85話 歩隲の出陣
期限であったその日に、士祇の代わりとなる文官を派遣したところ、士祇はこれを拒否。
それを受けて歩隲は武力行使を決定した。
「将軍。まだ孫権様からの命を受けておりません。その中での挙兵は、命令違反に繋がってしまいます」
必死に食い下がっていたのは、陸績であった。
しかし、歩隲の顔色は一つも変わることなく、淡々と軍を整える指示を飛ばしていた。
「陸績殿は、士徽と交友がある。そのような御方の言葉は、申し訳ないですが聞き入れられません。大人しく鬱林郡の抑えとして静かにしておいて下さい」
「これは将軍の事を案じて言っているのです。孫権様にこの話が行き、その後、軍議が開かれて命令が下るまで早くても七日はかかります。それ以前に動けば勝手な行動とみなされますぞ」
杖をつき、声を荒げる陸績を見ながら、歩隲は呆れたように溜息を吐く。
「この際だからお教えしましょう。既に、孫権様も了承済みです。援軍も来ております」
「な……まさか」
「予め手は打っています。心配は無用」
もう他に言うことはない。
歩隲は部屋を後にして、外で隊列を整える軍隊の前に立つ。
数人の将校が歩隲に駆け寄る。
「隊の準備は整いました。いつでも出撃可能です。命令を」
南海郡、合浦郡、交趾郡。
さて、この中の核はどれか。どこを叩けば交州は崩れるか。
「交趾郡を叩く。夜には決着をつけるぞ」
今の交州の柱石は間違いなく、士徽だろう。
士燮が常に、あの小僧を側に置いていた意味を考えれば、これ以外にない。
五千の精鋭を急行させ、その日の夜には士徽の守るとされる交趾郡「龍編」の城に着陣。
意外だったのは、士徽がしっかりとこの急襲に対応してきたことであった。
交州各地では徴兵は整わず、兵がまともなのは合浦郡くらいな物であろうと思っていた。
「ただ、守りに適していない、戦の経験のない弱兵共だ」
歩隲が矛を上げると、五千の精兵は声を上げ、その場で足踏みをする。
闇夜の静寂を破る歓声と、地を揺らす音。
まずは敵の士気をくじく。形だけ整えようと、兵の心は不安定に違いない。
しかし、今度は城砦から、返礼とばかりに声が上がった。
ビリビリとした熱気が、鎧を震わせる。歩隲はなるほどと、一つ頷いた。
「敵ながら感心した。急襲すれば、浮足立って頭を下げると踏んでいたが、奴も覚悟を決めて準備をしていたらしい」
「歩隲将軍、如何しますか」
「包囲しろ。敵は所詮、千か二千。打って出てくることも無い。援軍も無い中、どれほど耐えれるか見てやろう」
城砦を囲い、外の連絡を遮断。
動くなら合浦から援軍が派遣されるくらいだろうが、そうなればこちらの策通りになる。
「さて、あの小僧に戦が分かるかな? 戦いは何も、殺し合いだけではない」
☆
まずは読み勝った。一安心といったところだろう。
現在の交州の現状は、史実と大きく異なっている。
士一族の反乱を鎮圧したのは、歩隲ではなく、その後任の呂岱であった。
また、親父が亡くなる時期も早く、その死因から情勢からほとんどが異なっている。
それでも、歩隲は交趾郡に攻め入ってきた。それも、恐ろしい速さで。
少しでも気を抜いていれば、準備が間に合わずここも一瞬で落とされていただろう。
ただ、それだけ自分が警戒されているという事でもある。
嫌な汗が、ずっと背を濡らしている。
でも不思議と震えは無い。次の一手を打つために、頭を凝らす。
戦の事だけを考えてればいいのだ。むしろ気が楽なほどである。
「歩隲は城砦を囲い始めました」
「そうか、引き続き報告を頼む」
不安の色を浮かべる伝令兵に微笑みを返して、退出させる。
外でしきりに打ち鳴らされる太鼓と法螺貝。
恐らくこれは夜通し続くだろう。こちらの精神をゴリゴリと削ってくる嫌な戦法だ。
「持久戦か……何が狙いだろう」
てっきり速戦即決を狙ってくるものだとばかり思っていた。
兵力の差はそれほど離れてはいないのだ。こちらの体制が整う前に叩くのが定石だ。
「戦に慣れてない兵や民の不安を煽る為、主戦場は別にあり交趾郡は本命ではない為、僕の指示が兄上や叔父上に伝わらないようにする為、他には……何かあるかな」
一番嫌なのはやはり、不安を煽る目的だろう。戦時における民の人心掌握、これは最も気を遣うところであるからだ。
特に籠城戦ともなれば最重要項目でもあるだろう。
内側には既に、孫権の手の者や、孫家へ心を傾けている人間も居るはずだ。
そういう穴から、城は崩れ始める。
「若君、お呼びですかな」
「忙しい中、急に呼んですまない。陳時さん、少し貴方に頼みたいことがあった」
鎧に身を包む陳時の顔つきは、すっかり軍人のそれであった。
良かった。恐らく兵の士気は高い。このまま彼に任せていても大丈夫だろう。
「それで、歩隲の動きは」
「包囲を行い、大音を上げるばかりです。これが夜通し続けば、流石に兵の意気も挫かれるかと」
「少量だが、兵に酒や肉を振舞ってくれ。敵の太鼓や銅鑼、法螺貝の音を祭りだと思い、楽しんでくれと。管楽隊も出そうか」
「な……しかし、敵が攻めてくれば」
「だから兵装は解くな。ただ、気を張ってばかりだとすぐに折れる。しばしの息抜きだ」
戸惑いながらも、陳時は頷く。
まぁ、攻めのタイミングは今じゃないだろう。歩隲だって行軍の疲れを癒したいはずだ。
歩隲なんて恐れる程でもない。そう思わせる必要もあるという事だ。
「それと、十日だ、十日耐えよ。それで戦は終わる」
「何故、十日と」
「まだ明かせんが、十日耐えれば良い。あと、これより戦の指揮を陳時さんに預ける。僕はこれより城下におりて、民の説得に回る」
「……は?」
ぽかんと口を広げる陳時さん。
なるほど、親父がこの人に面倒事を投げたくなる気持ちが何となくわかった気がする。
何というか、真面目過ぎてからかいやすい。
「な、なにを言ってるのですか」
「戦は外だけじゃない、内でも起きている。それを抑えるのが僕の仕事だ、そしてこれは僕以外には出来ない」
「危険すぎます! それに若君は交州全体の戦の指揮を執る立場にもあるのですぞ!?」
「こう包囲されたら指揮もクソもあるか。命令が届かないだろ。そうなれば僕の仕事は何だ? 昼寝をすることか? それに、もう手は打っている」
「ぐ、ぐぬぬ……言い草まで御屋形様の様になって」
「頼もしいだろ?」
「はぁ……実に、頼もしいです。されど、衛兵は付けますからね。もうあのような思いはしたくありませんので」
「分かった。よろしく頼むよ」
「ハッ」
交州は、人間は、それほど脆くはないと、僕は信じている。
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それではまた次回。




