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羊飼いの休日  作者: 橘 塔子
第六話 スノーホワイト・メヌエット
19/21

 朝方から降り始めた雪は徐々に勢いを増し、昼を過ぎる頃には街路樹の枝葉がしなるほどに積もっていた。

 東京で十センチを超える積雪を観測したのは四年ぶりだと、お昼のニュースが伝えていた。昨日の天気予報では「平野部ではうっすらと白くなる程度」なんて言っていたのに。


「わあ、綺麗ねえ!」


 すっかり綿帽子を被った家並みを見下ろして、環希たまきさんが歓声を上げた。開いた窓から冷風が吹き込んできて、私は書類が飛ばされないよう慌てて抱え直した。

 午前中に仕上げた報告書と決裁書にサインをもらうため、環希さんのいる役員室を訪ねたところだった。NPO法人SC(シェパーズ・クルーク)の代表理事は、薄手のニットワンピース一枚でベランダに出ている。前から思っていたのだが、この人って寒さにめっぽう強い体質みたい。私も寒がりではないとはいえ、氷点下近い外気はこたえた。


 私が身震いしていると、環希さんは肩についた雪を払いながら部屋に戻ってきた。風で少しだけ髪が乱れたその姿は、まるで冬の女神様のようだ。


「夜までにどのくらい積もるかしら」

「あんまり積もると、帰りの電車が止まっちゃいます」

「だったらここに泊まっていけばいいわ。もう仕事切り上げてみんなで雪合戦しようか」


 どうせ今日暇だし、と笑う環希さん、半ば本気っぽいのが怖い。

 確かに、年明け早々のこの時期はそれほど急ぎの仕事はなかった。昨年末の捕獲業務の事務処理が少し残っている程度。しかし、いつ何時なんどき新規の依頼が飛び込んでくるか分からない業界だ。油断は禁物だった。


蓮村はすむらさん、今日は早めに上がっていいですよ」


 執務室の方にいる九十九里つくもりさんが役員室を覗き込んでそう言ってくれた。労務管理に関しては、環希さんの数倍は頼りになる人だ。

 

日下くさかくんもね。自転車は置いて帰るんだよ、危ないから」

「はーい。環希さん、窓閉めてよ。寒いんだけど」


 日下くんの声だけが聞こえる。環希さんとは対照的に、日下くんは寒がりの冷え性である。今日もずいぶん着込んでいた。持病・・のせいで体温調整がうまくできない彼でなくとも、さすがにこれは寒すぎる。

 私はそそくさとベランダの窓を閉めた。室温変化を感知したエアコンがゴーッを温風を吐き出す。


「いえ、定時までは残ります。急ぎの依頼が入ったら……」

「大丈夫ですよ。今のところエリーが落ち着いてますし」


 九十九里さんは役員室のデスク脇に設置されたポールを見やった。てっぺんの止まり木には黒いミミズクが一羽、ふてぶてしくとまっている。

 『あちら側』からイレギュラーな侵入者があった場合、彼が何らかの気配を察知して騒ぎ出すはずなのだが、今のところ居眠りをしている状態で……いや、違った。


 エリーは首を百八十度近く回して、窓の外を眺めていた。昼間はいつも半ば閉じられている目が、爛々と緑色に輝いている。

 雪が珍しいのかな……と、そう思った瞬間、エリーは止まり木から羽ばたいた。


 カーペットに着地する前に、それは形を変えていた。輪郭を失い、黒い霧となって拡散した後、別の生き物の造形に凝縮する。

 みっしりとした黒い毛に覆われた胴体、太い四本の脚と尻尾、尖った鼻面、三角の耳――それは黒い犬、いや、狼だった。エリーの擬態バリエーションの一形態である。


 いきなりの変身に戸惑っていると、エリーはドアの方へ駆け出した。九十九里さんの傍らを俊敏に擦り抜け、執務室へ。


「うわっ、何しやがる!」


 ガタンバタンと何かが倒れる音と、日下くんの怒声が聞こえてきた。


きぬちゃん、悪いけど……」


 額を押さえた環希さんの言葉を最後まで聞かず、私はポールにぶら下がったリードとハーネスを掴んで、エリーを追った。

 あいつ、前脚で玄関ドアの内鍵を開けるくらいのことはやる。早く追いつかないと!


