55話 蟻の一穴
「失礼します。雷豊が、参上致しました」
「おぉ、よく来た。近くに来てくれ」
徐庶さんに手招かれ、僕は部屋へと足を踏み入れる。
膨大な量の報告書、近辺の地図など、所狭しとうず高く積み上げられていた。
麋竺さんの屋敷のように大きな家屋でもなく、かろうじて寝泊まりが出来るようなスペースがあるのみだ。
というか、本当に寝ているのか怪しく思えてくる。
「まず一つ確認しておく。私の近くに居るという事は、情報は命よりも重い、それを心得てないといけない。分かるな?」
「承知しております。商人も、それに関しては同じに御座います」
「そうか、そうだったな。交州は、曹操との関係も根強い。もしやと、思ってのことだ。気を悪くしないでほしい」
こんな釘の刺し方ってあるかよ。
一瞬で背筋が凍るような思いがした。
確かに、ここは戦場なのだ。それを一瞬たりとも、忘れてはいけない。
「私を使う、ということは私の時間を買ったという事。代金を頂ければ、裏切ることは致しません。金は、信頼関係の上に成り立つと、商人なら誰しもが知っています」
「前金は今日の夜、送っておこう。成果次第では、後日、追加を支払う」
「承知しました」
「よし、じゃあ本題に入ろう」
広げられたのは、襄陽から江陵、そして夏口や柴桑までを含んだ簡単な地図である。
そして、それらを繋ぐのが「長江」の流れだった。
「つい先日、曹操が江陵へと入った。遠征軍の規模は少なくとも二十万、多くて三十万の兵力だ。対して我が軍は、投じれる戦力は二万が限界」
「十倍以上の兵力差ですね」
「されど先日、孫家に赴いている諸葛亮から、孫権との同盟を結ぶことに成功したと報告が入った。これで、孫家の三万が味方に加わる」
それでも、五万と二十万。四倍の兵力差だ。
さて、困った。
というのも赤壁に関しての知識は、実のところあまり無いのだ。
演義では一大決戦のように事細かに記されてあるが、正史において、赤壁の記述はあまりに短い。
それに曹操、孫権、劉備、この各視点によっても戦況が異なる。
曹操は疫病により退却と。孫権は周瑜が火計で大いに破ったと。劉備は孫権軍と共に曹操を撃退したと。
さらに後漢記においては、曹操は周瑜に敗れたとあるのみで、劉備の記述はない。
こう見ると、劉備はただ周瑜に任せるのみで、追撃戦でのみ頑張ったように見える。
しかし、この兵力差を前に、二万の、しかも陸戦の錬磨である劉備軍をただ遊ばせておくというのも、戦術的にはどうであろう。
それでは周瑜がみすみす、美味しいところを持って行ってくださいねと言わんばかりだ。
きっと劉備軍も仕事があり、周瑜と共同戦線は築いていたが、異なる場所で戦っていたのではないだろうか。
そして周瑜が曹操を破り、その瞬間に劉備も別の場所から曹操を追いかけた。と考えることも出来る。
まぁ、この世界線ではどうなるかは分からんが。
「雷豊、貴殿が曹操なら兵をどう動かす」
「ふむ……」
地図を眺める。
実際に戦があったのは、長江を降り、夏口を目指す途中である「烏林」の地。
ここで、赤壁の戦いは起きている。
「常道であれば、そうですね……攻めません」
「ほう、何故だ」
「戦わずして勝つことが最上と孫子にはあります。動かず、装備を整え、圧力をかけて、孫劉の崩壊を待ち、兵を挙げた瞬間には降伏させるところまで運ぶべきかと」
「同感だ。それが、私が最も危惧していることでもある」
すでに曹操はその工作をしきりに孫家へと仕掛けていた。
まずは降伏勧告を送り付けて大いに圧力をかけ、降伏した荊州の劉琮派閥の者達を破格ともいえるほどに厚遇している。
演義では殺される蔡瑁だが、史実では処刑もされず、だいぶ出世してますし。
この処遇に、多くの者達が心を揺さぶられただろう。
降伏すれば許されるだけでなく、厚遇される。しかも、相手は勝ち目のない大軍。
結果、孫家の臣下の九割以上が降伏派であったとか。
「曹操を引き出さない事には、如何に策謀を立てても、役には立たん」
「逆に、何をすれば曹操は出てくるか。いや、出て来ざるを得ないか、が重要でしょう。徐庶様には、何かお考えがあるのでは?」
「……あるにはある。しかし、確信は持てない」
徐庶さんは溜息を一つ。
そして、一つの書状を取り出す。
「これは、曹操が孫権に宛てた降伏勧告の書状の写しだ。『共に虎狩りをせん』の一文、まさにこの虎は、我が殿を指す言葉だろう」
「ですね」
「ならば、曹操が望むのは我が殿の首。それを目にして初めて、曹操の中での天下統一が成る。つまり……これ以上にない、絶好の餌だということ」
自分の主を餌に、曹操を釣る。徐庶さんの考える策はそれである。
まさしく、これ以上の餌はない。しかしそれは共に、大きい危険を伴う策でもあった。
「如何に、虚を映し、実を突くか」
「一番嫌なのはやはり、逃げられることでしょう。しかし、相手は曹操。こちらの意図が悟られては、策が成り立ちません」
「……殿を最前線に布陣させ、後方の兵は皆身軽にし、簡単に全ての物資をまとめておく。つまり、逃げ支度をさせておく。曹操に気づかれないほど、密かにだ。ヤツはきっと、それすら気づく」
ただこれは、大勢に影響を及ぼさず、ただただ劉備の命を危険に晒す、言わば下策。
曹操の気分を嫌にさせる。それだけの効果しかない。
無視しようと思えば出来るものだし、曹操が急襲をかけてくればすぐに瓦解する。
「小さな違和感を積み重ねていけば、きっと曹操と言えども動く。少しずつ、密かに。これは、私の独断で行おうと思う。協力をしてくれ」
「承知しました」
小さなシロアリが、柱を削り、それがやがて大きな家屋を崩す。
そうやって小さく、一つずつ。曹操の地盤を削っていくのだ。
赤壁はどの資料を主軸と見るかで結構、ストーリーが変わりますよねぇ。
演義は恐らく「周瑜伝」あたりが主軸になっているのかしらん。
さて次回は、曹操軍の敗因となった「疫病」について、烏林を下見しながら考察します。
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それではまた次回。




