ざまぁは正直得意ではありませんが、なめられるのはもっとごめんです!
長編を書いていると今ザマァを求められているけどお応えできない……と思うことが多いのですが、そもそもザマァを書いたことがないので、短編として書いてみました。
目が覚めると、私は伯爵令嬢、リリー・ウォッシュになっていた。
少し気が強い以外はどこをどう切り取っても平凡な一般日本人女性の私が一体何を言っているんだという感じだけれど、私の中には、十七年間リリーとして生きてきた記憶がはっきりと残っている。立派なベッドの天蓋の絵をぼんやりと眺め、手を伸ばしてみると記憶にある「私」の手より細くて白くて、なんだか頼りない腕だった。
ベッドから降り、素足で絨毯の上を進む。カーテン越しに明るい光が差し込んでいて、部屋の中はほんのりと暖かい。きっと、今はいい季節なのだろう。
壁際に置かれた大きな鏡を覗き込めば、記憶にある通りのリリー・ウォッシュの姿がそこに映っていた。
ゆったりと伸びたピンクの髪に青い瞳。顔は綺麗なアーモンド型で、中々の美人と言えるのではないだろうか。
全体的にほっそりとしているけれど、柔らかなネグリジェに包まれた体は出るところは出て、締まるところはしっかりと締まっている。なかなかのボディラインだ。
記憶と一番印象が違うのは、顔つきだろう。鏡に映ったかつてのリリーの顔は、いつも眉が八の字に落ちていて、いかにも気が弱いという感じだった。そこにおどおどとした態度と吃り癖が重なれば、伯爵令嬢としては「頼りない」の一言に尽きる。
実際、リリーは周囲の人間――両親や家族、使用人からすらも舐められまくっていた。到底貴族の令嬢とは思えないような口を利かれることもあったけれど、悪いことにリリーはそれに対して言い返すことも、処罰することすらできなかった。
どうして、あんなに気が弱かったのだろう。
記憶の中のリリーの心は不安と恐怖でいっぱいで、いつだってこれっぽっちも余裕がなかった。
高圧的な父親や我が儘な母親には親しみを感じられず、厳しい家庭教師にも心を開くことができない。妹のアンジェラはリリーがいかに貴族の令嬢として情けなくもみっともなく、社交界でも馬鹿にされているかを真正面から指摘し、お姉様のせいで私まで恥をかいていると糾弾した。
「……はぁ」
リリーの記憶を深堀りしても、腹の立つものばかりで思わずため息が漏れる。
ともかく、そのリリー・ウォッシュが、今の私らしい。
もう一度鏡に映る自分を見れば、明らかに日本人ではない。リリーの記憶によれば、そもそも世界そのものが違う気がする。
何か悪い夢でも見ているのかと、念のため髪の根元までかき分けて鏡に映してみるけれど、根本までさらさらした綺麗なピンク色の髪を確認できるだけだった。
往生際悪くそんなことをしていると、唐突に部屋のドアが開いた。
――ちょっと、今ノックもしなかったよね!?
驚いていると、ずかずかと部屋に入ってきたのは、赤毛と栗毛のメイド服を着た二人の若い女性だった。
記憶によれば、この二人はリリー専属のメイドだ。
リリーは伯爵令嬢なので、身の回りの世話や外部との連絡などはこの二人を通して行うことになっている。一応令嬢付きの使用人は名誉職のはずだけど、二人からはリリーに対する親しみや、ましてや主人に対する尊敬の念などは一切感じられなかった。
「あら、リリーお嬢様、起きていらっしゃったんですか」
「まあお珍しい。いつも午後まで寝ていらっしゃるので、今日は早く来すぎたかと思ってしまいましたわ」
言葉こそ丁寧……いやこれ、丁寧か? ……なものだけれど、その口調や態度には明らかな嘲りが含まれている。
「ほら、いつまで鏡の前に立っていらっしゃるんですか。身支度をしていただかないと、私たちは次の仕事に行けないじゃないですか」
「本当にアンジェラお嬢様でしたら、こんなこといちいち言わなくったって、すぐに動いてくださるのに」
明らかに喧嘩を売っているとしか思えないその言葉にムッとしたものの、一瞬の怒りは今は抑えておくことにする。
赤毛のメイドに言われた通りドレッサーの前に座ると、はぁ、と頭の後ろから溜め息が聞こえてきた。