「くっそう、あの駄犬、絶対わざとだ……!」


 執務室では、倒れた椅子の横で尻餅をついた日下くんが喚いている。突進してきたエリーに体当たりされたらしい。

 私はコートを羽織る余裕もなく、SCのオフィスを出た。





「もう満足したでしょ。帰るよ」


 そう声をかけたものの、握ったリードの先の生き物はまったく聞く耳を持たなかった。黒いでっかい狼は、は雪が降り積もった歩道を颯爽と邁進している。

 住宅街の中なのでさほど人通りもなく、雪はまだ踏み固められていない。エリーはわざと積雪の深い場所を選んで歩いているようだ。

 足、冷たくないんだろうか。私は分厚い雲を見上げてひとつくしゃみをした。


 逃亡したエリーはすぐに見つかった。オフィスのあるマンションの向かい側の児童公園で、芝生の雪に飛び込んでいたのである。

 まだ冬休み中だけあって、近所の子供たちが雪だるまなどを作っていた。わんちゃんだ、でっけえ、と歓声を上げる彼らの前で、私は急いでエリーにハーネスとリードを装着した。放っておいたら通報されてしまう。

 その間も、何が面白いのか、エリーはひたすら前脚で雪を掻いていた。寒い土地の動物らしいフカフカした毛並みが雪塗れだ。


 まるっきり犬だわ――私は呆れた。

 ミミズクの姿で窓の外を眺めていた時から、彼の感情は伝わってきていた。好奇心と自制心と、それに数倍する衝動。彼本来のものなのか、それとも動物に擬態しているからなのか。


 ほどなく、日下くんが私のコートを持って追いかけてきてくれた。彼は印象的な三白眼をさらに鋭くして、


「はしゃいでんじゃねえよ、ガキかよ。ほら戻るぞ」


 もちろん日下くんの言うことなど聞くエリーではなかった。リードを引っ張ってもお尻を叩いてもびくともせず、逆に彼を威嚇する始末。


「こっ、こいつ……!」

「駄目だよ」


 日下くんがエリーを蹴っ飛ばそうとしたので、私は慌てて止めた。子供たちが非難めいた視線を送ってくる。どうぶつぎゃくたいだ、という囁きが聞こえた。


「ちょっとそこらへん歩いてくるよ。そのうち大人しく帰るでしょ」

「しょうがねえなあ……じゃ俺も付き合うよ」


 雪空に手を翳して日下くんがそう言ってくれた時、しかし、九十九里さんが道を渡ってきた。


「日下くん、九州支部から君あてに電話だ。急ぎらしいから、悪いけどすぐにかけ直してもらえるかい?」

「了解。こっちでかけとく」


 ポケットからスマホを取り出す日下くんに、私は笑って首を振った。


「込み入った話だといけないから、デスクからかけなよ。一人で大丈夫よ」

「雪道は危険ですよ。無理しなくていいです。彼に言って聞かせましょうか?」


 九十九里さんは普段通りの穏やかな笑顔でエリーを見やった。エリーは一瞬身を竦ませ、ウウ、と低く唸る。過去に半殺しにされたとかで、エリーは未だに九十九里さんが苦手っぽい。

 私はさっきより強めに首を振った。


「気をつけて行ってきますね。十分くらいで戻ります」


 まあ雪でテンションの上がったエリーも面白かったし、いざとなったら私の特権で『命令』すればいいと考えていたのだが――。


 すでにかれこれ三十分、エリーは好き勝手に私を引っ張り回してくれている。

 あっちの雪だまりに鼻面を突っ込んだかと思えば、次はこっちの街路樹に尻尾を打ち付けて興味深げに落雪を眺める。『こちら側』に来て長いのだから雪景色が初めてではあるまいに、童謡の歌詞にある通り、庭を駆け回りたくなるほど血が騒ぐのだろうか。


