79話 士燮
昼夜を問わず、駆けた。
隊列の指揮を蝉と雷華に任せ、僕は蝉の連れていた護衛兵を三人のみ連れ、駆けた。
その道中はまるで永遠を感じるように遠く、気づいてみれば一瞬だったようにも思う。
体は泥にまみれ、髪は暴れ狂っている。
ただ、今はそういうことを気にしている場合ではなかった。
久しぶりに戻った交州の空気は、一変していた。
誰もが怒りに震え、悲しみに包まれ、緊張に溢れている。
皆が士燮という偉大な統治者の容体を案じていたのだ。
これが僕の故郷か。
景色は同じ、しかし、空気が違うだけで別世界の様だ。
屋敷の外は人が溢れ、悲痛な面持ちを浮かべている。
何人もの祈祷者も並んで、神に祈りを捧げ続けていた。
「親父!!」
扉を開き、倒れ込むように部屋に入る。
「おぅ、早かったのぉ。それにしてもお前、なんちゅう汚さじゃ。風呂に早う入れ」
「え……あ、あれ?」
寝所に横になっているのは、いつもと変わらぬ、元気そうな親父の姿であった。
確かに少し痩せてはいるが、それくらいのものだ。
そして親父の隣に座るのは、厳めしい顔をした肌の浅黒い老人。
見慣れない顔である。交州で採用した医者ではなさそうだが。
「紹介しておらなんだ。この人はあの高名な『華佗』先生じゃ」
「あ、せ、先生でしたか。お初にお目にかかります。士徽と申します」
「あぁ、貴方が。御贔屓にして下さっており、助かっていました。ようやく直接お礼を申せますな」
「お前に届けた通り刺客に襲われたのだが、先生のお陰で何とか持ち直せた。士徽よ、お前が医学の大切さを説いていた意味がようやく分かったわい」
親父は変わらずに、前歯の欠けた口を開き、不気味な笑い声をあげる。
何というか、変わらない親父の姿を見て、体の力が抜けていく。
「あぁ……よかった。よかった」
「えぇい、泣くなみっともない。お、すまんな華佗先生。少しだけ席を外してくれい。二人で話がしたいんじゃ」
「されど……承知しました」
華佗は一つ礼をして、部屋を出ていく。
それを見て、親父は僕を手招きした。僕もそれを見て親父の側による。
「どうであった。劉備は」
「まさしく英雄でしょう。清濁を併せ飲む剛毅があり、兵の一人一人に伝播する熱を持っています。地盤を持たずとも、兵が彼に従う訳が分かった気がしました」
「そうか、そうか。では、戦場はどうであった」
「交州とは別世界の様で、しかし現実にも起こりうることを肌身で感じました。戦は数ではなく、人と人の殺し合いです。それを分かっていなければ、策も成り立たないでしょう」
「予想以上に多くの物を学んできたようだな。まぁ、多少、目立ち過ぎであるがな」
「……ごめんなさい」
「生きて帰れたのだ。それだけで十分よ」
親父は、疲れたように息を吐いた。
それをみて僕は退出しようとしたが、服をがしりと掴まれる。
「お、親父、もう休んでくれ。用心してくれ」
「言っておかねばならんことがあるのだ。良いから、聞け」
父が子に諭す声色とは違う。
主が臣下に命令を下すような、そんな気迫。
僕もそれで上げかけた腰を再び下ろす。
「俺はしばらく、復帰は出来ん。いや、もう隠居せねばならん歳だ。これも良い機会だと思うことにした」
「そんな……この地はまだ、親父の力を必要としている」
「大丈夫だ。その為にお前がいる。この士燮に代わって、士徽よ、お前が交趾を治めよ。分からんことがあれば士壱と陳時に聞け、士祇を支えよ、良いな?」
「……承知しました」
「それと、これを聞いて孫権の小僧が何をするのか、俺には手に取るように分かる。だが、敢えて言わないでおく。お前の機知で乗り越えられるだろう。俺の事はもう気にするな」
「必ず、守り抜きます」
「気負わなくていい。交州よりも、自らの身を案じよ。曹操の下に逃げても、孫権に降っても、南蛮に転がり込んでも、そして劉備を頼っても、もう生きていけるだろう?」
これが、交州を背負ってきた英傑、士燮の策謀。
交州の置かれている厳しい現状をよく見たうえで、守りながら、同時に逃げ道も作る。
どう転んだって生きていける。まさに、陰から天下を自分の思い通りに動かしていたのだ。
「お前らが生きていれば、交州は決して失われん。この士燮の名が、この地から消えることは無いからだ」
自信に溢れた、悪い笑顔。
僕もそれを聞き、ようやく笑顔を浮かべることが出来た。
「その通りですね。天下に知られずとも、交州では未来永劫語られるでしょう。僕もその名に恥じぬようせねばなりますまい」
「ふん、まだまだ若いお前が俺と張り合おうなぞ、百年早いわ」
ひとしきり笑い、親父は外を眺める。
「外に目を向け続けた、そのせいで足元を疎かにした。お前も気を付けろよ」
「内を固める事から始めます」
「それで良い。魯陰を今、遼東に潜らせている。上手くいけば遼東を好きに動かせるだろう。これをよく活用するといい」
「承知しました」
「ふむ……少し疲れたな。華佗を呼んでくれ。お前も、体には気を付けろよ」
「親父も、どうか安静になさって下さい」
「おう」
☆
「すまんな、華佗先生。まさに貴殿は神の腕よ」
「いえ……正直、私は今、奇跡を目の当たりにしております。人知の及ばない何かが、士燮殿を支えており、これは私の力にありません」
「ヒッヒッヒ! 妖怪と呼ばれる俺が、神の奇跡に支えられているのか。それは面白い」
華佗は汗を拭い、士燮の体をひたひたと触る。
血色も良い。元気なようにも見える。しかし、体は異常なほどに冷たい。
数日前からそうなのだ。
体は死んでいるのに、士燮は生きていた。
このような患者を診たのは初めての事であった。
「まさか、矢の一本ごときで死ぬとはなぁ」
「孫策殿が暗殺された時と、同じ毒矢に御座います。そして私は、かの刺客が誰に命じられ、士燮殿を襲ったのかを知っております」
「言わずとも良い。無駄なことだ」
「はい、無駄なことです」
まさかこの人は本当に、妖怪なのではなかろうか。
華佗は士燮の体を診察しながら、その疑いをますます強くする。
「死人の受診をするのは、初めてか?」
「はい……何も、手の施しようがありません」
「そうであろう。しかし、助かった。よく、今日まで私をもたせてくれた。士徽に言葉を伝えない限りは、死んでも死にきれなかった」
「それはよう御座いました」
「あぁ……この戦乱の最中、十分、幸せに生きることが出来た。恵まれすぎていて、怖かったほどだ。されどもう、心配も、心残りもない。あとは息子達がよくやってくれるだろう」
「はい」
「長いようで、あっという間であった。だが……幸せであった」
210年、交州を治め、妖怪と恐れられた英傑「士燮」が没した。
民も、異民族も、交州に住む人々は皆、その死を惜しんだ。
これほど多くの人々に親しまれ、惜しまれた人間もまた稀であっただろう。
天下を陰から牛耳っていた妖怪の手は闇に沈む。
ここから再び、天下はそれぞれの思惑で動き始めるのであった。
次回は、交州に残された士一族が、今後について考えます。
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それではまた次回。




