66話 降伏の書簡
賈詡の調略に、小さくも僅かな動きが見えた。
それは曹操も待ち望んでいた報告であったと言える。
「進捗を教えろ」
「揺らぎの多い文官を中心に調略をかけておりましたが、孫権の締め付けが強く、文官を大きく動かすことは出来ないと判断し、対象を武官の方に移しました」
孫権は若いながらも、君主として卓越した手腕を発揮していた。
軍権のほとんどを周瑜に渡していながらここまで内部の動きを統制できるというのは、称賛に値する。
確かに文官の不満や揺らぎは大きいが、孫権の警戒が強い今、賈詡は文官を動かせないと判断し、手法を変えていた。
「動きがあったのは、新参の将軍、甘寧です」
「確か、元は黄祖の武将であり、孫家に降った男だったな」
武侠の男であり、元は黄祖に仕えていたものの重く取り立てられないことを不満に、孫家へ走った武将。
彼の持ってきた情報は黄祖戦に大いに役立ち、武功の方でも派手な結果を残している。
劉備と言い、この甘寧と言い、武侠の男というのは何よりも名声を重視する。
儒教的な「孝」の価値観に捉われず、仲間と強固な集団を形成しているからか、戦もめっぽう強いという特徴があった。
現に劉備も県尉であったとき、督郵(監査を行う職)との面会を断られ、怒って百叩きにしたという話がある。
督郵といえば県尉よりも身分が大きく劣る役職であり、劉備は目下の人間に面会を断られたとあっては、自分に着いて来ている者達への面目が立たなくなってしまう。
その為、自らの「名声」を守る為に、常人ではやりすぎにも見える行動を起こしたのであった。
甘寧もまた、そういう気質の武侠なのだろう。
「甘寧は確かに多大な功を立て、孫権から大いに信任をされていますが、軍内の立ち位置は微妙です。新参であり、さらには孫家の宿将である凌操を黄祖時代に討っている為です」
「ふむ。新参であるのに目立ち過ぎているのが、周囲は気に食わぬのであろう」
「甘寧という男は、常に自分の輝ける戦場を求め続ける性格。そこで調略を仕掛けてみたところ、万の兵を率いる大将としての地位の確約があるなら、と」
「あまりにも簡単に動き過ぎではないか? 周瑜の陣営は、兵の士気も高く綻びは無いと聞くが」
「いえ、裏では大きな動きが起こっています」
「ほぅ」
そう言うと、賈詡は懐から一枚の書簡を取り出す。
随分とくたびれた布地だが、よく見るとところどころに血が滲んでいる。
「これは」
「孫家が宿将、黄蓋による降伏の書簡です」
「なんと」
黄蓋といえば、孫家における代表的な宿将の一人だ。
程普、韓当と並んで、孫堅の時代から第一線で戦ってきた将軍である。
戦では功を立て、異民族を良く治め、その人柄も大いに慕われているという評判はよく聞いている。
軍部の長は程普であるが、将兵に最も親しまれているのはこの黄蓋であろう。
書簡を開けば、読みにくい血文字が殴り書きで連なっている。
その言葉には悲壮と憤怒の感情がこれでもかと詰め込まれ、読んでいる方まで胸が締め付けられる思いであった。
「黄蓋の主張はあくまで降伏。父の代、孫堅が望んだのは漢室の復興であり、現在の漢室は丞相によって立ち直りつつある。ここで悪戯に戦を起こすのは何の益もなく、天下を乱すのみと」
「それが周瑜との対立になったのか。聞けば、宿将達と若い将の対立も根深いとか」
「そうです。降伏を唱える者は誰であろうと斬るという軍規通りに、周瑜は黄蓋を斬ろうとしましたが多くの者が反対。黄蓋は百叩きの刑、及び将の位を剥奪され、後方の輜重隊に回されました」
「それで、降伏を」
「仲介者が、甘寧です。甘寧は孫家に降ってから黄蓋には目をかけられており、大きな恩があると。なので黄蓋と行動を共にするという意思があるとのことです」
「ふむ……」
郭嘉は周瑜を大いに警戒していた。しかし、こうしてみるとさほどの器でもないようにも思う。
確かに、戦には優れた才があるだろうが、こうした人心の掌握は不得手らしい。
その面だけを見れば、孫権の方が大いに優れているようにも感じる。だからこそ孫権は、周瑜に大きな軍権を与えたのかもしれない。
人を治めるには、人心を掴むか、武力で縛るか、だ。
「荀彧や郭嘉はこの降伏を、どう見るであろうか……」
「偽りだと?」
「分からんが、少し拍子抜けしていた。ただ、考えれば当然の結果のようにも思う」
こうした者を出すために、降伏した荊州の者達に破格の待遇を与え、今までずっと圧力をかけ続けてきたのだ。
その働きかけがようやく、やっと、小さく芽吹いた。そう思うことも出来る。
それに今、烏林で駐屯している将兵には病が流行っており、士気もとても低いと聞く。
病にかかったものはすぐに隔離し治療をさせているが、対応は全く追いついていない。
黄蓋に、縋りたい。
今の曹操は、そうした鬱屈感に襲われている最中でもあった。
「間者をやり、黄蓋が本当に刑に服し、将を剥奪されているかを確認させよ。一つの手加減もされていないかを見定め、周瑜の軍が一層引き締まっているのを確認できた後、降伏を容れよう」
「二人から申し出ている条件の返答は、如何に」
「甘寧には、この戦の後、涼州か遼東に攻め入る為、それの主将として遇すると答えよ。黄蓋に関しても、江東の民、及び孫権には危害を加えない、全ての条件を容れると答えよ」
「承知しました。それであれば、早くに話はまとまるかと」
「荀攸を呼べ。その方向で作戦と出陣の日程を定める」
「御意」
こんなものか、と胸に大きな空間が開いたのを感じる。
統一の直前の戦だ。こんなものであろう。むしろ、今までの人生が苛烈過ぎたのだ。
早く終われ。
そうすればもう、自分は戦をしなくて済む。
曹操は自分の心に空いた穴を見つめながら、再び黄蓋の書簡に目を落とした。
次回は、黄蓋と周瑜が相まみえ、ついに赤壁の夜へと。
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それではまた次回。




