提案書
顔の火照りを冷ましてから、私とルカルディオ陛下は執務室に戻った。仲直りをして愛情は更に燃え上がったけど、具体的な今後の展望について未解決だ。話が脱線しないよう、場所を執務室に変える必要があった。
「って! 私の席で何を見てるんですか?!」
入るなり、ダンジェロ宰相閣下が私の席の引き出しにしまってある私の秘密の提案書をふむふむと読んでいるのが目に入った。横にジルが立っているので、犯人はジルだろう。ジルには一度見せたことがある。
「サーラ様の提案書ですよ。よく書けていますね。陛下、ご覧になった方がよろしいかと」
「見せてみろ」
若干悔しそうに、陛下はダンジェロ閣下から提案書を引ったくった。将来はこんな国になるといいな的な私の理想を詰め込んだものなので、皆に回し読みされてすごく恥ずかしい。
「陛下……お目汚しでごめんなさい」
「いや、どれもよく書けている。画期的で斬新だ。サーラは努力して書いたのに、私の態度が悪いばかりに見せられなかったんだな? すまなかった」
速読できる陛下は、さっと目を走らせるだけで内容を理解したらしい。
「陛下の態度は何も悪くありません。本当に、何となくなんです」
「何となくが大事なんだ」
「でも、陛下のこれまでの政治が素晴らしいのは誰が見ても明らかで、後から文句をつけるのは誰でも出来ることで」
私と陛下の間に、ぬるっとダンジェロ閣下が割って入った。歳を取ってやや細まった体つきだからこその技かもしれない。
「ええい、お二人はごちゃごちゃとうるさいですね。はっきり言って、これは検討の余地がありますよ。特に医療保険というのはいいですね。国にとって重要な労働人口の確保に関わってきます」
「そ、そうですか」
私が提案書に記載したもののひとつは、国が運営する医療保険だ。
単に義務とすると増税として反発を浴びるので、任意とした。更に過渡期の措置として、数年は病気や怪我をして治療が必要になってからでも加入可能とすることで間口を広めようとしている。
これは慈善事業をするに当たって、孤児の増加をいかに減らすかという問題に深く関わっている。働き頭の父親が怪我や病気になって、高額な治療費を払えず、一家離散という例は多くあるからだ。
困難を体験した人から、今はその発想すらない保険が一般に広まるだろうと考えた。もらい逃げも含めて運用可能だと試算している。
「病気になったとき、治療を受けられるかどうかは誰にとっても命運を分けることだからな」
陛下が苦い表情をした。先帝陛下が治療を受けられなかったことを思い出させてしまったのかと私は慌てて、話をそらそうとする。
「ええ。病気に限らず保険は大事です。ご存知のように我がフォレスティ家は貿易業を営んでおりますが、同時に積み荷の保険業も請け負っていることから着想を得ました。保険がなければ、嵐や魔物に遭って荷物や船を失い、借金だけ背負って荷主の人生が終わってしまう事例がありますから」
「そうなのか」
「ひとつしかない体も同じと言えるでしょう」
うむ、と陛下は深く頷いた。私はもう少し続けてみる。
「それにですね、治療を受ける人が多くなれば、医師も薄利多売的に1件当たりの治療費や薬代を下げられます。また、症例を多く診ることで医療技術の向上も見込めるでしょう。医療技術はものを作り出す産業ではありませんが、ほぼ同じような循環をすると思われます」
「本当に、サーラの視点は興味深い。私は政治は長くやっているが商業には明るくないから」
陛下が褒めてくれるのでさっきとは違う感覚で顔が火照ってしまう。甘やかしの一種だとわかっているけど、それでも嬉しかった。
「では、ご検討よろしくお願いいたします」
「ああ」
提出してしまえば簡単なもので、提案書はかなりの手応えで受け取ってもらえた。