「本当、私たちいつまでこんな暮らしをしなければいけないのかしら。アンジェラお嬢様付きのメイドが羨ましいわ。あちらでは、お嬢様がお菓子を分けてくださったり、アクセサリーをプレゼントしてくださるらしいですよ」
髪にブラシを通しながらこぼされるその言葉を黙殺すると、それが気に入らなかったらしく、ブラシわざと髪に絡ませるように動かされたあげく、思い切り引っ張られた。
「痛ッ!」
「あらぁ、お嬢様、失礼しました。ふふっ、それにしても大袈裟ですね」
「お嬢様はいつもそうですものね。少しはウォッシュ伯爵家の令嬢として、堂々と振る舞っていただかないと、仕えている私たちまで恥ずかしいですわ」
私は気が強いけれど、それほど怒りっぽい性格ではないと思う。多少態度が悪くてもちゃんと自分の仕事をしているなら。怒りに任せてどうこうするなんてことは本来そんなに好きじゃない。
でも、怒りは瞬発力だというポリシーの持ち主だ。ここぞという時にはきっちりキレないと、余計に事態を悪化させるだけだと経験上学んでいる。
「……執事を呼びなさい」
きっぱりと言うと、髪を梳いていた赤毛のメイドがぴたりと手を止めた。
「どうしたの? 今すぐ執事を呼べと言っているのよ」
立ち上がり、パンッと赤毛の手を払う。その手からブラシが飛んで、ころころと部屋の隅へ転がっていった。
赤毛のメイドは戸惑ったように、じりっと一歩後ろに引いた。
「あなたたち、耳はないのかしら?」
「あ、あの、お嬢様……」
「あなたたちが呼べないんだったら、私が直接行くわ。ただし、執事への取次ぎもできない専属メイドなんて、その時点で役立たずだと言っているようなものだけどね」
私が直接執事のもとに乗り込めばその時点で専属のメイドは何をやっているんだと思われる。私が本気だということは伝わったらしく、戸惑いながらも栗毛のメイドが部屋から出ていった。
ネグリジェのまま男性使用人に会うわけにはいかないので、赤毛のメイドを無視してクローゼットからガウンを取り出して羽織ると、急ぎ足で複数の足音が近づいてきた。
「お嬢様、いかがなされましたか」
執事のジェイクは、別段リリーの味方というわけではないけれど、貴族の家に仕えるためにきちんと教育を受けた執事だ。メイドと主家の娘であれば、間違いなくこちら側を最優先する人間である。
「この二人を今すぐ私の専属から解いてちょうだい。まともに髪も梳けないような使用人は必要ないわ」
「お、お嬢様!」
栗毛が焦ったように声を上げるが、執事に睨まれてぐっと黙り込む。だが、執事も毅然とした態度を保ってはいるが、リリーの変貌ぶりに不信感を抱いている様子だった。
そりゃあ、そうだよね。これまでのリリーと言えば、使用人にすら、あの、でも、だってと吃ってばかりだった。そうしておいて、結局自分の意見は言わずに黙り込んでやり過ごすのが常態だったから、そりゃあ使用人の立場でも嫌になるだろう。
本当に、なんであんなに気が弱かったんだろう。きっと記憶だけではわからない、リリーにはリリーなりの感じ方があったのだろう。
けれど、私ははっきり言って舐められるのが大嫌いだ。
元々の私は背が低く、顔が丸っこくて、いかにも無害な小動物のような顔立ちをしていた。声も全然低くならなくて、妙に甲高い、子供のような印象を与えるものだった。
成人女性がこの特徴の組み合わせを持っていると、それはもう意地の悪い人間からはバリバリに舐められる。学生時代も社会人になってからも、勝手に私を大人しいと判断して、軽んじたり馬鹿にするような態度を取ってくる人間は一定数いた。
あいにく、私はそうした扱いを黙って受け入れられるほど気弱ではない。その都度はっきりと理不尽には言い返し、立場にそぐわない態度を取る人間には、はっきりとNOを突きつけてきた。
うるさい女だとか面倒な女だと思われている方が、自分の能力や立ち位置に関係なく下に見られるよりも、ずっとマシだ。
「これを見なさい」
床に転がったまま所在なげな様子のブラシを拾い上げ、ジェイクに差し出す。リリーのピンクの髪が大量に絡んだブラシにジェイクはぐっと眉を顰めた。
明らかに強引に引っ張って、毛が抜けた状態のブラシを見れば、リリーが何に怒っているのかはすぐに理解できたはずだ。
