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噞喁(げんぎょう)の恋詩(うた)

第二十二期テーマ短編参加作品。テーマは「噞喁(げんぎょう)」、ジャンルは恋愛です。

噞喁(げんぎょう)って知ってるか?」

 隣で色鮮やかなカクテルをチビチビと呑んでいる友人に問いかけると、彼女は小さく首を傾げた。

「げんぎょう? 知らないよー。相変わらず、シュン君は難しい言葉好きだねえ。どういう意味なの?」

 そう言って口を尖らせる素振りはあの頃のままで、でもあの頃には見たことのない甘さが含まれていて。

「そうだな。俺の頭の中とか、今まさにそんな感じ」

「えーっ、それじゃ全然わかんないよー」

 まあ、それはきっと、普段より幾分多く酒が入ってるからに過ぎないのだろうけど。

 俺が彼女――佐藤瑞穂(さとうみずほ)と五年ぶりに再会したのは、数時間ほど前のことである。




 ***




「いやあ、あの知佳(ちか)が結婚とはねえ」

「失礼ねえ。そりゃあもう二十五なんだから、結婚くらいしますぅ」

 そう言われても、ちょっと前まではいつも一緒で、一番近くにいた知佳が結婚して、遠い存在になってしまうなんて、なかなか感慨深いものがある。そんなこと言ったら「そーやってまた子供扱いする」って頬を膨らませるんだろうけど。

「それより、俊哉(しゅんや)君こそいい加減そういう知らせがあってもいいんじゃないの? もう三十路が目の前だよ」

「失礼な。まだあと三年あるし」

「三年なんてあっという間だよ。あっ、じゃあ私は他の方に挨拶とかあるから」

「おう行ってこい。なんたって、今日の主役なんだからな」

「えへへ、ありがと。じゃあまた後で来るからね」


 知佳が人の中に消えるのを見計らって、手元のグラスに残ったワインを一気に飲み干した。従妹の、そして初恋の相手の結婚式の二次会。居心地が悪いったらありゃしない。今ではもう知佳に対する想いが完全に消えてるとはいえ、他の男と幸せそうにしてるアイツなんて、見たいとは思わない。どうせこの人の量だし、帰ったところで気づかれないだろう。知佳にはバレるかもしれないが、まあいいや。

 そうしてひっそりと出口に向かっていると、出会ってしまったのだ。こんなところにいるはずのない、忘れようとしても忘れられない女性(ひと)。赤いパーティードレスを身に(まと)った、大学時代の同期。佐藤瑞穂に。


「あれっ、シュン君? シュン君だよね!? うわあ久しぶり。奇遇だねえこんなところで」

「もしかして、瑞穂か!? 嘘だろ」

 嘘だ。もしかしても何もない。一目見た時からもう、確信していた。彼女を見間違うはずがない。

「どうしたのさー。もしかして新婦さん側の参列者?」

「ああ、新婦が従妹なんだ。瑞穂は新郎側の?」

「まあ、うん。ちょっとややこしいんだけどね」

「ややこしいって?」

 まさか、瑞穂と新郎がかつてそんな仲だったとか、そういうのじゃないよな。俺も人のことは言えないし、どっちみち過去のことなんだろうけど。

「ちょっとここでは話しづらいなあ。どうしよ、場所変えようか」

「それなら――」



 二人で抜け出して、別の場所で呑み直さないか?



 学生時代とても言えなかったような歯の浮く台詞が、何故かすんなりと口からこぼれ落ちた。瑞穂は悪戯っぽく微笑むと、テーブルからドレスと同じく赤いポーチを拾い上げた。

「いいね。ちょうど退屈してたところだし、昔話にでも花咲かせましょっか」




 式場から少し離れて、駅近くにある小さなバー。入り組んだ場所にあるためあまり多くの人が立ち寄らない、しかしバーテンダーの腕は信頼できるもので、俺のお気に入りの場所だ。静かに呑みたい時にはうってつけのこの場所に他人を、それも女子を連れて行くのは、初めてのことだ。

「へええ、こんなところにバーがあるんだ。流石シュン君、詳しいね」

「まあ地元だからな。逆に大学の方の店とかは、未だによく知らないよ」

「あっちは田舎だから、そもそもそんなに店ないんじゃないかなあ」

「なるほど。瑞穂は何呑む?」

 俺の前には既にカンパリオレンジが置かれている。常連とはいかなくともそこそこ足を運んでいて、俺の好みはすっかり覚えられているからだ。

「じゃあ、シュン君と同じので」

「いいのか? これ結構苦いぞ」

「う……じゃあカシスオレンジで」


「じゃあ、呑むか」

「うん。じゃあ……私たちが再び出会えたことに、乾杯」

「乾杯」

 一口飲み込むと、オレンジの爽やかさとカンパリの苦味が絶妙に絡み合い、心地よい後味が残る。瑞穂はというと、小さい身体からは似つかない豪快さで、グラスの半分ほどを空にしていた。