「良かったねえ」
ジルがうんうんと満足げに笑っている。ジルはこれで肩の荷が降りたと言わんばかりだ。ダンジェロ閣下も私に対して、ちょっと肩をすくめて見せた。
「サーラ様、では私と共に、今後の陛下との政務の分担についての取り決めを致しましょう。昨日言ったでしょう? 私にお任せ下さいと」
「あ、ええ。私は経験不足故にご迷惑かけることにならなければと思いますが、有難いお言葉です」
ダンジェロ閣下については、どこまで本気でどこまでお芝居なのかわからない。私は返事を濁した。
「政治にいつも経験が役立つとは限りませんよ。私など、悪知恵が回るだけです」
意外にも、ダンジェロ閣下は謙遜をする。
「悪知恵だなんて」
「歳を重ねてつくのはそのくらいのものです。時代は常に新しく変わっていますから、常に未曾有の事態に判断を下さねばなりません。現在のディランドラ帝国も、過去にない状態なのです」
「何か、危機があるのですか?」
私は驚いて、ダンジェロ閣下の演説の次を聞こうとする。
「長い間、侵略戦争をしておりません。ついこの間に内乱があっただけです」
「それは良いことなのでは」
「戦争というわかりやすい敵のない時代の政治は、いつも厳しい目に晒されます。民衆はいつも、政治を叩く材料を探しています。この平和なディランドラ帝国で求心力を示す皇后となられることを、私はサーラ様に期待致しておりますよ」
「……っ」
思ってたよりダンジェロ閣下の期待値が高くて、私は肩が重く感じた。その肩を陛下が抱き寄せる。
「ダンジェロ、サーラをいじめるんじゃない。舅みたいだぞ」
「はは、憎まれ役で結構でございます」
如何にも底意地の悪そうな笑みをダンジェロ閣下は浮かべた。
「ニヴェスリア元妃による暗殺や、反乱があったことで、次期皇后となるサーラ様には間違いなく厳しい目が向けられるでしょう。ですので、陛下とサーラ様はどうぞ仲睦まじい姿を見せて下さい。そして私はサーラ様を忌み嫌っているという対立構造で参りましょう。もちろん、本心ではございませんよ」
「ええ、存じておりますとも。ダンジェロ閣下はお優しい方です」
私は本心から笑ってみせる。難しい相手だけど、私はダンジェロ閣下が嫌いではなかった。
これらの騒ぎを後から知らされたベラノヴァ団長には、丁重な謝罪を受けた。でもベラノヴァ団長は、何も悪くない。ダンジェロ閣下の策略が数枚上手だっただけなので、特にお咎めもなく一件落着したと、私は思っていた。
「では、陛下の誕生祝賀会の式次第はそのように」
私はジータ、タマラ、クレオという3人の侍女や儀典官を前に会議をしていた。政務の分担について協議の結果、式典関係は完全に私の管轄となった。これは伝統的に、皇后の仕事でもある。特に陛下のお誕生日のお祝いを仕切れるのは嬉しかった。
これでこそ私に陛下から託された、3人の有能な侍女たちの能力も生かせるというものだ。
最初こそ色々あったけど、すっかり馴染んできたなと私はみんなの顔を見回した。だけど、一番私に噛みついてきていたジータが灰色の瞳を机だけに向け、なんとも暗い雰囲気を出している。
「ジータ? 何か気がかりなことでも?」
私は軽い気持ちで尋ねた。――しかしジータは黙ったまま、突如としてぽろぽろと涙を零す。
「えっ……」
そんなにひどく険のある言い方をしたつもりはないし、これで泣かれるだなんてと狼狽えてしまう。タマラとクレオに助けを求めるが、彼女たちも訳がわからない、という風にぶんぶん首を振った。私は椅子を立って、ジータの横に移動しハンカチを差し出した。
「どうしたの?」
ハンカチを受け取りきつく握りしめると、ジータは震える唇を開いた。
「サ、サーラ様は……」
「ええ」
「いいですわね、何もかも順調で、みんなに愛されて」
「えっ?」