「あのね、私は未婚の貴族の娘なの。下ろした髪から短い毛がツンツンと出ていたら、それだけでこの家は娘に対してきちんとした手入れすらさせていないと馬鹿にされる理由になるのよ。そんなこともわからない人間を専属にしているなんて、あなた、どういう人選をしたの?」
「申し訳ありません、お嬢様」
ジェイクは深く頭を下げた。すると、赤毛と栗毛のメイドたちは、リリーに見せていた高圧的な態度をどこへやら、途端にオロオロと胸の前で手を組み、訴え始める。
「お嬢様、お許しください! 決して、悪気があってやったことではありません!」
必死だよね。そりゃそうだ。
伯爵令嬢の専属メイドともなれば、相応の身だしなみを整えるために特別な手当が出ているはずだし、食事や入浴などの待遇も他の使用人より優遇されている。それを失うなんて考えられないだろう。
ましてや主家の令嬢への無礼となれば、紹介状なしの即刻解雇もあり得る。この世界で紹介状なしに職を失うのは、路頭に迷うか、条件の悪い結婚に甘んじるしかないことを意味する。
しっかり勤め上げて信頼を得ていれば、屋敷に出入りする将来性のある男性に見初められることも、相応の退職金と共に結婚退職することだって決して夢ではなかっただろう。
「さっさと私の前からいなくなってちょうだい」
鋭く告げると、ジェイクは後ろに控えていた男性使用人に命じ、二人を部屋から引きずり出した。お嬢様ぁ! という叫び声を耳障りに感じて眉をひそめると、ジェイクがもう一度深く頭を下げる。
「すぐに身の回りの世話をする、代わりの者を選別いたします。本当に申し訳ございませんでした」
「ええ。次は言葉の通じる人間を選んでちょうだい。それと――」
私は鏡に映る自分に目を向ける。
記憶にある、おどおどとして気が弱く、思っていることを口にできないリリー・ウォッシュと同じ顔をしているはずなのに、その面影は不思議なくらい拭われている。
表情が違うだけでこうも人の印象は変わるのかと、驚くほどだ。
「今日、出入りの商人が来る予定だったわね。予定通り私の部屋へ通しなさい。次の夜会のドレスを作らなければならないから」
「かしこまりました」
ジェイクは恭しく告げると、しばらくして戸惑った様子の女性使用人が二人、部屋を訪れた。
流石にお灸が効いたのか、身支度を手伝うその手つきは、十分に丁寧なものだった。
* * *
午後を回る頃、リリーの応接室に商人が訪れていた。伯爵家に出入りを許されている商会の人間で、他にもドレスを着せたトルソーや宝石箱など運ぶ商会の者が何人か、慌ただしく出入りしていた。
「ジェイク、あなたも同席しなさい」
案内を終えて立ち去ろうとしていたジェイクが足を止め私の座るソファーの後ろに控える。商人は一瞬表情を曇らせたもののさすがにあからさまに執事を追い払うわけにはいかなかったようで、もみ手をせんばかりに猫なで声で言ってきた。
「いや今日のお嬢様も大変お美しい。本日はその輝きをさらに輝かせるべく、我が商会一押しのドレスと宝飾品をお持ち致しました。すべて流行の最先端と自負しております」
「ふぅん、最先端ね」
足を組んで冷淡な瞳で商人を見据えると、男は僅かに笑みをひくつかせる。
出入りの商人はその家の人間とは何度も顔を合わせるなじみになる。当主や令嬢に目通りを許されているとなれば、親や祖父の代まで遡るような付き合いになることも珍しくない。
それだけ信用が必要だということだし信頼を受けている。それが出入り商人というものだ。
それだけに、悲しくなる。
きっと今日ここに広げられたような商品は、妹のアンジェラの元には届けられないだろう。
リリーは、代を重ねて付き合うほど信用と信頼を重ねてきたはずの商人にまで、目利きの利かないバカ娘だと思われていたのだ。
差し出されたドレスと宝石箱を一瞥し、鼻で笑う。
「これが最先端? 随分と王都の流行は退行してしまったのね。それとも、あなたの時計は二年も前から止まったままなのかしら」
扇子でトルソーを指すと、商人の顔からみるみる血の気が引いていった。
「このドレスのドレープ、袖口のフリル……確かに二年前には流行ったわね。でも、今これをお茶会に着ていけば流行遅れを平気で着る、目利きのできない令嬢と、私だけでなくウォッシュ伯爵家の名まで笑われることになるわ。だぶついた在庫に困っているのは同情するけれど、それを私に押し付けようとしたのは、あまりに不敬ではないかしら?」