「それで、新郎とはどんなややこしい関係だったんだ?」

「ええぇ、もう本題? まあいいけどさ。でも、多分シュン君が想像してるような話じゃないよ」

 俺の想像してるようなこと。それはつまり、瑞穂と新郎がかつて男女としての関係だったのかという、まさにそこなのだろうか。

「新郎、雄馬(ゆうま)君ね。私の高校時代の部活の後輩なの」

「部活のってことは、あの人も陸上を?」

 瑞穂が高校時代、県でも有数のスプリンターだということは、大学でも有名な話だった。本人は大事にされるのを嫌がってたけど。

「うん。雄馬君もスプリンターでね。まあ正直、選手としてはそこまでだったんだけど、意欲だけは誰にも負けてなくて、それで私も親身になってアドバイスとかしてたんだよね」

「そうなのか」

 ここまで聞くと、どう考えてもどストレートで俺の想像してたような話だ。

「ある日、私の録画してた世界陸上の試合が観たいって言うもんだから、家に連れてったのね。あ、流石に他の部員も一緒にね。その時に出会っちゃったわけよ。うちの妹と雄馬君が」

 と思ったら、急に流れが変わったぞ。

「そういえば、年子の妹がいるって言ってたな」

「よく覚えてるね。そうなの。高校は別だったから、今まで雄馬君とは面識が無かったんだ。そしたら雄馬君が妹に一目惚れしたみたいで、あの後相談されちゃった。あの時の真剣な顔は、いつ思い出しても面白いわ」


 そう言って笑う瑞穂は、本気で楽しそうな顔をしている。真剣に相談したのに毎度ネタにされる雄馬君を、密かに可哀想に思った。

「それで、瑞穂が色々根回しして、晴れて二人は付き合いましたとさ。ってところか?」

「そんなとこ。流石シュン君。察しがいいね」

「それほどでもないさ」

「それほどでもあるよ。だってシュン君、本当は気づいてたんでしょ。紗奈(さな)の気持ちに」


 思わずカンパリオレンジを吹き出すところだった。

「突然話が飛んだな。そういえば紗奈も卒業以来会ってないな。瑞穂は今でも会ってるのか?」

 紗奈とは瑞穂と同じく大学時代の同期で、特に俺や瑞穂と親しかった。

「まあ、お互いの休みが合った時にちょくちょく。それで、気づいてたんでしょ?」

「引っ張るなあ」

「いいでしょ。もうあれから五年経ってるんだし、それに今聞いたことは紗奈には言わないでおくから」

 瑞穂がこちらに身を乗り出してきて、キラキラした目で見つめられる。そんな顔をされたら、嫌とは言えない。惚れた弱みってやつだ。


「今だから言うけど、まあ、気づいてたよ」

「やっぱりね。じゃあどうして紗奈と付き合おうとか、そういうことしなかったの? 私の見たところ、紗奈が一線を越えられないところまでさりげなーく一定の距離を置いてたみたいだけど」

 俺は思わず両手を挙げた。そんなところまでバレてただなんて。完敗だ。

「全く、察しのよさではお前のが遥かに上だよ」

「えー図星だったの。じゃあ、これも本当かなあ」

「何が」

 まさか、俺の気持ちまでバレてただなんてことはないよな。告白したところで、瑞穂は紗奈に気を遣って絶対にオッケーしない。それがわかってたからこそ、この気持ちは誰にも見せず、奥底に隠してたのに。恋人にならないのなら、せめて四年間友達でいようと、そう思ってたのに。

「シュン君、他に好きな人がいたんでしょう。それも、ずっと片想い。私、何となくその相手もわかっちゃった」

 背筋を冷や汗がつたった。図星すぎて何も突っ込めない。

「……続けて」

「それは今のを肯定してるってことでいいのかな。その相手ってのは――知佳ちゃんでしょ。新婦でシュン君の従妹っていう」


 全身から一気に力が抜けた。よかった。ほとんど図星だったけど、肝心なところだけは外してくれて。俺の努力も無駄じゃなかったわけだ。

「確かに知佳に対して恋愛感情を抱いてた時期はあった。というか初恋だった。でもな、紗奈の気持ちに気づいた頃には、既に知佳はただの従妹だった。というわけで、惜しかったな。途中までドンピシャだったから、全部バレてるかと思ってヒヤヒヤしたぜ」

