二章七話[華麗なる一撃]
「お待ちどう!」
そう言って食堂へと戻ってきた瞬間、ざわめきが止んだ。
全員の視線が、俺が抱えている大鍋の方に集中する。
その中を悠然と歩き、向かうはいつの間にか審査員席みたいに並べ替えられたテーブル。
「よお兄ちゃん! それが……?」
「ああ!」
頷きながら、俺は審査員席に座るギリアン達の前に鍋を置いた。
――さあ、刮目しろ!
これこそが、ニックの薄味スープを生まれ変わらせた至高の一品。
その名も――
「――俺特製、“海老のビッグウェーブカレー”だ!」
そして俺は、鍋の蓋を取り上げた。
瞬間、
「う、おおお……ッ!?」
「あら、なんて素敵な匂い……」
息を呑むギリアン。その隣に座るヴィオレさんも、口元に手を当てながらうっとりと微笑む。
食堂の隅でニックだけが顔を顰めていたが、気にしない。
それは、まさに激流。
海鮮とスパイスが織りなす香りの奔流に、他のテーブルの乗客達も身を乗り出し、懸命に鼻を動かしていた。
でも――まだだ!
驚くのはまだ早い。
「レイ!」
「はいにゃー!」
俺の背後から、ドーム状の銀蓋を被せた皿を持ってレイが登場。軽やかな動きでそれらを審査員席に並べた。
――さあ、もう一度驚け!
俺は勢いよく蓋を持ち上げた。
露わになる皿。そこに現れたのは――
「まあ、綺麗……」
吐息を漏らしたのはヴィオレさん。
ギリアンやニック、周囲の乗客達にも一斉にどよめきが走る。
「な、なんだそれは……!」
「米……だよな? だが、この色……」
「ああ! 見ての通り、ただの米じゃない!」
この目の覚めるような黄色と、干し草にも似た独特の香り。
皿の半分を埋め尽くすこれは――
「――“サフランライス”だ!」
「さ、ふらん……?」
その音の羅列に眉を顰めるギリアン。
まあ、知らないのも無理はない。
俺だって、この世界でお目にかかれるとは思わなかったんだ。
「そう! サフランって花の雌しべから作る香辛料があってさ。それをほんのちょっと入れて米と一緒に炊いたら、あら不思議! こんな派手な色のご飯ができるんだ!」
俺の解説に、「面白え!」と感心して頷くギリアン。
「く……貴様、貴重な“ブルーサフラン”を……!」
食堂の隅で憎々しげな顔をしたニックが呟くが、誰も気に留めない。
周囲の客達は、テーブルの黄色い輝きに釘付けだった。
「……それで? ここからどうするのかしら?」
「ああ、そりゃもちろん――」
挑発的なヴィオレさんの声に応えるように、俺はお玉で鍋からカレーをすくい取り、
「――こうする!」
サフランライスの皿へ豪快にかけた。
海老とスパイスのビッグウェーブが、サフランライスの砂浜に流れ込み、全ての香りが一体となる。
「完成だ! さあ、食ってみてくれ!」
そう言いながら、俺は審査員席のギリアンとヴィオレさんにスプーンを差し出した。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「いただくぜ!」
スプーンを受け取るや否や、もう待ちきれないと言わんばかりにカレーをすくって口に運ぶギリアン。
一方で、ヴィオレさんは優雅な所作で香りを楽しみながら、パクリと一口。
見守る乗客達が息を呑む。
緊張の一瞬が過ぎ、そして――
「――んっ……ああ……凄い、凄いわ……!」
ビクンと体を震わせ、息を漏らすヴィオレさん。
頬を染めた満足気な表情。俺が見たかったものが、そこにはあった。
「うおおおおお、なんだこりゃあ!? めちゃくちゃ美味え!!」
ギリアンの雄叫び。
椅子が倒れそうなほど体を仰け反らせるその様に、俺は一人ほくそ笑む。
「とんっでもねぇ海老の大群が口の中で踊ってるみてぇだ! 濃厚な魚介の香りが鼻の奥をぶん殴ってきやがる!」
「それだけじゃないわ……後から流れ込んでくるこの刺激的な香り……まるでスパイスの波に飲み込まれるかのよう。ああ……駄目、止まらないわ……!」
恍惚の表情で、ヴィオレさんは一口、また一口とスプーンを動かしていた。
「カレー……って言ったか? 初めて見る料理だがよ、この黄色い米との相性も抜群だな! 流石は兄ちゃん、またえれぇもんを作ってくれたぜ!」
「ふふっ、ええ本当に……大したものだわ」
称賛の声が止まない。
俺は少し照れくさくなって頬を掻いた。
「……ぐ……ッ、馬鹿な! あれだけの調味料を使ったんだぞ? 素材の味が死なない訳が……」
呟きながら悔しげに顔を歪めるニック。
「あら? そんなに疑うのなら……アナタも食べてみればいいじゃない」
「な、なんだと?」
「そうだぜ大将! 自分の舌で確かめた方が早い! よお、兄ちゃん! もう一皿追加だ!」
「あいよーッ!」
返事をしつつ、俺は皿を用意した。
「……ふんっ、いいだろう! そこまで言うのなら……」
そう言って立ち上がったニックは、審査員席の方へ歩き、ヴィオレさんの隣に座った。
そこへ、俺は盛り付けたカレーを持っていく。
「ほらよ! まずは一口、ご賞味あれ!」
「ふん、こんなもの……」
疑念の眼差しを向けながらニックはスプーンを取り、一口すくって――口へ。
瞬間、食堂の空気が固まる。
そして――
「――ッ!? ぐ、ぉおおおおおお!?」
咆哮。
それはさながら、波に攫われた人の悲鳴のようだった。
「……なん、だ、これは……? ふざけるな……なんだこれは……!?」