「滅相もございません! そのようなことは決して!」
「いいえ、まだあるわ。この宝石箱のサファイア。色はいいけれど、カットが甘くてクラックも目立つ。あなたが提示している金額に見合うのは、これより一段階上の、不純物のない深みのあるブルーのはずよ。……ジェイク」
「失礼いたします。……確かに、このサファイアは二級、いえ、カットの甘さを勘案すれば、三等級に近いかと思います」
執事として主家の宝飾品の管理も行っているジェイクには、はっきりと理解できただろう。
「私を、輝きさえあれば石の質も分からない無知な小娘だとでも思っていたというわけよね? それとも、あなた自身がこの石がその値に相応しいと思っているのかしら?」
男は顔を赤くしたり青くしたりと忙しない。
石の価値が相応しいと言い張れば、貴族の家の出入り商人に相応しい目利きがないと言っているのも同然だ。
目利きがあると口にすれば、その家の令嬢を騙そうとしていたと認めることになる。
立ち上がり、ソファーの後ろに控えるジェイクに視線を送った。言いたいことはそれで伝わったのだろう、ジェイクは眉をひそめ、商人を射抜くような冷たい視線を向けている。
「ジェイク。この商人がこれまで何年、我が家から法外な差額を掠め取ってきたか精査する必要がありそうね? 私の年間の予算からこの商会に使った帳簿を遡って、商品と照らし合わせてちょうだい。不足分は、商会の看板を差し押さえてでも返してもらうわ」
「畏まりました」
「引退したあなたのお父様にも、お出ましいただくことになるかもしれないわね?」
今は商会の代表者として大きな顔をしていても、伯爵家に対し不正を行っていたと知られれば、今の立場に置いておくわけにはいかなくなるだろう。
この男の兄弟なり、親族から相応しいと思われる者を代表の座に置いて立て直すはずだ。
その時、目の前にいる男がどうなるのか。
――知ったこっちゃないわね。
「お、お嬢様、お待ちください! これは手違いでして!」
扇で口元を隠し、つんとそっぽを向く。
これはお前とは話したくないというジェスチャーであり、それを突破しようとすること自体、貴族の男性でも野暮で貴族の作法の妙の分からない不躾な者扱いされる。まして商人ならば、なおさらだ。
「部屋に戻ります。ジェイク、あとは頼んだわ」
「かしこまりました」
「お嬢様ァ!」
後日、速やかに出入り商会の先代が莫大な慰謝料とともに、最先端のドレスと宝飾品を「心づけ」として送ってきた。
その速度は、流石は貴族の家の出入り商人をゆるされた商会の先代だと納得するほどだった。
* * *
「面会を許してくださりありがとうございます、お父様」
「ああ、お前の最近の話は聞いている。手短に済ませてくれ」
父――ウォッシュ伯爵は執務室のソファに座り、書類に視線を向けたまま言った。
父親を相手にずいぶんへりくだらなければならないなと思ったし、それに対する返事の冷淡さにも驚いたけれど、これがこの世界の作法なら仕方がない。
もともと父ウォッシュ伯爵は長女のリリーにも次女のアンジェラにも等しく興味が薄い。妻である母にも女しか産めなかったと失望し、リリーが物心ついた頃には冷え切った家族関係だった。
「お話は、私の婚約のことです。お父様には、ダーリー様との婚約を撤回していただきたく、お願いいたします」
「馬鹿なことを」
聞くに値しないと言わんばかりに冷たい口調だった。元々のリリーならばここで黙り込むか……そもそも一人で父と対面してまともに顔を見る度胸すらなかっただろう。
「お父様の耳にも届いているはずです。ダーリー様が私の妹アンジェラと道ならぬ関係にあるということを」
ダーリーはリリーの婚約者であり、侯爵家の三男である。家と家との政略結婚であり、いい時期を選んでウォッシュ伯爵家に婿入りをする前提で結ばれた婚約だ。
けれどダーリーが、気弱でおどおどとして自分の意見をまともに言わずいつも怯えた様子を見せる婚約者に辟易していることは明らかだった。
それとは正反対の天真爛漫で無邪気で好意にも悪意にもまっすぐなアンジェラに惹かれたことも、仕方のないことなのかもしれない。
正直アンジェラが心からダーリーを好いているとは、私は思っていない。
