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幕間〜新しき時は寂然となりて

寂然(じゃくぜん、せきぜん)……ひっそりとしていて、さびしい様子。


 アーシュは、誰もが羨む華々しい人生を歩んでいるはずだった。

 アーシュは王都の下層にて、奔放な母親のもとに生まれ、父無し子と揶揄されて育った。

 物心ついたとき、既に母親の隣は不特定多数の男性がいた。

 アーシュの母は、取り立てて美しくもなく、しかし不思議と男がきれずに絶え間なく情人のいる人だった。アーシュのヒトタラシは、思えば血筋だったのだろう。

 そして、常に違う男性を侍らしていた母がいた生活環境は、アーシュの交遊関係と貞操観念、ひいては情操教育に深い影響を与えた。

 アーシュの母の情人は、必ず“誰かの恋人”もしくは“誰かの伴侶”だった。つまりアーシュの母は奪略していたのだ――誰かから。

 ――結果、アーシュの特異な貞操観念が成立した。

 誰かのものでも、気にせずに欲しければ手に入れればいい。

 他人のものでも、自分が欲しければそんなこと関係ない。

 アーシュの貞操観念は、酷く倫理を酷く損ねていた。

 そしていつしか、この酷く損ねた倫理観は助長し悪化の一途を辿る。


「この力は」


 初潮を迎えたアーシュは、不可思議な力を発現した。

 それは、些細なことがきっかけだった。

 母が、情人のひとりに暴力を振るわれた。

 アーシュの母は貞操観念が酷くおかしい人ではあったが、腹を痛めて産んだ子には深い愛情を注いだ。

 アーシュが暴力を振るわれた際に、庇ったのだった。何よりも愛しい愛しい我が子を、守ったのだ。

 アーシュの母は殴られて転倒し、激しく頭を打ち付けた――家具の角に。

 酷い情操教育を受けていたアーシュも、母を何よりも愛し慕っていた。その母が、土気色の顔で額からどくどくと血を流し、倒れてピクリとも動かない。

 母を亡くすことへの、恐怖がアーシュを支配した。

 ――それが目覚めのきっかけだった。

 アーシュは無意識に、無我夢中で母の額の傷に掌をあてた。

 すると、どうだろう。

 血は次第に乾き始め、みるみるうちに血が塞がり、母の顔色が一気に良くなったではないか。


「……奇跡だ……」


 ――その場にいた、暴力を振るった男が唇を戦慄かせた。




 やがて成長したアーシュは、掌を患部に翳すだけで怪我を治す奇跡の乙女と持て囃され、いつしか聖女の再来と市井で噂されるようになる。

 同時に年頃になるにつれて、母親譲りの恋愛への節操の無さも浮き彫りになっていく。誠に酷いものだった。この頃には、「世界は自分を中心に動いているの」と傲慢なアーシュの人格が形成されていた。

 レアンドラの取り巻きが集めたのはこの辺りの情報だった。

 そして時が過ぎ、アーシュの母は病を得て帰らぬ人となる。アーシュは、病は治せなかった。聖女の再来といわれても、聖女との差はこうして確かにあった。

 母を亡くしたアーシュは、やがてチュエーカ男爵家に引き取られた。このチュエーカ男爵こそ、あの暴力男である。

 チュエーカ男爵は、自分の子だからと引き取ったわけではない。アーシュは、実際は「種のわからない子」だった。そんなどこの骨とわからない娘を庶子として引き取ったチュエーカ男爵は、たいへん野心に溢れた男であった。

 奇跡の力を持ち、聖女の再来と謳われる娘。

 聖女はすなわち王家の祖。

 ――チュエーカ男爵は一言でいってしまえば、王座を欲していた。

 アーシュを担ぎ上げ、無謀にも謀反を企んだのだ。

 アーシュとはいえば、そんな養父の謀など知らずに相も変わらず奔放だった。

 気に入った男を、母譲りのヒトタラシで籠絡していく。レアンドラが被害者となったのもこの辺りである。

 ――そして、レアンドラが獄中死を迎える。




 チュエーカ男爵の悪事も、やがては暴かれていき、アーシュも処刑台に登ることとなる。

 聖女が舞い降りたという地をその血を染めて、アーシュはその人生に幕を下ろした。

 しかし因果は巡る。

 アーシュは別の世界、別の国で別の人生を歩むこととなった。

 その世界は、アーシュであった頃と全く違って。

 アーシュを知る者は、誰ひとりいなくて。


「エド、エド!」


 アーシュを覚えている者も、誰ひとりいなくて。

 それは業の深さなのだろうか。

 アーシュがレアンドラから奪ったエドヴィンは、アーシュの兄だった。

 しかも、アーシュを覚えていないどころか――彼はアーシュのように、生まれる前のままではなく、全くの別人で。

 アーシュは、誰もアーシュを知らない世界で、たったひとり。

 ヒトタラシは相も変わらず、しかし片親の父は転勤族で、中途半端な時期の引っ越しをせざるをえなかった。

 アーシュは、あれだけ愛した母もいない世界で、厳格な父と、かつての記憶のない恋人が別人となった兄――なのに悲しいほどに優しい兄と、友達が作れないのに――常にたくさんのひとに囲まれて、そうして長じていくなかで、己の罪と向き合うこととなった。

 そして、あちらでは知ることの無かった感情を身に染みて感じるようになる。

 ――寂しい。

 酷い性格だった。

 恨まれて当然だった。

 これは、罪だ。

 次第にアーシュが感じる寂しさは、深く深くなっていく。

 あれだけたくさんの人に囲まれていたのに、今は誰もいない。

 その寂しさは、アーシュの自責の念と後悔と、贖罪の念とを募らせていく。

 本当に償う相手がこの世界にはいない、けれども募る贖罪の念。これは酷く業の深い罪だ――アーシュが挫けそうになったとき、環境が変わった。

 定住した。

 ゆくゆくは過ごす老後の為にと、父が定住するために家を購入し、先に兄妹が住むことになった。

 アーシュはその定住の地で、思わぬ再会を果たす。


(レアンドラ!)


 ――会えないと諦めていた贖罪すべき相手と、再会した。


(もう、失敗はしたくない)


 アーシュは、穴が開くほどにレアンドラを見た。

 ――こうして、かつての敵対したふたりの人生は再び交差する。


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