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第九十二話 揚陸作戦

 俺が座上するワラキア海軍の旗艦は、海峡の不規則な風に大きく揺れている。

「まったく………結局ここまでついて来ちまって………」

 俺は胸を押し付けるようにして、腕の中で丸くなっている伴侶に深々とため息をつくほかなかった。

「妾はたとえどこなりと我が君の傍にいると言ったぞ」

 それがヴラドにとって迷惑であろうとも変えるつもりはない。それはヘレナにとって絶対の誓いなのであった。

「…………今回ばかりは本当に危ないから連れて行きたくないんだがなあ」

 目を転じれば狭いボスフォラス海峡を埋め尽くさんばかりの大艦隊が粛々と南下を続けていた。

 ワラキア公国軍二万四千名にジェノバ軍傭兵二千は、ヴァルナ港から夜陰にまぎれて人知れず海路コンスタンティノポリスを目指していたのである。

 ジェノバの誇る黒海艦隊の約七割と商船ガレーが多数・そして外洋に於ける艦隊戦にはまだ不安があるものの、沿岸を兵員輸送する程度ならなんの問題もないワラキア河川海軍が、総力をあげてこの輸送作戦に従事していた。

 史実においてルメリ・ヒサルが建造された場所から十数キロ北部に、カイルバシーと呼ばれる小さな入り江がある。

 上陸の目的地はそこだった。

 ミルチャコフがオスマンの目をアドリアノーポリにひきつけている間に揚陸を済ませ、どれだけ速く内陸へ進軍に出来るかに作戦の成否はかかっている。

 しかしそれが最速も極めた場合でも、勝率は五割には届かないかもしれない、というのがオレの正直な分析であった。

 出来うることならヘレナを連れて来たくはなかったのだが。

「妾が我が夫の傍にいずしてどこにいるというのだ?」

 そうして莞爾と笑うヘレナを俺はどうしても突き放せずにいた。

 おそらく後世には戦場に幼女嫁を連れて行った軟弱者として書かれるんだろうな…………。

 さすがにヘレナを連れるのは人目を憚る。

 そうした汚名を被ることも仕方のないことだろう。

 古来から恋愛は多く惚れたほうが負けなのだ。

 つまりそれは俺のほうがヘレナに心の底から惚れていることにほかならなかった。

 ならば男としてするべきことは決まっている。

「我らの将来に仇なすものたちに等しく死を与えよう。奴らの屍の山が俺がヘレナに与える愛の証だ」

「それでこそ我が夫よ」

 抱き寄せ、貪るように口づけたヘレナの唇からは、生得の甘い花の香りとともに、わずかに鉄さびた血の味がした。


 港町カイルバシーに上陸したワラキア公国軍は、一斉に南下して史実ならばルメリ・ヒサルのあった砲台群に背後から襲い掛かった。

「装填! 速射! 二連! 撃て!」

 極限まで省かれた単語の羅列によって、ワラキアの歩兵たちは腰に巻きつけられた早合の紙を歯で噛み切り。すばやく火薬を流し込むと手早く杖で突き固める。

 その所作は流れるように流麗で澱みない。

 訓練のほとんどを射撃に費やしてきた練度の高さが如実に表れた瞬間だった。

 十秒ほどという短い時間で装填を完了した数千に及ぶ銃口が、その凶悪な顎をオスマン砲兵へと向けられた。


――――轟音


 密度によって命中率の低さをカバーした銃兵の射撃音が響くと同時に、オスマン兵がばたばたと倒れ、あるいは隣で倒れた戦友を見て恐怖に心を捕らわれたオスマン兵が、算を乱したように逃げ惑うのが見て取れる。

 再びの轟音が響くと、もはやオスマン兵の動揺は決定的なものとなった。

「突撃!」

 銃兵たちが一個の槍兵に姿を変じて、雄たけびとともに吶喊していく。

 槍先を揃え統制された歩兵の突撃を阻止できるものは、同じく統制された歩兵か圧倒的な火力のみだが、そのどちらも不幸にしてオスマン兵に残されてはいない。

 海岸線の防御陣地はワラキア歩兵によってなすすべなく蹂躙される運命にあった。

 本来、海上を侵攻するワラキア・ジェノバ両艦隊を撃滅するために整備された多数の砲列はその威力を発揮することなく破壊され、あるいはワラキア軍に鹵獲されていったのである。

 コンスタンティノポリス攻城が本格化したことで、海峡側の防備が大陸側に対して薄かったことが災いした。

「くそっ! なんで後ろからワラキア兵が来るんだよ? 」

 オスマン兵の当惑は正当なものであろう。

 遠くブルガリアの北辺に至るまで全てはオスマンの大地である。

 その中央部にあたるこの場所に、いったいどこからワラキア兵がやってきたものか彼らには想像もできない。

 これほど大規模な海上揚陸機動など、英仏独の三王が揃った第三回十字軍ですら行われていないのだ。

 大陸側から海岸線に向けられた攻撃に退路はない。

 膝をつき、許しを乞うオスマン兵たちの上にも無慈悲な槍の一撃が突きたてられていった。

「悪いな。今は捕虜をとる余裕はない」

 これからオスマン本隊との戦闘を控えている以上、捕虜を連れ歩く余裕などあるはずもなかった。

 あえて逃げるに任せる余裕もない。それでなくとも戦力は遙かに劣勢なのである。

 悲鳴と怒号が飛び交うなか、オスマン兵の屍だけが積み重ねられていく。

 もちろん捕虜をとらぬ以上は、自らも捕虜になる選択肢がないということを、その場の誰もが承知していた。

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