秋風
「なぜサーラを政務から遠ざけたかというと、無理をして欲しくないからだ」
ルカルディオ陛下は、ため息を吐いた。秋の空は宮殿で一番高いバルコニーにいても遥かに高く、冷えた風を下ろしてくる。
「そんなに無理はしないつもりです。私は少しでも陛下の力になりたいんです」
「ああ、サーラのそういうところは好きだが、婚約パーティーでのサーラの母君のように、痩せ細るまで働いて欲しくない。ただでさえサーラは、弟の為に男だらけの騎士団に単身乗り込んできた前科がある」
「うっ」
それを言われると私は反論出来ない。
「折り合いが悪いダンジェロのところに直接向かったのも信じられない程勇気ある行動だ。ダンジェロはサーラに失礼なことを言いそうだから遠ざけていた。あいつは心配性が過ぎる。まあサーラを独自に調べているのは勘づいていたから、そのうちサーラの良さを理解してくれるだろうと暢気にしていた私にも非があるが。ダンジェロに何か言われなかったか?」
「あはは……」
私は笑ってごまかそうとするが、陛下は大方を察したようだ。そう、ダンジェロ閣下には軽く悪魔扱いをされた。どこまで本心かわからないし、嫌な感じはしなかったけど。
「サーラの勇気にはいつも敬服する。いつも睨まれていたのに、怖くはなかったのか?」
「ダンジェロ閣下は怖くないです」
「ダンジェロは、というと?」
陛下は穏やかに問う。
「私は陛下が怖いです。陛下に嫌われるのが怖くて、立ち竦んでしまうときがたくさんあります」
さっきもそうだった。陛下に疑われていると思ったら、何も言えなくなった。私は陛下の為ならいくらでも強くなれるはずだったのに、今は陛下に言いたいことも言えなくなっている。
陛下は黙ったまま、私の肩からずり落ちそうになっているマントをかけ直した。くっついている右側だけが温かかった。
もう私の中には、陛下にしか温められない何かが存在している。もし陛下に嫌われたら冷えきって動けなくなって、どうにかなってしまうかもしれない。
「あの、ちょっと話はズレますが、私のお父様は一度浮気をしてるんです」
「フォレスティ公爵が? あんなに善き夫であり善き父みたいな人が? フォレスティ夫人やサーラたちという素晴らしい妻子がいながらにして?」
陛下が目をこぼれ落ちそうに見開き、驚いて質問をいくつも重ねる。私は口元がゆるみ、少し笑った。
「そうなんですよ。お父様ったらメイドに手を出して、大変でしたね。それで、お母様は好きに働くようになったところがあります。もちろんちゃんと仲直りしてて夫婦仲は良いですけどね。だから私は、必ずしも両親みたいになりたい訳じゃないです」
これを婚約パーティーのときに言いたかったのだと私は思い出した。
「サーラ。私は絶対に浮気はしないからな。女性嫌いは治ったが、心惹かれる女性はサーラだけだ」
「ありがとうございます。私も、陛下だけですよ。周囲に男性は少しはいましたけど、ずっと自分が女としておかしいんじゃないかと心配してたくらい、陛下以外にドキドキしないんです」
私には恋愛のときめきなんて、生涯理解出来ないかもと諦めていた。でも忘れもしない叙任式で、陛下の翡翠みたいな瞳が私に向いたとき、やっと恋に溺れる人たちの気持ちがわかったのだ。
「そ、そうか」
陛下が照れたように笑って、大きな手で私の手を包む。
「だから……私と陛下は、たくさん話し合って、私たちだけの形を見つけて、私たちらしい夫婦になれたらいいなと思います」
「そうだな」
夫婦と口にするのはまだ気恥ずかしかったけど、陛下は間を置かずに肯定してくれた。だけど繋いでいた手がほどけて、どうしてかと私は向き直る。
すると陛下の温かい手のひらが私の頬に触れた。陛下が眼差しがまっすぐ強く私に向いているので、私はかあっと体が熱くなる。あれ、これって、この雰囲気って――
眩しいくらいに美しい陛下の顔が近づいてきて、私は反射的に目をつむった。冷たいけれど柔らかい感触がふっと口元を通りすぎる。すごく久しぶりの、陛下からのキスだった。幻覚魔法を解いてからは一切なかった。というか私からだって1回しかしてないし、つまり私たちの間で3回目の記念すべきキス。
色んなことがぶわっと飛んでいって、夢かと疑う。私たちには話し合いが必要だけど、幾千の言葉より雄弁なものもこの世にあると私は知った。こんなに私を大切にしてくれる人は陛下以外にはいない。
「警備兵が見てるんじゃ……」
なのに目を開けて、照れが最高潮に達した私はどうでもいい発言をした。仲直りのキスという陛下の判断は最良の一手だったのに、私が打ったのは最悪の一手だ。
「ほう?」
陛下の目が、すうっと細められた。温かい空気が四散して、氷魔法でも使ったみたいに周囲の温度が下がった気がした。
「あ、やっぱり今のなしでお願いしたいんですが」
「いいか? 警備兵はあそこだ」
警備について当然何でも知ってる陛下は、左斜め後ろの方向を指差した。不審な飛来物に備えた見張りの塔に立つ警備兵は、ここからは米粒ほどの大きさだった。望遠鏡は持ってると思うけれど。
「昨夜、道の真ん中でベラノヴァ団長に肩を抱かれていたのは気にならないのにあんな遠くの輩を気にするんだな?」
「見てたんですか? あっ! あの幽霊みたいなのって陛下だったんですか?」
私の記憶の中で、突然幽霊の気配と陛下の気配が符号する。だから嫌な感じが全くなくて、近寄ってみたかったんだ。
「そうだ」
「ベラノヴァ団長の行動は、警護目的以外なにものでもないですよ。見てたのならおわかりかと」
「まあ、そうだな。ダンジェロを含めて話したあとの帰りという前提なら」
言いながら陛下が私の両手を握ってダンスみたいに軽く押してくるので、私は後ろ歩きになる。とん、と入ってきた扉に背中がぶつかった。
「これなら文句ないか?警備兵には私の後ろ姿しか見えない」
背の高い陛下が、私を覆うようにした。怒ってるのに優しいし、整いすぎた顔が近いしで私の心臓が暴れ出した。
「あ、はい、そうですね……陛下のお気遣い痛み入ります。本当にごめんなさい、誤解させるような行動をして」
私は落ち着かなく、今口付けたばかりの陛下の薄い唇を見た。私が雰囲気ぶち壊しちゃったから、次のキスはまた何ヵ月もないかも――
「サーラの望みを聞いたから、私の望みを聞いてもらおうか」
「はい。小さなことも溜め込まず話し合う対等な関係ですね。嬉しいです」
「ルカと呼んでくれ」
頬を染める陛下に、私は格の違いを思い知った。何で雰囲気戻すのそんなに上手いの。
「ルカ……」
「うん」
小さく掠れた声で、私は陛下の愛称を呼ぶ。嬉しそうな笑顔に、心臓がもう一段階跳ね上がった。ルカは、今だけは皇帝じゃない、ひとりの男の人だ。現実離れした美貌なのに無邪気に怒ったり笑ったりする、私の大好きな人。
「サーラ、愛してる」
私も、とは言えなかった。また唇を唇でふさがれたからだ。今まで全然こういうことしてくれなかったのに、情熱的なキスを受けて私は腰が砕けそうになる。後ろが扉で、寄りかかれるから何とかなった。
やがて、扉にまで嫉妬したのか、ルカが私をきつく抱きしめた。私はしがみつくように腕を回す。冷たい風が私と陛下の間に吹き込まないように。




