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第百七話 終末の使者

「兄上は気の毒だったな」

「………閣下にそう言っていただければ亡き兄も名誉とするでしょう」

 ワラキア情報省が所有する隠れ家の一室でシエナは一人の男と向かい合っていた。

 男の名はドール・カレルモと言う。

 シエナ配下の情報員の一人だが、ワラキアでも中堅貴族のカレルモ家の三男坊でもあった。

 ドールの兄ジョゼフは優秀な近衛士官だった。

 士官学校を優秀な成績で卒業し、近衛に抜擢され傾きかかったカレルモ家に栄光をもたらしてくれると家族の誰もが信じて疑わなかった。

 もちろん、優秀な兄の背中を追い続けてきたドールもまた。

 だが兄はオスマンとの戦いのなかで全軍の後退を守りきり、伝説の一部となってベクシタスの露と消えた。

「………ジョゼフを失ったのは近衛にとって掛け替えのない損失だ。貴君には明日より近衛士官としてジョゼフ亡き近衛隊を支えてもらいたい」

 シエナの言葉に思わずドールは耳を疑った。

 それが出来そうにないからこそ、自分はこうして情報省に勤めているのではなかったか。

 決して武に劣るというわけではないが、情報員であるドールの武は、精鋭である近衛のレベルには及ばない。

「というのはあくまでも表向きの理由だ。貴君には託すべき使命が別にある」

 シエナの抑揚のない声にドールの背筋が凍る。

 この目の前の上官が、どれほどの陰謀と策動によって屍の山を積み重ねてきたかをドールはよく知っていた。

「…………兄上の仇が討ちたくはないかね?」

「それが叶うことならば」

 それがひどく魅惑的な言葉に聞こえたのはシエナの誘導によりものなのか、それとも己の内なる声が叫ぶのか、それはもはや判然としない。

 しかしドールの胸はいつしかえもいわれぬ高揚に満たされつつあった。

「貴君の兄上を討ったオスマンの指揮官が明日、殿下のもとを交渉に訪れる」

 苦いものを飲み込むように顔を歪ませるシエナを、ドールは驚きとともに見つめていた。

 後にも先にもこれほど鉄面皮のシエナが、感情を剥きだしにするのを見るのは初めてであったからだ。

「カレルモ家の将来は私が一命にかえて保障しよう。……君がオスマンの使者を討つのだ」

「我が身命にかけて」



 荒野を一人の騎士が歩いていた。

 馬もなくただ一人で歩く姿は異様ですらあった。

 オスマン帝国を代表する使者にしては余りにもその身なりは粗末なものであり、その身体はとうてい使者の任に耐えうるものとも思われなかった。

 しかし生来培われた美貌は、そんな有様でもいささかも失われていない。

 血と埃にまみれたその姿は、まるで追放された罪人のような気配すら感じられた。

 事実、オスマンにとってその騎士は、罪の忌み子にほかならなかったのだ。

 その忌み子の名をラドゥと言った。

 オスマンとワラキアの和平交渉をするべく、ラドゥがヴラドの本営の門を叩いたのはまだ昼よりも早い時間であった。


 ラドゥがどんな条件を示そうとも、ここでオスマンと講和する選択肢はない。

 その見識でワラキア閣僚たちとの意見は一致している。

 現在のワラキアを取り巻く状況は、もはや一国の平和をもってよしとする状況にはないからだ。

 極端なことを言えば、オスマン帝国がボスフォラス海峡を渡って故地であるアナトリアに逼塞するくらいの条件でなければ講和などありえないといってよい。

 すでにアルバニア・フランスの連合軍がトラキア地方を南部から侵食し始めており、コンスタンティノポリスから出戦したヤン・イスクラと合流するのは時間の問題であった。

 そうなればもはやアドリアノーポリのオスマン総軍は、東欧に完全な孤立を強いられることになるだろう。

「…………それでも交渉に応じてしまったのは俺の弱さか」

 それがほんの一欠けらの可能性であっても、ラドゥがワラキアに亡命してくれる可能性を捨て切れなかった。

 明確な敵対行為を働いた者だとしても、心のなかでは故郷を家族を慕っていると信じたかった。

 メムノンがなんの策もなくラドゥを送り出すはずがないとわかっていても。

 アドリアノーポリ北西の原野に敷いた天幕で、ラドゥの訪れを待っていた俺は、変わり果てたラドゥの姿に絶句した。

「――――ここまでやるのか」

 一目見ただけで、俺がよく知るラドゥはとっくの昔に壊されてしまったのがわかった。 

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― 新着の感想 ―
[一言] 中世の話なんだし、すぐに牢に監禁してしまえば良いのに 何十年もかけて洗脳されたラドゥが自発的に亡命してくる事などないとわかっているのだから
[良い点] 逆鱗に触れるとはこの事か。
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