドの問いに、魔王は肩をすくめる。
「欠片を集めれば、わかることよ」
そして、どこか愉快そうに付け加えた。
「またな」
その言葉を最後に、魔王は静かに目を閉じた。
一瞬、風が止まり、夜が深く沈む。
――そして。再び瞼が開いた時、そこにいたのは魔王ではなかった。
戸惑いを帯びた青い瞳の、ユナだった。
「……?」
何が起きたのか理解できないまま、ユナはきょろりと周囲を見渡す。
ガルドは立ち上がり、いつもの無骨な声音で言った。
「……大丈夫だ。もう、終わった」
その言葉に、ユナは小さくうなずいた。
けれど、その胸の奥には、まだ知らない“何か”が、静かに、しかし、確実に息づいていた。




