春の前の冬
そうして私と陛下は話し合いの末、5日に1度お泊まり会をすることで合意した。
ルカルディオ陛下を愛称のルカ、と呼んで常体語で話すのはやっぱり私的な空間じゃないと難しいという私の意見を、優しい陛下が呑んでくれたのだった。
一方で、私は毎日お泊まりして欲しいけれど、陛下は結婚するまでは節度を持ちたいということから5日に1度と定められた。もちろん、泊まるだけと明言される。
恥ずかしながら、これはルカルディオ皇帝陛下の公的なスケジュールになった。私的な時間を持つのに公的にするとはこれ如何に、などと思う。
◆
華やかなパーティーの続く秋の季節は過ぎ、帝都の建物がうっすら雪化粧をする冬となった。雪は誰にも平等で、宮殿にも、ルカルディオ陛下にも容赦なく降り積もる。
「ルカ」
豪雪の夜でも、5日の1度の約束を守って私の部屋にやってきたルカを、毛皮のついたマントごと抱き締める。雪が私とルカの間で溶けて、ひんやりした。
昼間はちゃんと陛下と呼んでいるけど、このひとときだけは別としている。敬語もやめた。そもそも、相手が喜ばない敬語には何の意味も敬いもない。
私はルカを追い詰めていたことを深く反省した。自分を心の中で百回くらい殴り付けてできるようになった。
「サーラ、マントを脱ぐから」
寒さでほんのり顔を赤くしたルカが、私の背中をぽんぽんと軽く叩き、一度離れるように促す。私が仕方なく離れると、ルカはすぐに魔法で雪を乾かした。
私の住まう紫水晶宮と、ルカの翡翠宮の間は離れていて、屋根のない庭園の道を歩く必要がある。
「早く同じ宮殿で寝泊まりしたいわ。どうしてルカが夜に外を歩かなきゃならないの」
「ああ。私も自分のこだわりがわからなくなってきた」
ルカはおどけて両手を広げた。私はその何でもない応対を愛しく思う。皇帝として常に責任ある発言をするルカが、ちょっといい加減な答え方をするのは貴重なのだ。
「こんな日だから、体が温まるお茶を用意してあるわ」
「ありがとう」
ルカと一緒にソファに並んで座る。保温のためのティーコゼーを外して、ポットから湯気の立つスパイスティーを注いだ。相変わらずサーシャがお勧めのお茶をくれるので、私はその恩恵に与っていた。持つべきものはお茶会や刺繍やかわいいものが好きで近衛騎士の弟、だ。
「いい香りだ」
「今日はこの本を読みましょう」
「うん」
室内にシナモンやクローブ、生姜の温かな香りが広がるけど、そこに雪の残り香が混ざっていた。私が差し出した本は、遥か北方の極限を旅した男の旅行記だ。
私とルカは、一緒に旅行記を読むことにはまっていた。始めは、私を宮殿の奥深くに閉じ込めたいという闇堕ちしかけのルカの気を逸らすためにしてみたけど、私もまんまと夢中になった。
私もルカも、どちらかというと狭い範囲で生きてきた。遠いところへの憧れの気持ちが強い。
元気なうちに皇帝を退位して、 いつか二人で旅行に行きたいね、が共通目標になった。なんで結婚する前から引退間近の老夫婦みたいになってるのとサーシャに笑われても、これが幸せかと思う。
「ほう。氷山というのは水面から見えている部分の7倍から10倍が海水に沈んでいるのか」
私より読むのがずっと早いルカが、もうページの終わりの部分を読んだらしく感嘆の声をあげる。
「まだそこまでいってないの」
私がまだ読んでいる右側のページでは、小さな氷だからぶつかってしまえと酔った相棒が叫んでいた。
「私のサーラへの気持ちも海に浮かぶ氷山みたいなものだな。表現できている愛はほんの僅かだ。その下には、氷というよりはもっとドロドロしたものがあるよ」
「愛してるならちゃんと読ませて」
ときどきルカは暗い部分を滲ませるけど、そこも好きなので軽めに流すことにしていた。