わなわなと震えるニックの唇から声が溢れる。
「野菜も、魚介も、米も。素材の味が、消えていない……!? それどころか……限界まで引き出されて……! そんな……そんな、馬鹿なことが……!」
信じられないという表情のニックに、俺はたった一言。
「美味いだろ?」
問い掛ける。
「ぬ、ぬぅぅぅ…………!」
唸り声を上げて黙るニック。
反論はない。それが答えだった。
しばらくはそうして複雑な感情を噛み締めている様子のニックだったが、やがて――
「私は……私は、間違っていたのか……?」
絞り出すように言うニック。
「……いや、別に間違っちゃいねぇよ」
俺はゆっくりと首を振った。
「アンタの食材を大切にする気持ちは、厨房に揃ってるもんを見れば分かる。ただ――“足りなかった”だけだ」
「……っ」
ニックの肩が小さく揺れる。
「アンタは食材を守ることばっかり考えてた。だから、調味料で食材の味を引き立てるって発想がなかったんだ」
一息入れて、俺は続ける。
「食材を尊重するってのは、料理人として大事な心構えだよ。でも……守ってばっかじゃ、味は前に出てこねぇ。閉じ込めたままじゃもったいねぇだろ? 時には背中を押して、舞台の真ん中に連れ出してやんなきゃ。それが料理人の仕事、だろ?」
ニックはスプーンを見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、深く、長く息を吐く。
「……その、通りだ……」
そう呟いた瞬間、ニックの表情が変わる。覆っていた殻が割れたかのように、顔を上げた彼の表情は、穏やかに見えた。
「私は……忘れていたようだ。食材を愛するあまり失敗を恐れ、新しい味を試すことも、学ぶことも、いつの間にかしなくなっていた……」
それは、静かな独白。
俺は腕を組み、目の前の料理人に問いかけた。
「客の声も聞こえなくなってたろ?」
「ああ……そうだ。私は誰の声も聞かず、自分のみを信じて……料理をしたつもりになっていたのかもしれん」
ぽつりと落ちる声に、審査員席のギリアンは腕を組んだまま鼻を鳴らし、ヴィオレさんは目を細めて言う。
「……だけど、もう分かったのでしょう? 私の言葉、ようやく届いたかしら?」
その問いに、ニックは「ふんっ」と苦笑いで応じた。
それから、立ち上がった彼は、周囲の乗客に視線を向けて――
「――お客様方、この度は大変申し訳ございませんでした。この自然のニック。中級料理人として、皆様に不甲斐ない料理を提供してしまったこと、心よりお詫び申し上げます!」
深々と頭を下げるニックの声は、食堂の隅々まで響き渡った。
ざわめきと歓声で震えていた船内が、潮が引くように静まる。
そして――
「――決まりだな!」
わはは、と大きく笑いながら立ち上がったのはギリアン。
「この料理勝負、兄ちゃんの勝ちだッ!!」
その宣言に、周囲から歓声が上がる。
「んにゃー! さっすがご主人!」
「うわっ!? 急に抱きつくな!」
なにとは言わないが、その僅かな膨らみを押し付けられ、俺は思わず赤面してしまった。
「あらあら、仲がよろしいこと」
「はっはっは! 見せつけてくれるぜ!」
「いや、違……っ」
そうしてレイを引き剥がそうと躍起になっている俺の元に、ニックが近付いてくる。
「貴様……いや、君にも、礼を言わねばならないな」
「え? 礼って……なんの?」
改まって言うニックに、俺は疑問を投げる。
「君の料理は……私の凝り固まっていた心を、完膚なきまで叩き割ってくれた。食材と調味料の調和、その可能性を教えてくれたこと、心より感謝する」
「お、大袈裟だって。そんな……」
「いーや、大袈裟なものか! この素晴らしい一皿、料理人として尊敬に値する! 是非、私にも作り方を教えて欲しい!」
真正面からの言葉に、俺は少しだけ気恥ずかしさを覚えた。
「わ、分かったよ! でも後でな! とりあえず腹減ったから飯にしようぜ! カレー……皆さんも、よかったらどうぞ!」
そう言った瞬間、食堂が歓声で揺れた。
まるで待ってましたと言わんばかりに一人、また一人皿を持って鍋の前に並ぶ乗客達。
あっという間にできた行列を、俺は嬉しさ半分、呆れ半分で見つめた。
「やれやれ、いつご飯食えるかな俺……?」
皿にカレーをよそいながら、俺は皆の顔を眺める。
「うみゃー! エビ! エビが踊ってるにゃ!」
「凄っ……辛っ……お、美味しい!」
「この香り……海を感じる! 最高!」
笑顔、笑顔、笑顔。
食堂内に広がっていく笑顔の波に、俺もまた笑顔になる。
「やっぱ、料理ってのは人を笑顔にしなきゃな! ニックさん! アンタも、そう思うだろ?」
「ああ、次は私も、この光景を作れるよう努力したいと思う」
「へっ、期待してるよ!」
これからこの人が作る料理、楽しみだな。
そんなことを思いながら、俺はまた一人、乗客にカレーをよそった。
まだ長い船旅、一人の料理人の再出発を目の当たりにして、俺はまた笑顔になった。
――でも。
その後、俺達がニックの料理を口にすることはなかった。
――中級料理人、自然のニック。
食材を愛し、己の料理を貫いたその男は――翌朝、遺体となって発見された。
次回「波乱の航海・前編」
乞うご期待!
※カレーが食べたくなった方はブクマお願いします!