情けなくて目障りな姉の婚約者にちょっかいを出して、より深く姉を辱めてやろうという、その程度の意地悪な感情からやっているのだろう。
「それが気にいらないと?」
「気にいりませんわ」
間髪入れずはっきりと言い返したことで、ようやく父は書類からこちらに視線を向けた。
「愛人を作るのはよいでしょう。婿入りとは言えきちんとこの家を回し跡継ぎを作るならば、多少外で遊ぶのも男性の甲斐性のうちと言えるかもしれません。しかし妻になる女の妹に手を出すということは、その家の財産をいたずらに汚すことと同じです」
この世界では女性はその家の主の所有物であり、財産扱いである。
恋愛にも結婚にも父親の許可が必要だし、反対を押し切って交際を続けたり駆け落ちをしようものなら、財産に傷をつけたとされて損害賠償の対象になるほどだ。
リリーの結婚が決まっている以上、妹のアンジェラは別の家との政略結婚が前提の、ウォッシュ家の財産である。
ダーリーはその財産の価値を汚す様な愚かな真似をしているのだと言葉を重ねると、父はようやくフム……と考える様子を見せた。
この人は心底、娘に興味がないのだ。だからこそアンジェラの「価値」について、これまで目を向けることをしなかったのだろう。
「家を回すということは誠意と信頼が必要なはずです。ダーリー様からはそのどちらも感じることはできません」
「だが、侯爵家との縁談をそう簡単に解消するわけにはいかない。アンジェラが孕んでいるともなれば話は別だが」
「あら、きっと時間の問題ですわよ。もしよろしければ、お父様の方からダーリー様に声をかけて差し上げればよろしいですわ。アンジェラと共にいるときに娘を頼むとでもお伝えすれば、「了承」の証であると勝手に思われるでしょう」
何の了承かといえば、要するに長女と結婚して家を継ぎ次女を愛人にする許しだと思われるだろう。
はっきりと言う必要はない。それを自分の都合のいいように受け取ること自体、そもそも貴族として相応しくない振る舞いだからだ。
「それが試金石になりますわ」
「なるほどな」
父は、はっきりとそう言った。それで充分だ。
「お父様、本日はお時間をありがとうございました。お仕事の邪魔をしては申し訳ありませんので、これで失礼いたします」
「リリー。お前は、自分にはどんな男が相応しいと思う?」
引き留めるような言葉に驚いて振り返り、ニッコリと笑う。
「私にどのような男性がふさわしいかはお父様の決めることですが、私でしたら、そうですね。――少しだけ年間の予算に余裕がありましたら、それを運用してウォッシュ家の跡継ぎにふさわしい人間がどのような者か、証明した者を跡継ぎにすると思います」
「……考えておこう」
その日はそれで話は終わりになった。
商会からもたらされた莫大な慰謝料と、「なぜか」数倍になった令嬢としての年間の予算を利用して始めた事業で、リリー・ウォッシュの名が王都に知れ渡るようになったのは、また別の話である。
* * *
丁寧に髪を梳られながら今日のドレスを指定する。
「今日は公爵家のお茶会に顔を出す予定だから、そちらの紅色のドレスにしてちょうだい。宝石は先日選んだピンクサファイアの首飾りを」
「かしこまりました。――お嬢様、お出掛けの前に奥様が、どうしてもお嬢様にお会いしたいと」
ゆっくりとしゃべるメイドに、ふふっと小さく笑う。
「お母様も仕方がないわね。分かったわ。出かける前にお母様の私室を訪ねましょう」
そう告げるとメイドは明らかにほっとした様子だった。身支度を済ませ、部屋を出て母の私室に向かう。中継ぎのメイドが来訪を告げると、すぐに母がこちらに走り寄ってきた。
半年前と比べて明らかにやつれた様子だけれど、目には深い悲しみが浮いている。
「ああ、リリー。よく来てくれたわ。ねえ、私やっぱりどうしても、アンジェラが心配で」
「お母様、落ち着いてください。大丈夫、アンジェラは幸せにやっておりますよ」
母をソファーに座らせてぎゅっと手を握ると、母ははらはらと涙を落とした。
「お母様。アンジェラが好きな相手と結婚できて、よかったではありませんか。お母様ご自身、政略結婚で苦労されたのでしょう? 可愛い娘には、愛する人と結ばれる幸せをあげようと、半年前にお話ししましたでしょう?」
