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まがり角のウェンディ  作者: gojo × 霜月透子
13/18

 眩しいほどに煌めく薫風の中、作業着姿の信也はうつむき加減に歩いている。

 そうか今日は日曜日だったかと、心の中だけで呟いた。

 曜日の感覚がない。時間の流れに無頓着なのはいまに始まったことではないが、休業日だというのに無料職業紹介所に着くまで気づかなかったのは初めてだった。無駄足というべきところなのだろうが、無駄と呼ぶほど貴重な時間など持っていない。むしろ無為に過ごす時間を少しでも消化できただけましだと言える。それでもまだ朝と言って差し支えない時間帯だ。今日もまた長い一日が待っている。

 穏やかな静けさに満ちている休日の午前中の住宅街は、まだひと気がない。信也は川沿いのアパート目指して歩く。どれほどからりと晴れた日でも信也の部屋は湿気を帯び、かすかにつんと鼻をつくカビの臭いがする。

 先日は台所の隅に小さなきのこが生えているのを見つけた。勝手に生えたきのことはいえ、信也の部屋に生物があるのは妙な気分だった。

 こんな早い時間に帰ったところできのこが喜ぶはずもなく、やるべきことがあるわけでもない。いままでならば、休日は漫然と時間が流れるのを待つのだが、このところ頭の中が騒がしくて参っている。この頭はまだ自ら考えることができたのかと、慮外なことに気づいて戸惑う。

 先日の十和子との再会が尾を引いているのは間違いない。

 過去の記憶へとつながる思考を遮断することでようやく生きてきたのに、十和子の姿を目にした途端、いともたやすく開通させられてしまった。あの日の後悔はなくなったわけではなく、常にそこにあり続けた。ただ目を逸らす術を身につけただけだ。水底の澱が舞い上がらないよう、水面に波を立てずに過ごしてきたのだ。それなのに。

 鳥の声がする。道の先に見えている木立から聞こえているようだ。

 ――わたしは、あなたが悪いだなんて思っていなかったわ。

 十和子は言った。

 たしかに責められた覚えはない。だが、十和子にどう思われていようと、信也は自分自身を許せなかった。

 ――あなたはいつまでも自分を責めて、悔やんで、立ち直ろうとしなかった。

 そのことが十和子を苦しめていたのもたしかだろう。

 済んだことを悔やんでも仕方がない、誰の責任でもない、どうしようもなかった、どれほど悔やんだところで過ぎた日には戻れない、そう思うべきなのはわかっている。わかってはいるが、あのとき、あの瞬間、自分が判断を間違えていなければ。

 依然、街に人影はない。アイアンフェンスに囲まれた木立の脇を通り過ぎる際には、鳥の声が大きく聞こえているだけだった。

 前方から砂埃が近づいてくるのが見えた。風だ。河原から乾いた砂を巻き上げたまま風が向かってくる。信也はとっさに腕で目元を庇い、上体を捻って風に背を向けた。風音が木々を揺らしていく。砂粒が首筋に当たるのを感じる。

 ひとしきり耳元で鳴っていた風が通り抜けると、再び辺りに静寂が訪れた。

 腕をおろし、後ろを向いた姿勢を戻そうと顔をあげた瞬間、人の姿が目に入った。いましがた通り過ぎたときには誰もいなかった路上に、日傘を差し、空色のワンピースを着た女性が浮かび上がってくる。その姿は陽炎のように揺らめき、輪郭が定まらない。宙に映し出された映像であるかのように透けていて、彼女の姿を通して見慣れた街並みが網膜に映し出される。焦点を結ぶ位置をわずかでも逸らせば消えてしまいそうに儚い佇まいだ。

 信也は目を奪われたまま、ただ立ち尽くす。

 半透明の女性はまだ揺らめいている。

 信也は瞬きも忘れ見つめ続ける。

 女性は揺らめきながら日傘を後ろへ傾けた。信也と視線が重なり、唇が動く。

「あなたは……」

 かすかな声とともに女性は掻き消えた。

 彼女の姿を求めて信也は慌てて角を曲がる。しかし、その道に人影はない。

 辺りに姿を隠す場所などなく、あとにはいつもと変わらぬ街並みが広がるだけだった。

「いまのはいったい……」

 かすれた呟きは鳥たちのさえずりに埋もれた。

 鳥の声を辿り、木立を眺める。木々の向こうに教会の屋根が聳えている。

 門を眺め、道に戻り、また先ほどの角を曲がる。信也ははたと足を止めた。

 再び教会を見上げ、言う。

「この道は……」

 まさかと思いながらも信也は河原に向かって走り出した。一刻も早く川沿いのアパートに帰りつきたかった。すぐにでも確かめたかった。

 足がもつれ、平坦なところで躓きそうになる。久しくしていない動きに足がついていかず、もどかしさに駆られる。玄関扉を前にして何度も鍵を取り落とし、ようやく室内に転がり込む。靴の片方は台所に飛んでいった。

 敷居が歪んで開きづらくなっている押し入れのふすまを力任せに開く。湿気を含んで形の歪んだ段ボール箱を引っ張り出す。カビと埃を吸い込み、ひとしきりむせた。

 箱の中には何冊ものノートが詰まっている。まずは束で取り出してみたが、すぐに段ボール箱を傾けてすべて床に広げた。

 粗雑にページをめくる。どのページも信也の筆跡で埋まっている。

 信也が書いた小説だった。

 そこには一人の少女のありふれた日常の物語があった。小学生だった少女は日々を暮らし、成長していく。中学生、高校生、大学生……。

 ページを繰る手が早くなり、いまにも破れそうな音を立てている。ただ文字を追うだけなのに、次第に信也の息が上がってくる。

 微細にわたる日常を綴った小説は、社会人となった主人公が教会の脇の道を歩いているところで途絶していた。あの道だ。

 たちまち記憶が彩られていく。長年封印してきた過去とは思えないほどの鮮やかな記憶に牽引されて、感情もまた鮮烈に蘇る。

 信也の中で、かろうじて凪いでいた水面が激しく揺れる。嵐の海のように波打ち、水底の澱が舞い上がる。澱は広がり増殖する。水面から噴き出し、辺りを覆う。堰を切って襲いくる。

 身の内から湧き出るのは、姿勢を維持できないほどの痛みだった。腹の底から嘔吐するかのような声が出た。

 窓ガラスに日が当たっている。外では、親を呼ぶ幼子の無邪気な声がする。

 信也は頭を抱え、床に転がり、捻転を繰り返す。髪を鷲掴みにし、胸を掻きむしる。全身に絡みつく蔦が信也を絞めつけていく。引き千切ろうと必死にもがくが、逃れようとすればするほど内部まで侵入してくる。内から襲いくる激痛に獣のような咆哮を発しながらかび臭い床の上を激しくのたうち回る。古くなった床が軋む。転げ回る体の下でノートが散らばっていく。

 ひび割れた壁や朽ちかけた天井が、号哭しつつ身を捩る男を、冷ややかに見下ろしていた。


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