事実は小説より奇なり
レアンドラは狩猟が得意だった。
もし身一つで野に放たれたとしても、きっと無事に生き延びることができるだろうと、師から太鼓判を押されるくらいだ――どんな貴族令嬢だ、という突っ込みどころ満載ではあるけれど。
実際、野戦を想定した野外での狩りを、レアンドラは何度も何度も繰り返し経験してきた。
大蜥蜴だって、猛虎だって、暴れ猪だって、巨大な牡鹿だって、鹿と猪を足したような魔物も、鳥の羽を持つ魚の魔物も、蛇の尾を持つ牛の魔物も――皆、レアンドラの剣の前では子猿に等しかった。
時には剣で、時には弓矢で、時には棍棒で、時には投石で、時には盾で、時には罠を作り――たったひとりの人間を前に、野生動物も魔物でさえも歯が立たなかった。
そんなレアンドラが唯一物怖じしたのは、夜の黒森と呼ばれた大森林の、森の主と呼ばれた身の丈三メートルはゆうに越す大猿と対峙したとき。
地球でのゴリラと似て、けれども一般的なゴリラより大きいその大猿との戦いの際、対峙してすぐにレアンドラは得物の剣を折ってしまった。大猿の力は、金属の剣をも折る破壊力だったのだ。
そして、対峙するものに身をすくませる威圧を放つ強者だった。
剣が折れた後、いつもの狩りよも時間をかけて、レアンドラは辛くも勝利を得た。
あの大猿と対峙したとき、レアンドラは滲み出る冷や汗と湧き出す恐怖を――初めて体験した。
威圧と、死に近づいた恐怖を。
それは、動物としての、生きるものとしての上位者、強者への本能的な恐怖だったのだろう。
どこまでも規格外だったレアンドラでさえ、感じる恐怖を表に出さずに冷静振る舞い、失敗をしないようにするだけで精一杯だった。
しかし、やはりレアンドラは規格外であった。令嬢ではなく、狩る側としても規格外だった。
――もちろんというのか、その恐怖も最初だけだった。
対峙して――すぐにとはいかずとも、剣が折れ十数分も経たぬうちに、レアンドラはいつも通りに戻った。
――『強いヤツに当たれば、それはチャンスだ』
レアンドラの師は言った。
――『強いヤツの上をいく勢いで、そいつをのすんだ』
レアンドラの恐怖を跳ね返したのは、何よりも師の言葉だった。
どんな境遇でさえも、己の糧に変えてしまうレアンドラの師は、「ヤバイ相手」でさえ敵にしない。危険でさえ糧認定する、なんともポジティブすぎる師だった。
――『いいか、敵じゃねぇ。踏み台と思え。強くなるための、次へのステップだ』
そんな師に師事したレアンドラは、元より規格外だったので何にも疑問に思わずに実行した。
「おーほっほほ! あたくしを倒すなんて不可能よ! あたくしの糧になりなさい! おーほほほほ!!」
――レアンドラは高笑いとともに、投石やら毒の吹き矢やら折れた剣やらによって、大猿を倒したのだった。
巨体ではあり得ない俊敏さや、知性の高さに翻弄されつつ、その勝利は辛いものではあったけれど、確かにレアンドラはこの戦いを己の糧とした。
レアンドラはこの大猿との戦いにより、強さがより飛躍した。師が、王国の騎士団の入団試験に余裕でパスできると大笑いするくらいに。
……やはり、レアンドラはどこまでも規格外だった。
☆☆☆☆☆
紹介された蔦村の兄は、行方作家姉妹の専門の担当なのだという。
蔦村の兄の勤める出版社・篤瑛社は行方姉妹の姉作家の作品はもちろんのこと、妹作家の作品を何作も出している。
――そして他の出版社と比較して、妹作家の作品が多いことで有名な出版社だった。そう、姉ではなく妹の、である。
能面のような顔で笑んでいる蔦村の兄は、すらすらと目的を薫子たちに告げていく。
今回の目的のより詳しい内容――ひとつ、これはアルバイトではなく、ボランティアに近いものであり、金銭が絡んだ雇用契約ではないこと。
ふたつ、依頼は出版社からではなく、姉作家こと行方アリー本人からの依頼であること。
みっつ、目を通した行方アリーの作品は決して他言無用であり、外部へ漏らしてはならないこと。
――そして、ここからが重要だった。
行方アリーは、信用のおける担当である蔦村を通じて「協力してくれる読者」を募った。よって、行方アリーは「蔦村の兄が合格だと太鼓判」を押した相手にしか会わない、ということ。
……つまり。
「失礼ですが、先生にお会いできない可能性もある、と?」
音次郎はにっこりと笑った。表情としては確かに笑んでいるが、目は笑っておらず、なおかつ雰囲気で「お話が違いますよね。会えないってどういう意味ですか、ああん?」と蔦村を責めている。何とも器用である。
「はい。妹はその説明はしていなかったようですね?」
蔦村の兄も、音次郎を見て、すぐに彼の言いたいことに気付いたらしい。能面のような顔に若干怒りが混じり、その怒りは妹に向けられた。
「……織雅?」
蔦村は、吹雪を背負う男性二名に視線を向けられ、ぷるぷる震えていた。
(……誰……)
音次郎と蔦村の兄による、蔦村への責めが展開されているなか、薫子はひとり冷静さを取り戻していた。