「もしかして、あんたの世界じゃ雪なんて降らないの?」


 小声で尋ねると、緑色に光る目がチラッと私を捕らえた。是なのか否なのかよく分からない。

 元気いっぱいのエリーとは対照的に、私はいい加減疲れてきた。雪で靴が濡れ、足下から体が冷えてくる。分厚いダウンコートを着ているのに背中がゾクゾクした。カイロでも貼ってくればよかった。


 民家も電柱もポストも駐輪場の自転車も雪を被って、砂糖菓子のようだった。見慣れた風景のはずなのに、知らない町をさまよい歩いている錯覚に陥る。しかも、とても静かだ。

 視界が白すぎるせいか、何だか頭までぼーっとしてきて……。


「ねえ、もう帰るよ。ほらっ」


 私は力任せにリードを引っ張った。断る、と言わんばかりにエリーは四本脚を踏ん張る。


「エリー! 言うこと聞けってばっ……うわ!」


 いきなり均衡が破れて、私はバランスを崩した。エリーのやつ、わざとちょっと力を緩めやがったのだ。

 実に見事に、というか無様に、私は歩道脇の雪に尻餅をついた。





 へろへろの雪塗れになって戻ってきた私を見て、日下くんがすっ飛んできた。私は苦笑いをしながら、玄関でコートを払う。

 銀世界を存分に堪能したエリーは、知らん顔で奥へと入っていく。まったくもう……。


「いやあ、引っ張り回されちゃったわ」

「大丈夫かよ。ほら、お茶」


 エアコンの効いたオフィスの自席で熱いお茶を啜ったら、ようやく人心地がついた。気が緩んだのか、何度目かのくしゃみが飛び出す。目の奥がジンジンと疼いた。喉まで痛い。


「蓮村さん、顔色悪いですよ」


 九十九里さんが心配そうに眉を寄せる。


「予想以上に寒くて……体が冷えちゃいました」


 私は真っ赤になっているであろう鼻を擦りながらパソコンに向かった。自分の仕事を再開しようとしたのだが、オフィスの方に来ていた環希さんに遮られてしまった。

 柔らかくて温かい掌が、私の額に押し当てられる。


「んー、これは熱あるわよ、絹ちゃん。風邪を引いたんじゃないの?」


 古風な手法で私の体温を確かめる環希さんは、反対の手を自分の額にあてがった。


「大丈夫です。寒かっただけで……」

「朝からちょっと鼻声だったわ。九十九里くん、体温計あったっけ?」


 測ってみたら三十七度三分の微熱で、私は少々驚いた。


「馬鹿、何で言わねえんだ。知ってたらエリーの散歩になんか行かせなかったのに」

「いや、ちょっと寒気がするなーとは思ってたけど、雪のせいだとばかり……」

「早退して病院行け。送ってってやる」


 日下くんはむすっとした顔で、自分のコートを取りにロッカーへ向かった。

 それはさすがに申し訳なかったし、キリのいいところまで仕事を仕上げておきたかったのだけど、


「すぐに帰ってください。体調不良時は仕事にミスが出やすい。今無理をしても、かえって後で不要な手間がかかります」

「松葉杖ついて出勤してきた人の言うセリフじゃないけどねー。日下くん、雪道危ないからちゃんとエスコートしてあげるのよ」


 そう、九十九里さんと環希さんに畳みかけられてしまって、日下くんにも急かされて、私は追い立てられるように席を立った。


 オフィスを出る際、役員室のドアから黒い狼がこちらを窺っているのに気づいた。

 他人の都合になど頓着しないその翡翠の瞳が、何だかバツが悪そうに見えたのだが――たぶん気のせいだっただろう。

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― 新着の感想 ―
[一言] エリーさん、何やってんすか…w こっちの世界には向こうにない刺激的な(?)ものが多いですもんね。甘いものとか…パフェとか…… 絹ちゃんを風邪ひかせて激おこであろう日下君のことなど屁でもないエ…
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