4話 どうかこんな私でも
私の手を、カイル王子の手が包み込んでいる。
その事実に私は息を呑み、心臓を高鳴らせる。
だって、今までこんな風に男の人から手を握られたことなんてない。
男の人の手って、こんなに大きくて、力が強くて、温かいんだ。
手の甲に少しだけざらりとした感触。それが鍛錬の跡だと、すぐにわかった。戦いはおろか、喧嘩さえしたことのない素人の私でも、それは理解できた。
圧倒的な強者の手だ。逆立ちしても敵わないような、男の手だ。
力と男性性の象徴みたいな身体を持つカイル王子が、私に言った。
「確かに我が王家は力の信奉者だ。それは否定できない。けれど俺は、力がすべてだとは思わない。君をここに呼んだのは、君が【絶対防御】の姫君だからじゃないんだ。そのことをわかってほしい。リュシア」
何て真剣な眼差しだろう。
アイスブルーの瞳から、目が離せない。
……カイル王子、肌綺麗だな。手は歴戦の戦士なのに、顔はアイドルなんてズルい。そんな男性から見つめられて、目が離せるわけないよ。
思えば、男性の顔をじっと見る機会なんてなかったな。私――篠崎梓は、ずっと他人の顔色をうかがうばかりで、真正面から誰かと見つめ合う度胸なんて、なかったから……。
でも、リュシアはどうだったのだろう。純粋で完璧な女性であるリュシアなら、きっと私と違って、きちんと相手の顔を見て話したに違いない。リュシアなら――。
カイル王子が手の力を少しだけ緩める。まるで雛鳥を慈しむように優しい手つきだ。
「俺は君に命を救われた。だから、俺にできることなら何でもしたい」
「カイル様……」
「リュシア。その顔、何か不安なことがあるんだろう? 何か悩みがあれば言ってくれ。力になる」
泣きたくなるほど優しい言葉だった。
私は罪悪感から、カイル王子に詫びた。
「先ほどはカイル様に失礼なことを言って、申し訳ありません」
「気にしなくていい。本意ではないことくらい、普段の君を見ていればわかる」
ズキリ、と胸の奥が痛んだ。
違う。違うんです。今の私は、あなたが思うような完璧なリュシアじゃないんです。ただの、モテなくて惨めな女なんです。
――こんな私を、あなたは本当に愛してくれるの?
突然、私の頭にそんな疑問が生まれた。
男性として完璧なカイル王子が信じているのは、女性として完璧だったリュシアの姿だ。けど、今のリュシアは私。
カイル王子は、本当の私を知っても変わらず愛してくれるのか。幻滅して、離れてしまわないだろうか。
篠崎梓だった頃のように、いつの間にか私の周りから誰もいなくなったりしないだろうか。
試したい。
本当は無力で惨めな人間と知っても受け入れてくれるのか、確かめたい。
その上で――愛されたい。
捨てられたくない。もう惨めな思いはしたくない。受け入れて欲しい。
そんなどうしようもなく我がままな思いが溢れてきた。
「悪い夢を、見たのです」
気がつけば、そう口走っていた。
私はぽつりぽつりと話し始める。それは私が、篠崎梓だった頃の話だ。
現代日本で、モテなくて、惨めで、無力だったひとりの女性の姿を私は語る。カイル王子たち異世界の人々からすれば、きっと信じがたい話だろう。
「あの世界での私は、異性との付き合いにひどく臆病でした。自分に自信が持てず、また、男性からもまともに扱われてこなかったのです」
話しているうちに、私は軽く自己嫌悪を抱いた。
カイル王子とミレーユを、私のわがままで困らせている。ふたりの顔が見られない。
もしかしたら、梓のことを話したのはとんでもない失敗だったのではないか。
あまりに突飛すぎて、カイル王子にもミレーユにもドン引きされていないか。
むしろ、【絶対防御】のスキルさえあれば、リュシアの人格なんてどうでもいいと思われているのではないか。
ぐるぐると、悪い考えが頭の中を回っていく。
ああ、でもどうか。
どうかこんな私を受け入れて欲しい。
この世界が、本当に私の理想の世界であったなら――。
「つらかったな」
「……!」
私は顔を上げた。
そこにあったのは、アイスブルーの瞳を細めて優しく笑いかける、カイル王子の姿があった。
「たとえ夢であっても、君は苦しんできたのだろう。その苦しみは、君の心を弱らせた。俺は、傷ついた君を見捨てるつもりはない。だから安心してくれ、リュシア」
「カイル様……」
「俺は、君が思っている以上に、君に命を救われたことを感謝している。俺にとって今、最も大事な女性が君なんだ」
これは、夢?
まさか私が、こんなにたくましい男の人から、こんなにも真っ直ぐな言葉が貰えるなんて。
自分の我がままな願いが受け入れられるなんて。
嬉しくて、逆に怖い。
でもこの言葉を、私はずっと聞きたかった。
感動で胸が熱くなる。
絶対泣くよ、こんなこと言われたら……!
私は右手で目元を拭った。
しかし――「あれ?」と思う。
涙が流れない。
目尻に水滴の一粒もない。
こんなに気持ちが高ぶっているのに、どうして私は泣いていないのだろう。
リュシアが感情に乏しいなんて記憶はない。むしろ、誰より情が深く、涙もろかったはずだ。
私だって泣くときは泣く。そして今は泣ける気分だ。
なのに。
「お嬢様?」
しばらく沈黙が続いたあと、ミレーユが困惑したように私の顔を覗いた。心配そうな顔だった。
私は返す言葉が見つからず、ただ笑って誤魔化すしかなかった。
すると、カイル王子が一度ぎゅっと力強く私の両手を握ってから、手を離した。
「リュシアの手が冷たい。まだ体調が戻っていないみたいだね」
「あの、私……」
「君が心配でひと目顔を見たかった。俺の我が儘だ。君は気にせずゆっくり休むといい。また、必ず会いに来るから」
そう言って、踵を返すカイル王子。
彼は去り際、ミレーユに言った。
「リュシアのこと、よろしく頼む」
「はい。お任せ下さい」
ミレーユは深く頭を下げ、カイル王子を見送った。
部屋の扉がゆっくりと閉められる。
私は、自分の頬を撫でた。滑らかな肌に、涙が流れる気配はなかった。




