40 限りある未来へ
「お母様!!」
「ヘリオス!!」
互いへと走り、ぶつかった所で強く抱き締める。柔らかくて温かな……愛しい命を。
「ただいま……ただいま、ヘリオス」
「おかえりなさい、お母様」
もっと元気にただいまを言いたかったのに、胸が一杯で情けない声になってしまう。ヘリオスの方が、よっぽどしっかりしているわ。
「お母様、ご病気は治ったの? もう足は痛くないの? ご飯は食べられる?」
「……ええ、治ったわ。ほら……足もどこも痛くないし、ご飯も美味しいの。ヘリオスは? ちゃんとご飯を食べていた? おやつは食べ過ぎていない? 寂しく…………」
母親なのに……大人なのに……
胸が詰まって上手く喋れない。
「寂しかったわ。ずっと、ずっとずっとヘリオスに会いたかった」
「……僕も寂しかった。うさぎと寝たんだけど、ほんとは少し泣いちゃって。鼻水で、耳のふわふわが汚れちゃったんだ。ごめんなさい」
ふわふわだったうさぎの耳は、確かにところどころ毛が固まって、カピカピになっている。私はふふっと笑うと、可愛い二人の頭を撫で、もう一度強く抱き締めた。
「お留守番ありがとう、ヘリオス」
「帰ってきてくれてありがとう、お母様」
◇
久しぶりに家族で囲む夕食は、嬉しくもあり少し緊張していた。
死体じゃなくなってから、ヘリオスに食べさせてもらう最初の一匙。どんな味がするんだろう、食べられなかったらどうしようと心配だったけれど……変わらず、とびきり美味しいままだった。
幼少期から常に飢餓状態に置かれていたこともあり、太りにくく虚弱体質の私。普通に食事を摂れるようになってからも、ヘリオスの魔力は、私の体質を改善し健康を保ってくれる貴重な栄養源となるのだった。
生き返ったばかりなのに、はしゃぎ過ぎたせいね。私はその後数日、体調を崩してキリル様やみんなに心配を掛けてしまった。ジュリの言う通り、熱も吐き気も頭痛も、苦しいことを思い出したから。これからはちゃんと、自分でメンテナンスしていこうと思った。
◇◇◇
王宮から戻り一週間が経った。
普通の幸せな朝食を摂り、キリル様とヘリオスとお庭を散歩して戻ると、何やら玄関が騒がしい。
何事だろうとそちらへ向かうと、旅支度を整えたハーヴェイ様が、使用人達に取り囲まれていた。
「……ハーヴェイ!」
呼び掛けるキリル様に、ハーヴェイ様は困り顔で額を押さえる。
「ああ~ほら、お前達が騒ぐから気付かれたじゃないか。こっそり出て行こうとしたのに」
「挨拶もなしに……今度はどこへ行くんだ? 王都か、それとも外国か?」
「いえ、カプレスク製の最新の船で、海を渡ろうと思っています。行ったことのない国へ……行ける所まで行ってみようかと。次に戻る時には、この黒髪が白髪に変わっているかもしれませんね」
自分の髪をつまみながら、おどけた調子で言うハーヴェイ様に、キリル様は目を丸くする。
「叔父様……遠くへ行ってしまうの?」
寂しげに眉を下げるヘリオス。ハーヴェイ様は微笑み、旅行鞄を床に置くと、その小さな身体を抱き上げる。
「君は本当に重くなったなあ。次に会う時は、もう抱っこ出来ないかもしれない」
「そうなの? それなら僕、もう大きくなりたくないな。叔父様の抱っこ、好きなのに」
「そうか……なら海賊と戦って、逞しい海の男になろう。君がどんなに大きくなっても抱っこできるように。だから、安心して大きくなるんだよ。美味しいお土産も、手紙も送るから。……あっ、海賊から奪ったお宝も」
「お宝!?」
「ああ。楽しみに待っているんだよ」
キラキラと輝く瞳に向かい、片手で楽しげに力こぶを作ってみせるハーヴェイ様。えくぼを浮かべるヘリオスをそっと下ろすと、巻き毛を撫でながら、再びキリル様に向かう。
「……兄上。馬車までの見送りは、セレーネだけにお願いしてもいいですか? 皆で来られると、寂しくなってしまうので」
玄関を出て、敷地の端に手配してあるらしい貸馬車まで、ハーヴェイ様と歩いて向かう。
……こうして何度、一緒に歩いただろう。初めて街に連れ出してくれた時、夜会で足が壊れた私を助けてくれた時、呪いに倒れたキリル様の元へ向かう時、兵器の処理や人々の治療に出掛ける時……
ハーヴェイ様は、私も知らない私の扉を沢山開けてくれた。ノックもなく、かといって無理矢理こじ開けるでもなく……私にぴったりの自然な鍵で、いつの間にかスッと開けてしまう。
しばらく無言で歩いていたけれど、ハーヴェイ様はふと長い足を止め、私へと身体を向けた。
「……セレーネ、僕は君に謝らないといけないことがある」
謝る……?