――貴族の長子は、常に泰然とあれ。
薫子となった今でも忘れずにいるかつての教えは、薫子をすぐに冷静にさせる。たとえ貴族ではなくなっても。
冷静を取り戻し薫子は、兄という最強の盾に守られながら、蔦村の兄から目を離さなかった。
――今の薫子は、大猿と対峙したレアンドラとよく似た心境であり、そして現状をあの時の状況に見立てていた。
蔦村の兄が、大猿。
こちらの戦力は、盾である兄・音次郎、そして己。戦況はまだどちらも有利とはいえない。
薫子自身が武器である今の現状、薫子の持つカードは限られる。
その中でも一番大きいのは、レアンドラとして得て、そして魂にまで染み込んだもの――狩り、戦闘においての勘。
この時の薫子の思考は、いつも以上に素早く回転していた。
(このひとは、“あたくし”が知らないひと。そして“あたくし”が物怖じした相手)
レアンドラが物怖じする相手なんて限られている。
あの大猿くらいか。師や目の上の相手でさえ――両親や他家の当主にさえ物怖じしなかったくらいなので、レアンドラが物怖じする相手はよほどの相手ということだ。
そして、レアンドラは蔦村の兄が「あちらで誰だった」のかが判別できない。
薫子は一目見るだけで、「あちらからの誰の生まれ変わり」かを判断できる。
けれども、あちらからの生まれ変わりは、まだ二名しか会っていない。つまり、二名しか事例がない――それでも、薫子はこの判断を誤りだとは思えない。
薫子自身の「生まれ変わりだと判別できる」直感は、「そういうものだ」と自ずと理解してしまうのだ。それは薫子自身が「レアンドラであり、薫子である」ことと同じく、「それで当たり前」のことなのだ。
だから、蔦村の兄が別の時代別の国ではなく――あちら、レアンドラが生きたあの時代のあの故国の誰かだと「断定できる」のだ。
そして、今回のように「誰だったかわからない」生まれ変わりということは、つまり「レアンドラが知らない誰かだった」と言い換えられる。
(“あたくし”の知らない誰かは、会ったこともない“あたくし”を物怖じさせる相手)
多方面において規格外のレアンドラを、物怖じさせることができるレアンドラにとって初対面の人物なんて限られてくる。
レアンドラは、王家の有事などは身をていしてお守りする一族の性質上、無駄に顔が広かった。
レアンドラは王族はもちろんのこと、王族の出入りする場所の面々は必ず全員を、そして他国の重鎮までをも顔と名前を一致させていた。不届き者などの侵入者、賊や間諜などへの対策である。
そんなレアンドラでも知らない人物、それはつまり――
(国王の、駒)
監視王、狂犬王と呼ばれた国王の猟犬という名の諜報部隊だ。
国王エフシミオス三世は、子飼いの猟犬という名の手駒――諜報員を数多飼っていた。
監視王の名は、この手駒を使い全てをあまねく見張っていたから。
諜報部隊は、すなわち王の目。彼らは国内外問わず広く放たれ、民や貴族――国民と他国を余すことなく監視していた。
彼らの情報は徹底的に伏せられ、誰もが「わからないままに」監視されるという恐怖にあった。
国王の寵姫のクララ・ジスレーヌが指揮した、独立した諜報部隊――“猫”と違い、誰もが正体を知らない。ちなみに猫の正体は、レアンドラの師であるクララ・ジスレーヌの父が執念で突き止めていた。
(おそらく、王の目の上層の立ち位置にいた歴戦の、たくさんの修羅場をくぐってきた強者)
アーシュ・チュエーカ、エドヴィン・カシーリャス、クララ・ジスレーヌ――そして王の目のメンバー。
まさしく、事実は小説より奇なり。
――平穏を望むレアンドラは、どうやっても前世との因縁から逃れられないらしい。
「妹がきちんと説明をしていなかったようで申し訳ない」
「期待してしいましたからね、否定できませんね」
――そして、薫子が思考の海に浸っていた間にも、話はなかなか進展していないらしかった。蔦村はまだぷるぷるしていて、明らかにぷるぷる度が悪化している。
「しかし、妹はうっかり者のお馬鹿とはいえ、ひとはきっちりと見ます」
蔦村の兄は、妹にたいへん容赦がなかった。
「はい、先輩は確かに、うっかりさんです。そして目が肥えています」
音次郎も容赦がなかった。ただの後輩であるはずだというのに、ずばっと切った――そこに、薫子はふたりが「ただの先輩後輩以上の関係」だと見た。蔦村の片思いだけではなく、思った以上に縁は深そうである。
「なので、貴殿方を先生にお会いする権利は、お渡しできます」
蔦村の兄は、権利はのあたりを強調した。
「お願いしている側なのに変な話ですが――問題がデリケートなため、ご容赦いただきます」
蔦村の兄は、にっこりと笑っていった。たいへん狸のような笑みだった。
けれどもその笑みは、薫子たちではなく、襖の向こうに向けられていた。襖の向こう、つまり通路へ。
「貴殿方に真にご依頼するかは、先生に判断いただきましょう……ねぇ、先生方」
――それを合図に、襖が開かれた。




