72話 赤壁の戦い 前編
黄蓋の降伏には、不可解なところは見受けられなかった。
確かに軍内に分裂は有り、黄蓋の体は骨も砕ける様な強さで叩かれ、一歩間違えば死んでいたような重症である。
そして周瑜はそんな分裂をこちらへ悟られないように、軍規をより厳しくもしていた。
孫堅とは直接、会ったこともある。
確かに彼は勤王の心が篤く、漢王朝の行く末を本気で案じるような男だった。
それを考えれば、黄蓋の動機も十分に納得できる。
仲介として動いていた甘寧も、野心の強い男。
ああいう男は御し難いが、分かりやすい。
「孫家の軍は、黄蓋に心を寄せる将兵が多い。それが降れば、もはやこの勝負、貰ったも同然だ」
夜の月明かりに照らされた、要塞の如き大船団。
曹操はこの船団に多くの兵を密かに乗せ、進軍の準備を整えた。
今夜、黄蓋は甘寧に連れられ、降伏してくる。
それを確認した後、敵に広く黄蓋の降伏を知らせながら進軍。
この圧力に、周瑜の軍は戦わずに崩壊するはずだ。
これで、終わりだ。天下の統一は成る。
あとは劉備を捕らえなければならないが、烏林の先の陣にはどうやら居ないらしい。
どこかに潜んでいるか、それとも逃げたか。
ただ、あの陣の大将は関羽。彼をどうにかして配下に入れたい。
今は劉備の事は忘れよう。この戦に勝てば、奴の逃げ込める地はもうないのだから。
「丞相、あれは甘寧と、黄蓋の旗です。白旗を振っております」
「おぉ、ついに」
賈詡の指の先、小さな船がちらほらと見える。
振られている白い旗が、はっきりと確認できた。
「荀攸、陸の夏侯淵と曹仁に命じよ。黄蓋の降伏を広く敵陣に知らしめよ、と」
「……丞相、お待ちくだされ」
「なんだ」
「黄蓋の船が、異様に速い様に思います。あれは、運び船でなく、戦の船なのでは……近づけてはなりませんっ!」
しかし、荀攸の声は、一歩遅かった。
小型の船団はグングンと加速し、もうすでに大要塞の懐へと潜り込んでいる。
大きく、要塞が何度も揺れる。
黄蓋の船がこちらの船に衝突し、突き刺さっていた。
まだ、曹操は現実の出来事が、上手く理解できていない。
「我が名は黄蓋! 孫家三代に仕える将である! さぁ、曹操よ! 儂と共に業火に焼かれること、誇りに思うが良い!!」
船が火を上げる。
雪崩れ込んできた少数の精兵はこちらの船団のあちこちに油をかけ、火をつけて回る。
彼らは決死隊だ。死ぬまで仕事を止めない、精兵。
船上での戦がエキスパートである彼らは、曹操軍の兵士を容易に掻い潜る。
黄蓋も、骨の砕けた体を動かし、こちらの兵をなぎ倒している。
「丞相! 船を降りてください! ここまで火が回ると、火の勢いは止まりません! 許褚将軍! 丞相をお守りせよ!」
「ハッ」
曹操の小さな体は許褚に抱え上げられ、急ぎ船を降りる。
天下統一を目前とした、その戦で、自分の大船団が火に包まれていく。
放心している曹操に代わって、荀攸が忙しなく指示を飛ばしている。
「夏侯淵将軍、曹仁将軍、曹純将軍、許褚将軍は直ちに後退、軍を整えていただきたい。私は徐晃将軍、曹真将軍、曹休将軍と共に残りの兵をまとめて合流いたします」
そうだ、荀攸の言う通り軍を立て直せばまだ戦える。
兵数はこちらの方が圧倒的なのだ。
銅鑼が、あちこちから鳴る。
水上から木々の中から、まさか、全方位を囲まれているのか。
元より疫病の蔓延で士気の下がりきってる曹操軍の兵は皆、まだ見ぬ敵影に震え、収拾がつかなくなっていた。
それを見て曹操は、自軍の敗北を悟った。
「いや、荀攸。江陵へ戻る。船を失うという事は、攻撃する手立てを失うという事。これは、負けだ。お前もすぐに来い」
「……御意」
水上は周瑜の船団が蹂躙している。
未だ船上で奮戦している将兵も、あっという間に長江に浮かぶ亡骸に変わる。
曹操はとにかく逃げた。しかし、泥濘とした土が足を飲み込み、前に進まない。
「見つけたぞ、曹操! 関羽がお相手致す!!」
「甘寧、参上! 曹操を逃すな!!」
関羽と、甘寧の軍だ。
彼らの圧倒的な武力を前に、曹操を守っている兵はことごとく餌になっていく。
「許褚、曹純、殿をお守りせよ」
夏侯淵はそう言って、少ない兵数と共に関羽の軍へ。
それに続く様に、曹仁は甘寧を食い止めるために走り出す。
「丞相、この湿地を越えれば、我が虎豹騎が待機しております。そこまで行けば、安全です」
「曹純、頼むぞ」
「命に代えても、お守り致します」
曹操軍の、精鋭の中の精鋭。それが、虎豹騎である。
彼らはいつでも曹操にとっての最強の盾として、そして矛として覇道を切り開いてきた。
この湿地では騎兵が役に立たなかった為、開けた後方に待機させておいたのだ。
烏林を抜け、虎豹騎の下にたどり着く。
今や、曹操に付き従うのは僅か数千に満たない、それだけの兵であった。
一息をついて、曹操は馬に乗る。曹純は急ぎ部隊に指示を飛ばし、編成を整えていた。
「虎痴(許褚の愛称)よ、ここからどうすれば、江陵に着く」
「少し先を行くと、華容道へ出ます。そこから道を辿れば、江陵です」
「そうか、あと少しなのだな。賈詡はいるか」
「ここに」
「別にお前を責めない。お前は仕事を十二分に果たした。これは、私の責任だ。間違っても死んで責任を取るとは言うな」
「……申し訳、御座いません」
「はぁ、結局は郭嘉の言う通りであったなぁ」
これで、天下の統一は成らないものとなった。
さらに北、襄陽の方角を眺め、曹操は小さく後悔の念を漏らす。
空は、うっすらと明るくなり始めていた。
次回、第三章決着。
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それではまた次回。