本当はルカのドロドロした部分を知りたいし、ぶつけられても全然構わないけど――でもこういうのは、片方が暴走するなら、もう片方が止めるものなのだろう。
「ああ、もちろん待ってる。サーラの本を読んでいるときの横顔が好きだ。きれいだ」
優しく頬を撫でられるけど、私はため息をついてルカの方を向いた。
「全然落ち着いて読めないわ。愛ってこんなに自分勝手なものなの?」
「横顔も好きだが、サーラに振り向いて欲しくて……」
いつもは凛々しく上がった眉を下げ、ルカはすまなそうにした。人間は多面性の生き物だというけど本当にそう。ルカには、まだまだ知らない面がある。
私からルカにそっとキスをして、私は本に視線を戻した。ルカが視界の端で嬉しそうにしているのが見える。私自身、こんなに積極的になれるとは知らなかった。春の頃のグイグイ来るルカはどこいったって感じだけど、冬眠でもしてるんだろう。
二人で一冊の本を読むと首が疲れるので、しばらくしたら、左右の並びを逆にしてベッドで読むことにしていた。枕を背中に当て、本の中の氷で作った家や、氷温乾燥した野菜や肉で作る料理などの記述に没頭した。
「いつか、引退したらゆっくり料理をしてみたいわ」
私は料理長に指示を出したり、養護院の炊き出し作業を一緒にやったりはするけれど、一から十までひとりで料理したことはない。
「今でも望むならサーラ専用の厨房を作るぞ」
「嬉しいけど、仕事を奪うようで料理人たちに悪いわ。それに折角ルカに政務の権利をもらったから、私にできることをしないとね」
「そうだな。サーラは偉い」
ルカは素早く私の言わんとしていることを理解して、私の頭を撫でた。皇帝であるルカの持っている権力は絶大だ。その一部を分けてもらった私が、限りある時間を使ってまずい料理を作るより、帝国のために働いた方が間違いなく有益だ。
眠くなってきたら、本を閉じてランプを消す。ルカの温もりを感じていられるのが幸せで、惜しむように私は微睡んでいた。毎夜、ルカの隣で眠れたら言うことないのに、それは結婚してからだと意固地なルカがちょっと憎らしくもあった。
「ルカ」
「うん」
「呼んだだけ……」
「なるほど」
何かなるほどなのか、目を閉じて鋭敏になった耳に、ルカがくすっと笑うのが聞こえた。
ルカは必ず私より後から寝る。そして私より先に起きていた。ルカが睡眠不足になるから5日に1度なのかもしれない。政務に支障をきたすから――
不完全燃焼の愛が積もる冬が過ぎて、春になり、いよいよ結婚前夜となった。
明日は早朝から予定がぎゅうぎゅう詰めなので、早く寝なければならない。でも私は部屋でひとり、予定表とにらめっこをしていた。
「ここで途中でお腹痛くなったらどうしよう」
もう予定表を見ているだけでお腹が痛い。うんうん唸っていると、扉がノックされた。
「ねえ、サーラ」
「サーシャ? どうしたの」
かけられた声ですぐにサーシャとわかり、私は扉まで迎えにいく。勝手に扉を開けたサーシャは、私とよく似ている顔をどういう訳か涙にまみれさせていた。
「何事?!」
「サーラ、やっぱり結婚しないでよ」
「はあ?!」
身長差はそれ程でもないけど、筋肉などで体格差が大きいサーシャがすがり付くように凭れてきた。
「ちょっと、重い」
「ねえ結婚なんてしないでサーラのままでいてよ」
「サーシャはこの間ペネロペと結婚したじゃない! どういう感情よ」
引き剥がそうと試みるけど、サーシャが本気だとかなわなかった。私より一足先に挙式をしたサーシャとペネロペの姿が脳裏に浮かぶ。花嫁のペネロペはそれはもうかわいく美しく、サーシャも花婿として決まっていた。
「こういう感情だよお! 妻も姉も僕のものなんだ」
私のナイトドレスにサーシャは顔を擦り付ける。絶対涙や鼻水をつけられた。