父と母は政略結婚であり、かつ母が女しか産めなかったことで、父はあからさまに彼女を冷遇していた。
母の我儘で自分によく似た容姿の妹ばかりを偏愛する振る舞いが、そうした焦りや寂しさから来ていたものだろうと今なら理解できる。
自分によく似た娘が好き放題にしている様子を見るのは、彼女にとって一種の代償行為なのだろう。逆に、気弱で陰気で常に周りの視線を気にしておどおどしている上の娘に対しては、苛立ちしか感じなかったはずだ。
可愛がっていた自由な娘がいなくなって、途端に不安定になった様子だった。
「アンジェラはダーリー様の子を身ごもっておりました。その状態で引き離すなど、きっとアンジェラは生涯悲しみに暮れて生きなければならなかったでしょう。そうならずに済んで本当に良かったではありませんか。今頃西の都で、ダーリー様と幸せに暮らしていますわ」
「……あ、ああ。そうね」
「ええ。本来なら勘当になるべきところを、ダーリー様ともども王都にいるのは肩身が狭いだろうからと、西の都の別邸をアンジェラに相続させてあげたお父様のことですもの。数年もしてほとぼりが冷めればきっとまたアンジェラにも会えますわ」
「そうね……それがアンジェラのためね」
「どうかそんなに不安にならないで。ほんの数年の辛抱ですわ。きっとアンジェラに似た可愛い子を抱いてお母様に会いに来てくれますわよ」
聞こえのいい言葉を告げる私に、母はすっかりと弱った心を預けている。勿論、今となっては侯爵家にとっても伯爵家にとっても、あの二人はメンツに泥を塗った厄介者だ。
外で産んだ子供など、あの父が会おうとするわけもない。
もしも執拗にゴネれば、妻に執着のないあの父がどういう行いに出るか……それについては、夫婦の問題だ。私がどうこう言うことではないだろう。
「お母様、私、今日は公爵夫人と約束がありますの。お母様のそばについていて差し上げたいけれど、退室をお許しくださいね」
「ええ、ええ。そうね。リリー……あなたは、私の自慢の娘だわ」
「ありがとうございます、お母様」
アンジェラがそばにいる時には決して聞くことのできなかった言葉を口にする母に優しく微笑む。
ダーリーは、顔はいいが、それだけの男だ。侯爵家から「独立」し、婿入りの道も絶たれて自立する才覚もない貴族の籍を失った彼が、どう生きていくのかなど、そう道は多くないだろう。
王都での華やかで贅沢な暮らしが大好きだったアンジェラにとって、王都の本宅とは比べ物にならないほど小さな西の都の別荘で稼ぎのない無能な男と子供と共に一生を過ごす現実は、地獄のような日々だろう。
「それでは、行ってまいりますね、お母様」
微笑んで部屋を出る。
私は事業家としての道を歩き出し、妹は愛する男性と結ばれた。
父と母はこれまで通り、何の変わりもない冷たい夫婦関係を続けるだろう。
まあそれなりに、ハッピーエンドと言えるのではないだろうか。
* * *
リリー・ウォッシュとして目覚めてから一年後。
私は今、自室で静かに紅茶を楽しんでいる。
新しく入れ替わった誠実なメイドたちは穏やかに話し、過不足なく仕事を行って、今も音も立てずにドアの外に控えている。
もう、ノックなしで入ってくる者は一人もいない。
開いた窓から暖かい日差しと共に優しい風が吹き込み、ゆっくりとカーテンを揺らしている。
穏やかで、静かな時間だ。本来のリリーが最も望んだのはこういう時間だろうと、時々彼女を偲ぶような思いで、私もこんなふうに過ごしている。
正直、これが「リリー」の望んだ生き方なのかと思う瞬間はある。私の記憶の中の彼女は気弱で、不安に満ちていたけれど、他者との争いはもっとも望んでいない人だった。
そう思って軽く首を横に振った。
「私だってざまぁなんて、疲れちゃうから好きじゃないけど……」
でもやっぱり、怒る時は怒らなければならないし、舐められたら報いを与えないと、自分のための道を切り開くことは、難しい。
私がリリーとして生きていくならば、やらなければならなかったことだ。
空はよく晴れている。小鳥の鳴き声は爽やかで、まるでずっと、こんな日が続くと錯覚させる、素敵な日だ。
私はこの新しい人生を、今度こそ自分らしく、毅然と歩んでいくつもりだ。




