82話 月夜の恋心
戦か、降伏か。
しかしどちらも、行きつく結果は同じだ。
過程がゆるやかか、そうではないかの違いに過ぎない。
いっそこの地から逃げて、南蛮辺りに潜伏し好機を窺おうかとも考えたが、現実的ではない。
奪回のチャンスはそれこそ薄い。士一族は交州を捨てた、そう民に見られても仕方ない。
そもそも、蓮さんの身柄の確保は痛い。
交州の内部では絶対に好きに動けないのだから、おそらく武昌へ訪れたときに悟られたか。
「親父なら、どうやって交州を守る……俺には、幾十万の民の行く末は重すぎる」
天下の情勢、兵力を地図に描き、それぞれの群雄の思惑、勢いを考慮する。
今までこの交州がどうやって独力を保ち続けたか、僕が親父に提示した生存戦略。
小さい者同士が手を組み、大勢に抗う。
そうやって天下の片隅で天下を操る。交州はそうやって生きてきた。
「魏を動かせるか……いや、周瑜の勢いが強すぎる今、その余力はない。孫劉の連合も未だ強固。南蛮は、今は無理だ。動かせない」
南蛮地方で最大兵力をもつ雍闓さんだが、他にも南蛮地方に勢力を持つ者達はいる。
彼らとの勢力争いを考えれば、ウチに兵を回すことは難しいだろう。
それに南蛮と呉の友好は続いている。それを切ってまで、大きく動くことも難しい話か。
それでも、孫権も大きな戦を今は望んでいない。そこに漬け込めば……いや、それはただの希望的観測か。
「頭を下げて、どうにか逃れる術は、難しいのか? 孫権は甘い男ではない。曹操や劉備と違い、情ではなく、理性で動く君主だ。付け込めないか」
ウチの強みはこの膨大な財源だが、有無を言わない兵力を前に出されれば、どうしようもない。
それに一度頭を下げれば、そこからあの孫権から逃れられるとは思わない。
どこまでもしつこく、その老練にも思える策謀から逃れることは出来ないのだ。ありとあらゆる術でこちらの力を削ぐだろう。
親父は、いざとなれば交州を捨てて逃げても良いと言った。
命を大切にしろと言っていた。
「でも、僕はまだ、何も成していない。何も成さないまま逃げれば、もうこの地には、戻れない」
そんな気がする。
命さえあればいいだろうとは思うが、そこからの人生は誰かに飼われるものと同じだ。
それを良しとするには、僕はまだ若すぎる。
やはり、親父は何よりも輝かしい、憧れだった。
その親父の掲げた「士一族による交州」を守れず、何の人生だとも思う。
「僕が、守らなくちゃ。全てを、全部を……何か、あるはずなんだ。何か、起死回生の一手を」
交州の人員から天下の情勢から、ありとあらゆる書物や報告書を広げて、全てに目を通す。
手は墨に汚れて、もう真っ黒になっていた。
するとふと、部屋の扉が開く。
「おいおい、士徽。まさか何日もここで、夜通し一人で悩んでいたの? 流石に体に毒じゃない?」
雷華であった。
外の爽やかな空気と共に、雷華の明るい言葉が背後より聞こえてくる。
「少しは休んだ方が良いんじゃない?」
「忙しいんだ。後にしてくれ」
「まぁまぁ、色々あったんだしさ、少しは休まないと壊れちゃうよ? ほら、休憩のお菓子も持ってきたからさ!」
「──五月蠅いっつってんだろ!!」
盆の上に載って、差し出された砂糖菓子を振り返りざまに跳ね飛ばした。
見えたのは、驚きつつも、少し悲しそうな雷華の顔。
大きく音を立てて落ちる盆の音で、僕はようやく我に返る。
「あ……その、すまない。気が、立っていた」
「良いんだよぉ」
呆れるように笑い、雷華はしゃがんでひとつひとつの菓子を拾い集める。
「私と、士徽は立場も、重圧も違うからね。長い仲だからさ、ちゃんと分かってるよ。少しでもそれを、肩代わりできればいいんだけどね」
「本当にすまない。あぁ……何をやってるんだろうな、僕は」
「ちゃんとやってるよ。あの親父さんの息子として、ちゃんとね」
ひび割れて、砕けた菓子。背を向けてしゃがむ雷華の姿は、とても寂しいものに見えた。
それを見ると自分の力の無さを思い知らされるようで。どうしようもなく、心が締め付けられる。
菓子を拾い終えた雷華はあの笑顔のままで僕に近づき、手のひらを握る。
「こんなに汚れてさ。目のくまも酷いよ? やっぱり、ちょっと休んだ方が良い」
「でも、親父の交州を、僕が、守らないといけないんだ」
「なんだかんだ言いながら、ちゃんと好きだったんだね。親父さんのこと」
「あぁ……憧れだった。いつか追い越してやると、そう思える目標でもあった。だから、止まってるわけにはいかないんだ」
「士徽なら大丈夫。きっと『士燮』の名前を超える。私が保証する」
「今日は、やけに優しいな」
「あまりにも、色んなものを背負い過ぎてる……友達をさ、気遣ってるのさ。それほど憧れていた人が亡くなって、今日に至るまで、気を張り過ぎなんだよ」
そういえば、悲しむ暇もなかった。そんな気がする。
ずっと、ぽっかりと心に穴が開いていて、その穴を埋めようと、誤魔化そうと動き続けていた。
でも。
僕がそうやって言葉を続けようとしたとき、その口は塞がれる。
目の前には、雷華の顔があった。
ふわりとした、女性の匂い。
長いまつげが、僕の瞼をくすぐる。
「へへっ、元気出た?」
「え……いや、あの……」
「ほら、体を洗って、少し寝てごらんよ。そうやってまた、もうひと頑張りだ、頑張れ」
「……うん。ありがとう」
肺の空気が全て押し出されるような勢いで背を叩かれ、僕は部屋から押し出された。
☆
深く過ぎた夜の事。
自分の屋敷に戻り、ぱちぱちと庭で燃える焚火に目を落とす。
雷華の唇にはまだ、あの感触と、冷えた体温が残っている。
「あぁ……好きだなぁ」
一人、それを呟き、懐に入れていた書簡を火にくべた。
それは父から士徽へ渡しておいてくれと言われていたものであった。
内容は、雷華を嫁として取ってほしいというものだ。
父はこの時代でも珍しく、本人の意思を大事にする人であった。
雷華が士徽を好いているのも分かっていながら、喜んでこの恋を応援してくれていた。
少し、色々と手違いはあったが。
しかしその書簡は今、燃えて、炭になっていく。
士徽の目に通ることなく、だ。
「今まで、ずっと守られてきたけど、これから士徽は私だけじゃない、この交州を守らなくちゃいけないからね。すっかり、大きくなっちゃったなぁ」
嬉しさと、寂しさが混ざり合う。
でも、これで良いんだ。雷華は笑顔で頷く。
「今度は、私が、士徽を守る番だね」
小さな焚火から立つ煙は、月夜に向かって伸びていた。
少し物語も山場という事もあり、今後は「返せないコメント」などが出てくると思います。
ストーリーの先読み予想であったり考察であったり、などがそれに当てはまります。
勿論、コメントはとても嬉しいです。ただ、以上の事を把握しておいてくださると助かります。
面白いと思って頂けましたら、ブクマ・評価・コメントよろしくお願いします!
誤字報告も本当に助かっています!
それではまた次回。




