78話 赤き紐
少し前までの戦場が夢だったかのように、ゆるゆるとした気楽な旅であった。
久しぶりに心穏やかなまま過ごせているように思う。
「うん、段々と顔料も落ちてるね。何だか、そっちの方に慣れちゃったから、少し不思議な気分だよ」
「帰る頃には元に戻っているかな」
やけに顔を近づけて、僕をまじまじと見てくる雷華から目線を逸らす。
もうすでに雷華は男装ではなく、女性らしい着物と、化粧を施していて、何だかふわりと良い匂いもする。
馬車は揺れ、外は気持ちの良い快晴であった。
「それで、このまま真っすぐ戻るのか?」
「え、あ、あぁ、そうだな。本当なら、『武昌』も近いから士キン兄上に会いに行きたいけど、迷惑になるからやめておくよ」
「あー、蓮さんの旦那さんね」
「うん……うん? え? 今、なんて?」
「あれ? し、知らなかった? やべ……言っちゃいけなかった、かな」
「おい、詳しく教えろ」
今まで蝉も、そんな話は一回もしなかった。
ということはつまり、たぶん話しちゃいけない内容なんだろう。
ただ、聞いてしまったからには問い詰めないといけない。
「いや、その……士キンさんってさ、あの料亭の常連客で、っていうのは知ってる?」
「まぁ、何となく聞いてはいた。でも、あんまり聞いちゃいけないものかとも思ってた」
「何がきっかけかは知らないけど、その、蓮さんと士キンさんが仲良くなっちゃって。蓮さんは今でもたまに、暇があれば、個人的に武昌まで行ったりしてたり……」
「それを僕が聞いてないとすれば、隠してたんだろうな」
兄上と蓮さんでは、身分に大きく差がある。しかも蓮さんはバツイチだ。そのあたりの引け目があったんだろう。
ただ、マジで何も知らなかったな……驚いた。どおりで兄上が、婚姻の話にあまり興味を持たなかったわけだ。
「もう、子供もいます」
「おいおいおい、あの真面目な兄上が……これ、親父にバレたら、どうなるんだよ」
「っべ、本当に言っちゃいけなかったやつじゃん……え、えへへ」
「それで、性別は」
「男の子じゃなかったかなぁ……たぶんもう、二歳とかになってると思うぅ」
「よりによって、男。下手すれば、兄上の跡取りにもなり得る……いや、交州の跡取りにも」
血筋というのは、この時代はとても厄介だ。本人の意思に関わらず、運命を大きく変えてしまう。
それは、雷華を見ていればよく分かった。
「蓮さんはそういった跡取りとかの話が嫌で、隠してたんだろ。じゃあ、逆に交州に居ると危ないかもしれない」
「え、危ない、っていうと」
「親父を快く思わない連中に、担がれる危険性がある。孫権なんかは、ウチの政権をよく思っていないからな。でも兄上の近くに居れば、交州での火種にはならない。あくまで兄上の近くの出来事だ」
政治に関わっていない雷華からすれば、まるで絵空事の様な可能性。
しかし、こういうのは実際にあり得る話だ。
「こういった政治的な平衡感覚は、誰よりも兄上が優れているはずなのに。恋の前に盲目となったのか……それとも、蓮さんがこれを、兄上に伝えてないのか」
「ご、ごめん、こんな大ごとになるとも思わなくて」
「いや、あくまで仮定の話だ。むしろ早く知れて助かった。とりあえず帰ったらすぐに、蓮さんを保護して、父上に相談しないと」
ただ、あの料亭には本当に素性が明らかな、ウチの政権とズブズブな大商人しか入れない仕組みだ。
交州内に関わらず、天下の情報も広くあの場に集まる。商人の情報網はとにかく広いからだ。
蓮さんの身の内の話も、あそこから洩れる心配はないだろう。とは思う。
「帰ったらしばらくはゆっくりできるかと思ったけど、まだまだやることは多そうだ」
「あ、そ、そうだ、帰ったらの事なんだけど、ちょっとウチのお父様が、士徽に話したいことがあるって、い、言ってた」
「うん? そうなのか。まぁ、今回はとても世話になったし、僕からもお礼を言わないとと思っていたんだ」
蝉が隊列を止めて、僕のところへと駆け寄ってくる。
近くに村を見つけたらしく、今日はそこで夜を明かさせてもらおうという提案だった。
僕はそれに頷き、蝉の指す方向へと、隊列の進路を変えた。
☆
それは深い夜のこと。全員が寝静まり、うるさい程に虫の音が聞こえる。
僕もまた借りた宿で旅の疲れを癒していた。
近くに、気配を感じ、飛び起きる。
昔からこういうのは敏感な方だった。
僕の枕元には、一人の女性。顔を隠しており、魯陰の使っている間者だというのが分かる。
「夜に、ということは危急の用事か」
「はい、こちらを」
渡された書簡は、赤い紐で封がされている。
これは相当な危機があった時にしかされない封の仕方だ。
急ぎ紐を解き、内容を確かめる。
「……な、これは」
「士徽様は一刻も早く、お戻りになられますよう。これは、命令に御座います」
あり得ない。誤報だろうと疑うような、そんな報告。
目の前がぐらりと揺れ、力が抜ける様な衝撃に襲われる。
頭は真っ白になり、息が苦しい。
──士燮が、交州内にて刺客に襲撃され、現在重篤。至急、戻られよ。
寝巻のまま部屋を飛び出して、蝉を呼びつけた。
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それではまた次回。




