68話 郭嘉の策謀
「そうか、殿は進軍を決意なされたか……あとは、黄蓋の降伏が偽りでないことを、祈るのみ」
報告を聞きながら、真っ青な顔色で郭嘉は眉間に溝を作る。
今まで曹操という英雄は、動き続ける事で天下への道を切り開いてきた。
一度も止まらず、休まず、常人には理解できないほどの力でもって、戦い続けた。
決して「無敗の名将」と呼ぶべき人ではない。負けるときは負けている。それも、派手に負けている。
ただ、それでも立ち上がり、何倍もの力で復活するのだ。これは普通の人間ではありえない事だった。
その度に思う。あぁ、この人こそ天に選ばれた御方なのだろうと。
この混沌とした乱世を、一気に飲み込むことの出来る人は、この人しかいない。
郭嘉は先の長くないこの命を、曹操の為に燃やし尽くすことをここに誓ったのだ。
「黄蓋の降伏が偽りであれば、周瑜軍の士気は異様なほどに盛り上がるだろう。果たして周瑜はそこまで見据え、黄蓋の死を利用するつもりなのだろうか」
思案に暮れていると、胸の奥が熱を持ち、激しくせき込む。
銀の椀に血を吐き出す。日を追うごとに、血の色は黒く、淀み始めていた。
あまりに痛む喉。華佗から渡されていた薬湯を飲むと、痛みがスッと消えていく。
ようやく、まともに呼吸が出来るようになった。
「軍師殿、お呼びかな?」
しばらくして部屋に入ってきたのは、襄陽を守る将軍である「于禁」と「張遼」である。
曹操軍の中で、筆頭とも呼ぶべき力を持った将軍といえば、間違いなくこの二人だろう。
「病床から、お二方を呼び立ててしまい申し訳御座らん」
二人は気にしなくていいと微笑み、郭嘉が立ち上がろうとするのを抑えた。
「それで、要件は何だ?」
顔を近くに寄せ、于禁は尋ねる。
目は一重で細く、その感情は読み取れない。
「ついに、戦が始まります」
「そうか。ただ我々は出陣の要請を受けていない。前線の将兵が羨ましい」
「いえ、動いていただきたいのです。全責任は、この郭嘉が負います。我々が動かねば、殿は恐らく、負けます」
「なんだと?」
一瞬冗談かと思ったが、郭嘉の鬼気迫る面持ちに、于禁と張遼は一瞬で軍人の顔つきになる。
「我らは、何を為すべきだ」
「于禁将軍は一万五千で長江を下り、殿との合流を急いでください。されど恐らく、道中を劉備が塞いでいるでしょう」
「報告では、周瑜の後方に控えていると聞くが」
「ならばなぜ攻撃を仕掛けないのです。こちらの士気を乱す為に劉備軍は動き回らないといけません。動かないというのは、兵を別に伏せている為。この襄陽の後詰を警戒しているのです」
「ふむ……」
「烏林の戦は水上が主戦場です。劉備の役目は少ない。これくらいの事は、徐庶や諸葛亮なら考え付くはず。だからこそ、于禁将軍にはここを突破していただきたい」
「分かった」
「軍師殿。私は何をすればよろしいか」
「渭水に沿って一万の兵で南下。今の夏口の防備は薄い。ここを落としてください。一時も早く。静かに、されど迅速に」
「承知した」
「お二方の内、どちらかでも作戦が成功すれば勝利は必至。殿は、天下を掴みます。殿が天下を掴むことが出来るのであれば、私は、この命を悪鬼に捧げても構わない」
目が、血走っていた。
于禁と張遼は短く返事をすると、足早に部屋を出ていく。
「あとは、後方の遼東と、涼州の動きを警戒せねば……っ」
再び大きく咳き込み、郭嘉は先ほどの倍の量の血を吐き出した。
☆
河を急ぎ降るのは、「于」の旗を高く掲げた船団。
そしてその行く手を阻むように、河底に多くの岩や木の柵が沈んでいた。
「声を上げろ! 突撃だ!!」
張飛の号令が、闇夜に轟いた。
船団を迎え討つように、川岸に掲げられる松明。火に照らされるのは、劉備軍の精兵達。
しかし于禁の兵も歴戦の勇士達である。
微塵も狼狽えることなく声を張り上げ、一斉に刀を抜く。
銅鑼が、太鼓がけたたましく鳴った。
船から一斉に川岸に上がり、突撃を開始する于禁軍。
張飛軍はそれを迎え撃つように包囲し、押し潰さんと肉薄した。
地の利があるのは、張飛軍であったが、于禁軍はそれを踏まえたうえで堅陣を敷きながら、前へ前へと進む。
「殺した敵は捨て置け! 目指すは烏林! 周瑜の背後を取る! 前へ進め!!」
于禁の指示は単純明快。
とにかく前へ。突破を目指せ。
奇襲の効果が思うように現れていない現状に、張飛は苦く笑った。
「奴らを河に叩き落してやれ! 突撃!!」
劉備の声であった。
兵が沸き立ち、士気が上がる。
于禁軍の横腹。小高い丘を下る様に、劉備軍が怒涛の勢いで押し寄せた。
流石の于禁軍も前進を止め、兵をそちらへ回す。
「朱霊! お前はとにかく前へ進め! 劉備は俺の部隊が食い止める!!」
「ハッ!!」
于禁は前線に立ち、劉備の勢いを正面から受け止め、声を張り上げる。
混戦であった。勝負は、互角。
数多の死体が河に沈み、怒号が空気を震わせる。
「チッ……流石に于禁軍だ。隙がねぇ、が、勢いは俺らのが上だ」
劉備は自ら剣を抜いて、とにかく兵を鼓舞する。
そんな劉備の下に、焦りの色を浮かべて駆けつけたのは、徐庶であった。
自ら兵を斬ってきたのか、体は血に濡れている。
「殿! 直ちに撤退を!!」
「んだと!?」
徐庶の報告に、劉備は額に血管を浮かせながら怒鳴る。
しかし徐庶はそれでも引かず、その面持ちは真剣だった。
「夏口に、張遼軍一万が急進しています! 今の守備兵は千余り。とても、保てません!」
「なっ……狙いは、最初から」
完全に意表を突かれた。
誰もが曹操に、二十万という大軍に目を向けてしまっていた。
優勢な大軍の方が奇襲を仕掛けてくるなど、戦の常道から外れた一手を、誰が予見しえただろうか。
劉備はギシギシと歯を噛んで、戦場の方に目を向ける。
「兵は、引かん。誰一人として」
「なっ!? 夏口が奪われれば、全てがお終いです!」
「ここが于禁に抜かれても終わりだ馬鹿野郎!!」
劉備は徐庶の胸倉を掴み、締め上げる。
「于禁は、あいつは天才の類の武将だ! 気を抜いて勝てる相手じゃねぇ! 全ての戦場で全員が、命を捨てて戦ってんだ! 負けは一つも許されねぇ!!」
「で、では……」
「麋竺を、糜芳を信じる。今夜、今夜だけ耐えれば良いんだ。後は、周瑜に懸かってる」
徐庶はようやく解放され、激しく咳き込んだ。
耐えろ。耐えてくれ。
劉備はもう一度、突撃の指示を送った。
于禁はチキンとか言われて散々な扱いですけど、自分としては「劉備に関羽在り、曹操に于禁在り」くらいのクラスの名将だと思ってます。
曹操の配下になって早速「城攻めてこい」とかいわれて「落としてきましたー」なんて、普通出来ないっすもん(笑)
次回は、攻城戦に移ります。果たして、士徽の運命や如何に。
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それではまた次回。




