知者は惑わず、勇者は恐れず
知者は惑わず勇者は恐れず……物知りの者は物事の道理に通じている。なので、事に当たっても迷い乱れることがなく、また勇気のある者は、こわがることなく、事に当たって恐れることはない。
それは、彼女の友人が知らない話。
それは、彼女と彼女の協力者だけが知る話。
ひとつの悲劇が幕を閉じ、また別の悲劇が幕を開け、また幕を閉じ、そしてまた別の悲劇が幕を開けようとしていた。
それぞれ異なれど、確かに“ひとつに”繋がるみっつの話。
「……わたしが、記録する。絶対に、誤った情報を未来へと残させやしない」
彼女は決意を固めた。
過去、何と言われていても。
現在、何と言われていても。
それら言われていることは事実でもないし、真実には程遠い。
だから、事実を知り真実を語ることができる彼女だからこそ、彼女は自分の手で事実を伝えることにしたのだ。
彼女には耐えられなかった。彼女の友人が貶められ、稀代の悪人と語れていくのを見て、聞くのを。
それは違う――事実は、真実は、本当に起きたことは、あったことはこうなのだ、ああなのだと言って回りたい。
違うのだ、それは違うのだ。
彼女の――イーリスが心を許した唯一人の友は、そんなに悪人じゃないのだ。
ただ、恋を知って、恋に落ちて、馬鹿になったけれど……本当の悪人に騙されて、貶められて、嵌められて。事実を、真実を歪められたのだ。
真に謀を企んだ輩によって。
だから、イーリスは記す。
協力者たちの手を借りて、力を共にして。
違えられた事実を、真実を本物に塗り替え直すために。
だから、イーリスは悪人が嫌いだ。イーリスも、協力者――友の師も、友の弟も、イーリスの弟も。
「レアンドラ、見ていて。覆すまで、見ていて。だから、それまで」
イーリスは、墓地の端にひっそりとある友の墓前にて誓った。
「だから、それまで。……こうなっていたらよかったな、っていうお伽噺を読んで、待っていて」
――一冊の、夢物語を薔薇の花と共に供えて。
それぞれ別のふたつの悲劇を、ひとつのハッピーエンドに仕立てた、ひとつの「あったかもしれない」可能性として。
誰も傷つかず、誰も泣くことも、怒ることもなく、悲しむこともなく、いがみ合うことなく、誰もが――……誰もがハッピーエンドを迎える物語。
イーリスはしばらく墓前に祈りを捧げていた。唯一無二の友、レアンドラの魂に安らぎがあらんことを、と。
そしてイーリスは立ち上がり、みっつ目の開こうとしていた悲劇を彩るべく、動き出した。
そして、物語は動き出す。
☆☆☆☆☆
事実というものは、実際にあったこと、実在することを示す。
真実というものは、本当のこと、嘘偽りのないことを示す。
レアンドラがカルツォーネの国の貴族であったこと、恋に溺れ策に嵌まり獄中死したこと、それも事実で真実だ。
そしてレアンドラの獄中死のあとにも、ただレアンドラが知らないだけで、たくさんの事実と真実が存在している。
レアンドラが獄中死したあとのことで、薫子が「知っていること」は少ない。
また、それらのことは全て祢々子経由で入手し、知った事実で真実だ。
――つまり、当たり前だけれども、レアンドラの死後に入手した話・情報である。
薫子がレアンドラとして知っていること。
祢々子がアーシュとして知っていること。
それらが彼女二人の手中に握っていることで、彼女たちは「それ以外のこと」を知らない。
だから困ったことに、汐見姉弟が知っていることを、事実で真実かと見極める情報は少なかった。
……それでも。
彼女たち二人は、少ない手札をもってしても、写真の数々に映るのは間違いなくクララ・ジスレーヌその人にしか見えなかった。
古民家の玄関の前でにたりと笑う洋服のクララ・ジスレーヌ、桜の下でほくそ笑む洋服のクララ・ジスレーヌ、校門の前で制服で艶然と笑むクララ・ジスレーヌ。
あの一枚目の写真が出た後、それを皮切りに汐見姉はたくさんの写真を、机の上に並べ始めたのだ。
その写真は全てクララ・ジスレーヌ単独で映る写真。はっきりいって不気味としか言いようがなかった――前世の真の敵役が、現世にその姿のまま存在し、しかもホラーめいたナニカに進化しているようなのだ、無理もなかった。
「最後はこれです」
そして汐見姉は締めだといって、また一枚写真を取り出した。
それには、汐見姉弟ともう一人、姉弟によく似た面立ちの少女が映っていた。儚げな印象の、艶やかな黒髪が美しい、制服を身にまとう少女。
クララ・ジスレーヌと比較するように、その写真は並べられた。
「わたしたちにはクララにしか見えない、けれどもこちらは……」
こうも何枚ものクララ・ジスレーヌの写真を見せられ、薫子は汐見姉が何を言いたいかを読み取った。
「……クララに乗っ取られる前の、お姉さんね?」
クララ・ジスレーヌは、汐見姉弟の長姉・八重歌の肉体を――どういう訳か、乗っ取ったらしい。
そして、クララ・ジスレーヌは八重歌に成り済まし、何かを成そうとしている。八重歌の肉体をネタに脅し、汐見姉弟を利用して。
――『わたくしのいうことを聞かなかったら、わかって……ますわよ、ねぇ?』
少しでも己の思い描くこと以外のことを、汐見姉弟がすれば、クララ・ジスレーヌはそう言うのだという。
「手のひらを横にして、首に当てて、とんとん、として、……“この肉体の生死はわたくしが握っているのよ?”というんです……!」
ぎり、と汐見姉は唇を噛んだ。強く噛みすぎたのだろう、血が滲み始めている。
机の上で握られた拳も大きく震え、そんな姉の様子を、汐見弟が不安げに見つめていた。
そんな汐見姉の手を、薫子は包み込むように自分の両手で覆った。
「落ち着きなさい!」
薫子の渇に、汐見姉弟はびくっと大きく肩を震わせた。
「貴方がたが落ち着かないと、お姉さんは救えませんわよ」
薫子は、ぎゅっと意志の強い光の宿った目で汐見姉弟を見た。
「さっさとお伽噺は終わらせますわよ」
そして、薫子は微笑んだ。
自信に満ちた、堂々としたレアンドラの笑みで。
「あたくしは――レアンドラである私は、あの女の姑息な手段に、決して負けはしない」
――『お前は姑息な手段に、決して負けるな』
薫子の脳裏に、かつての師の言葉が蘇った。