思い当たることなど何もなく、私は首を傾げる。
「もし死んでいる人を視た場合には、寿命はどんな風に映るのか。君は前、僕に訊いたよね?」
「……はい」
「その時僕は、死体にはオーラが視えないと。物でも人でも、未来がないものには何も視えないと、そう答えてしまった。その言葉が……未来がないなんて残酷な言葉が…………病気に苦しむ君をどんなに傷付けたか。本当に、本当に申し訳なかった」
苦しげに顔を歪め、頭を下げるハーヴェイ様に、私は慌てて叫ぶ。
「そんな……! どうかお顔を上げてください! 訊いたのは私ですし、ありのままを答えてくださったのですからお詫びなど……」
下から覗き込むと、ハーヴェイ様はやっと顔を上げてくれた。私を映すその空色は、限りなく透明で。深い彼の底が、しっかりと見えている。
「あと……お礼も言いたいんだ」
「お礼?」
何かしら。こちらも思い当たることがない。
「たとえあと一日でも、数時間でも数分でも。寿命が……未来があることが羨ましい。君のその言葉に、人の寿命が視えてしまうことへの恐怖が無くなったんだ」
「そう……なのですか?」
「うん。もちろん完全にではないけど。寿命だと思うから怖いんだ、寿命じゃなくて、限りある大切な未来だと思おうって。そう意識を変えたら、前よりずっと楽になったよ。こうして遠くへ旅に出る勇気が湧いたのも、沢山の未来に逢いたい……誰かや何かの、未来の一部になりたい。そう思ったからなんだ」
「ハーヴェイ様……」
「僕の寿……未来も、兄上に負けないくらい長いからね。怖がってばかりじゃ勿体ないだろう?」
「……はい」
人の寿命が視えてしまう。計り知れないその恐怖から逃げるのではなく、受け止め、前へ進もうとしている。尊い彼の姿に、胸が締め付けられた。
「どうもありがとう、セレーネ。君と出逢えて……本当によかった」
「私こそ……私こそ、ありがとうございます。うさぎも、ダンスも、天井の星も、ドールハウスも。沢山……沢山、本当に沢山……」
もうこれきりみたいな言い方に、我慢していた涙が溢れてしまう。しゃくり上げていると、ハーヴェイ様は胸ポケットから紺色の何かを取り出して微笑う。
「遅くなったけど……これもありがとう、セレーネ。旅のお守りにするよ」
もう見ることはないと思っていたそのハンカチに、私はあっと驚き、鼻水を啜る。
「これ、兄上から受け取ったのついこの間でさ。羨ましいやら嫉妬やらで渡せなかったんだって。全く、子供みたいな人だよな」
嫉妬で……まさか……いえ…………あり……得る?
キリル様の拗ねた顔を想像し、ぷっと噴き出してしまう。
「可哀想だから、兄上にも何か作ってあげてね。君が作ったものなら、何でも喜ぶと思うから」
「はい」
ハーヴェイ様はそれで私の頬を拭うと、胸ポケットへ丁寧に戻し、上から手を当てた。
「僕もこの鳥みたいに、自由に飛んでくるよ。……さあ、行こう」
出来るだけゆっくり歩いたのに、もう馬車へ辿り着いてしまった。雲一つない明るい空の下、ハーヴェイ様は私へ、美しい空色を向ける。
「セレーネ。僕は、君のことが好きだよ。とても、とても大好きだ」
その口調はいつも通り軽いのに、熱や哀しみや切なさや……そんな複雑な感情を帯びている。どこを拾えばいいのか、拾っていいのかも分からず戸惑っていると、そこに穏やかな言葉が重ねられた。
「君は、僕の大切な家族だよ」
……ただ、温かなものだけが残る。
「私も、ハーヴェイ様のことが大好きです。かけがえのない、大切な大切な家族です。だから元気に……ただいまって、帰って来てくださいね」
泣きそうな笑顔で頷くと、ハーヴェイ様は颯爽と馬車に乗り込む。扉が閉まろうとしたその時、私は思い切って尋ねてみた。
「ハーヴェイ様! 今の私の寿……未来は視えますか? あと何年生きられますか?」
すると彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべ、「う~ん?」と大きく首を傾げる。
「……視えないなあ、何も。健康でも、病人でも……死体でも。君にはやっぱり何も視えない」