 瑞穂は何も言わずカクテルを飲み干した。かと思うと、グイっと身を寄せてきた。さっきとは比較にならないほど近く、後ろからひと押しされたら唇がぶつかってしまうほどに。

「ふーん。ってことは、相手こそ違えど、あの頃紗奈以外の誰かに片想いしてたのかあ。誰? 私の知ってる人?」

 思わず身を引いて、正面に向き直った。瑞穂に気持ちを見透かされるのを恐れたからではない。瑞穂には他意がないだろうが、あの距離で見つめられたら、三秒と我慢できないからだ。

「マスター。いつものウイスキー、ロックで」




 ***




 ウイスキーを一口含む度、喉に焼けるような感触が広がる。これがたまらなくクセになる。その感触に浸りながら、瑞穂に投げかけた難解な単語について思いを馳せた。


 噞喁(げんぎょう)。魚が口を水面に現してパクパクすることをいい、それが転じて激しく口論することという意味でも使われる、日本書紀から見られる古い言葉である。この間天皇家と鮎の関係について調べていた際に見つけて印象に残った言葉を、日常生活で使う機会が来るとは思っていなかった。最も、その意味は全く伝わらず、そもそも伝える気がなかったが。

 俺の頭の中では、まさに激しい議論が繰り広げられていた。せっかく再会できたのだから、瑞穂にこれまでの思いを伝えるべきか。それとも今まで通り、親しい友人の立場を守るべきか。どちらも正解で、どちらも間違いなのだろう。しかし、俺は必ずどちらかを選ばなくてはならない。そのために、あるべくして俺たちは再会を遂げたのだろうから。


「ってちょっと。そうやって誤魔化そうとしたって無駄なんだからね。さあ、この際全て白状しちゃいなさい」

「ちょっ、さっきから近いって!」

 再び心臓に悪い距離まで身を寄せてきて、更に肩を掴まれた。瑞穂の丸い瞳に視線を奪われたまま、逃げられない。ならばもう、いっそ――。



「いつから?」

 唇を押さえて俺を見上げる瑞穂の頬が赤いのは、決して酔いのせいだけではないだろう。そして、俺の頬もそれに負けないほど熱い。

「最初から」

 元々大きい瑞穂の瞳が、更に大きく見開かれた。

「そんな……全く気づかなかった。何で言ってくれなかったの?」

「告白したところで、瑞穂は紗奈に気を遣って断るだろう。それがわかっているからこそ、言えなかった。どうせ叶わないのなら、せめて友達として一緒にいたかったから。だから」

「――やっぱシュン君は察しがいいよ。私よりも遥かに」

 そう言うと、瑞穂は俺のウイスキーを奪い、グラス三分の一ほどを一気に飲み干した。

「おいバカ。それはそんな一気に呑むようなやつじゃ――」

「ケホッ……思いっきり酔わなきゃ話せないことだってあるでしょ」

 瑞穂の目がトロンとして、顔も更に赤くなった。学生時代よく呑んでるところを見ていたが、ここまで酔っ払ったのを見るのは初めてだ。


「シュン君が全部話してくれたんだから、私も全部話すね。私今、夢でも見てるんじゃないかと思ってるわ。だって、四年間ずっと片想いしてて、諦めるしかなかった人がいるんだもの。そんな人が、二人っきりでの呑みに誘ってくれたばかりか、私のことをずっと想っててくれてたんだもの」

 最後の方は嗚咽混じりで、それでも全て、瑞穂が今までずっと溜め込んできた想いを話してくれた。まさか、瑞穂も俺をだなんて。それじゃあ、俺たちは四年間ずっと、両想いなのに想いを押し殺してたってことなのかよ。そんなの、あんまりだろ。


「全く、そんな話聞いたら余計瑞穂のこと忘れらなくなるじゃないか」

「ヒック。突然キスしてきた人がよく言えるね。私だって、ようやく気持ちの整理ができたかというところだったのに、全部振り出しに戻っちゃったよ。……責任、とってよね」

 しなだれるように抱きついてきた瑞穂の腰に、腕を回した。初めて感じる瑞穂は、暖かくて、小さかった。

「俺でよければ、喜んで」


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