死体でも……
目を合わせ、私達はくすりと笑う。
「では……義姉上、いつかまた、お会いしましょう。出来ればお互い白髪になる前にね」
ハーヴェイ様を乗せた馬車は、まるで羽の生えた鳥みたいに、青空へ軽やかに駆けていった。
────それから僅か数時間後、再び敷地内に馬車の音が響く。
ハーヴェイ様が戻られたのかしらと飛び出すが、立っていたのは見知らぬ男性。無精髭に薄汚れた服を纏ったその人は……なんとアイネ様が交渉していたという、カプレスク領の天才魔道具職人だった。
カプレスク侯爵にしつこく言われ、途中まで工事を終えた道を渋々見たが、その仕上がりに感動した。一日でも早く竣工するよう手伝いたい。遅くなってしまったが、山の掘削工事にも是非協力したいと申し出てくれたのだ。
突然降って湧いた奇跡に、キリル様とアイネ様の夢が、何年越しかでやっと叶おうとしている。
嬉しくて嬉しくて……すっかり緩くなってしまった互いの涙腺に笑い、抱き締め合った。
◇◇◇
あれから私達は、未来に向けて忙しい毎日を過ごしている。
新たな工事に奔走するキリル様と、呪いを吸い込む為あちこち赴く私。ヘリオスも苦手な算術と魔力の制御を頑張り、ジュリは変わらず私の侍女として働きながら、ラトビルス領に呼び寄せたお父様の回復に努めていた。
そして私は──決意通り、苦しむ人たちの元へ赴いていた。死体だった時とは違い、一度に大量の呪いを吸い込むと具合が悪くなることもあったけれど、そんな時はいつも、ヘリオスのお菓子が助けてくれた。愛する人たちのために、自分を大切にしたいから。その内自分の限界を把握し、なるべくお菓子に頼らなくても済むように、仕事量を抑えられるようになった。
また、どんなに忙しい日でも、朝は家族の時間を、夜は二人きりの時間を大切に過ごした。
満天の星が降る中庭。
私はあの夜会と同じ、アイスブルーのドレスを着て、ドキドキしながら待ち人に想いを馳せる。
ふと胸元に不思議な熱を感じ、見下ろした途端、真っ赤な花束が現れた。夢みたいに綺麗なそれを、私は咄嗟に抱き締める。
一体何本あるのかしら……
腕一杯の瑞々しい薔薇に、涙が溢れてしまう。
「本当に落とさなかったな」
耳朶を震わせる優しい声。振り返ると、正装姿のキリル様が微笑みながら立っていた。アイスブルーのクラヴァットには、ジュリがくれた金糸で刺した、星の刺繍が嬉しそうに煌めいている。
「……はい。こんなに素敵な贈り物、絶対に落としたりしません。消えないように……どうか夢でありませんようにって……」
言葉にならない私を、キリル様は花束ごと抱き寄せる。
「セレーネ嬢。どうか私と、本当の結婚をしていただけませんか? 温かな喧嘩をたくさんできるような……そんな幸せな未来をお約束致します」
憧れていた約束。私とキリル様、二人だけの特別な約束。ぐちゃぐちゃの顔のまま、消えてしまわないようにしっかりと答えた。
「はい……そのお約束、必ず守ります。ずっとずっと……守ります」
小指を差し出せば、キリル様は目元をくしゃりと垂らし、熱い小指で未来を結んでくれた。
向かい合い、手を取ると、忘れていなかったあのステップを踏む。初めて踊った夜よりも、もっともっと心が一つに熔けて。踊り疲れ、眠たくなるまで……何度も何度も繰り返していた。
今日も普通の幸せな朝が来た。
キリル様の甘い唇で起こされ、お布団から出たくないな、なんてじゃれ合いながら着替える。手を繋いで歩く廊下の先には、焼き立てのパンと紅茶の香りが漂う食堂。ぴょんと髪の跳ねた、寝ぼけ眼の可愛いヘリオスを抱き締め、元気に挨拶を交わす。食卓に着いて、美味しい朝食を摂りながら、今日の未来を語り合う。
そんな光景を見守るのは小人の家族。彼らが住むドールハウスは、ヘリオスが選んだファブリックで賑やかに飾られている。ソファカバーはアイスブルー、クッションは金と青、テーブルクロスは空色、絨毯は虹色、ベッド周りは鉄腕騎士、そして……
黄色い花が描かれた小さなカーテンが、私たちの笑い声に揺れ、嬉しそうに輝いていた。
~ 完 ~
ありがとうございました。




