ダンジェロ宰相
静かに侍女がワゴンを押してきて、低いテーブルにお酒やおつまみを並べ始めた。
「私は古い人間だから、腹を割って話すにはやはり酒が必要かと思う。サーラ嬢も一杯くらいは付き合ってくれるな?」
ダンジェロ宰相閣下は、3つのワイングラスに手ずから赤ワインを注いだ。ワイングラスは、脚部が陶器になっている珍しいものだった。
「はい、もちろんです。こんなに歓迎して下さって嬉しいです」
結婚前に男性と二人きりでお酒を飲むのは控えるべきだけど、ここにはダンジェロ閣下側の人とはいえ、ちゃんと侍女がいる。それにダンジェロ宰相閣下はおじいちゃんだし、騎士のベラノヴァ団長もいるし、断る理由はなかった。
軽くグラスを掲げ、3人で乾杯をした。香りだけでも相当良さそうなワインだ。一口飲んで、感想を言おうとする前にダンジェロ閣下が口を開いた。
「このワインは、大神官に祈祷してもらった聖なるワインでな」
「そうなんですね。貴重なものをご馳走して頂けてありがとうございます。とてもおいしいです」
「うむ。サーラ嬢が悪魔や魔物の類いだったら苦しんでいただろう。口に合って良かった」
閣下なりの冗談なのかな、と私は笑みを作る。
「宰相閣下、冗談が過ぎますね」
ベラノヴァ団長が静かにグラスを置いた。やっぱり怒ってよかったらしい。歓迎してくれてなかったのか。
「すまぬ。だが私は、悲劇を繰り返したくないのだ。ニヴェスリア元妃が犯した数々の罪は、私の目が節穴だったせいだ。今度こそ、と思うとついサーラ嬢を厳しい目で見てしまう」
ダンジェロ閣下は言葉通りに、目をすがめて私を見た。だけど彼の茶色の瞳は、悲しみと後悔に満ちていた。
「いつも私を睨まれていたのは、そういうことでしたか。はっきり言って下さって助かります」
苦笑いをして、ダンジェロ閣下はグラスのワインを飲み干した。
「サーラ嬢は全く、普通の令嬢とは違うな。強かなベラノヴァ家一門を取り込み、私の元へとたどり着く手腕も見事だ。陛下が溺愛されるのもわかる」
ダンジェロ閣下は唐突に立ち上がった。部屋の奥からよれた紙の束を持って戻り、テーブルに投げるように置く。表紙には、調査報告書とあった。
「サーラ嬢の特別な事情は陛下から聞き及んでいる。それ以外に、私なりに調べさせてもらった」
特別な事情とは、私が弟のサーシャに偽装して近衛騎士になっていたことや、私が魅了の瞳を持っていることだろう。部屋には侍女が控えているのでぼかしてくれたようだ。
「あなたは、隙がなさ過ぎる。容姿端麗で教養が高く、心優しいと侍女や侍従からの評判も良い。質素な食事を好み、贅沢はしない。皇弟のジルベール殿下と仲がよく、養子のアントニオ殿下も実にかわいがっている。唯一、男装や剣術を好むくらいが欠点だがそんなもの、害がなさすぎて計算ずくにすら思える。いっそ悪魔だと言われた方が信じられるくらいだ」
座り直したダンジェロ閣下は、迫ってくるような勢いで捲し立てる。私は助けを求めるようにベラノヴァ団長をちらっと見るが、首を振られてしまった。確かに、私が答えなきゃダメだ。
「ええと、まず報告書は大げさに書かれすぎです。私はそんなに大したことないですし、男装が好きなのは楽だからです。そして、悪魔ではありません」
とりあえず、それだけ言ってみるが閣下は勢いよく頭を下げた。
「えっ? あの……」
「頼む! サーラ嬢が完璧な次期皇太后というその芝居を崩さぬのなら、どうか一生続けてくれ! 私の目玉でも心臓でも捧げよう。この老いぼれに出来ることなら何でもする。だから、ルカルディオ陛下を頼む。あの子を不幸にしないでくれ!」
「閣下の目玉も心臓もいりません!!」
正直な心の声が出てしまった。ふふっと横の席からベラノヴァ団長の笑い声が聞こえた。
「失礼。いや、私も閣下と事前にお話したのですよ。サーラ様が悪魔ではないと説得したのですが、聞き入れてもらえませんでした」
「うーん、私が悪魔じゃない証明なんて無理ですね……」
手っ取り早く悪魔じゃないと証明する手段はない。本当に悪魔の証明だから、私は投げやりにそう言った。
「すまぬ。サーラ嬢に非はない。そこが恐ろしいのだ。だが同時に、こうしてサーラ嬢と向き合って話していると、簡単に絆されそうになっていて恐ろしい……こうやって皆を陥落させたのだな」
ダンジェロ閣下の口調にほんの少し、戯れの感があったのでお愛想のつもりで私は笑った。ダンジェロ閣下も遅れて笑い出す。ひとしきり、白々しい笑い声が響いた。
「私が疑り深いのは手をつけられんが、何も陛下との仲を引き裂こうとは思っていない。陛下はもう完全にサーラ嬢に堕ちているからな。政務の分担について揉めているんだったな。私が一肌脱ごう」
「本当ですか?」
陛下について、何かすごい表現をされたけどそこは触れないで私は聞き返した。
「伊達に歳は取っておらぬ。まあ、手段は任せておきなさい」
「ありがとうございます!」
今度は私が頭を下げる。ダンジェロ閣下は癖があるけど、本当に優しい人だった。こんな人が陛下の周りにちゃんといたという事実に嬉しくなる。
「あー……ほかに私に聞きたいことは? 折角だから、思い出話にでも付き合ってもらおうか。それを聞いて人の心があるのなら、どうか陛下を頼む」
「わかりました」
ダンジェロ閣下の極端な表現にはもう突っ込まないことにした。
自分でワインを注ぎ、ダンジェロ閣下はまたも飲み干した。私もつられてワインを一口飲む。さっきより味がまろやかでおいしく感じた。
ダンジェロ閣下の部屋を辞したのは、夜もとっぷり更けた頃だった。閣下はルカルディオ陛下の子供時代の話をしてくれて、面白くて長居してしまった。それに閣下と団長はお酒をグビグビ飲むので、つられて飲んだ私はかなり酔っていた。
火照った顔に当たる夜風が気持ち良かった。月明かりを頼りに、庭園をゆっくり歩く。紫水晶宮まで送り届けてくれるという団長が私に歩幅を合わせていた。
「ベラノヴァ団長、今日は遅くまで付き合ってくれてありがとうございました」
「お役に立てて何よりです」
いつもより随分柔らかくベラノヴァ団長は笑った。案外酔ってるのかも。
「でも団長にこんな時間外労働をさせていたら、ますます結婚が遠のきますね。私的な予定があるときはそちらを優先してください」
「大した予定はありません。美しいサーラ様のお近くにいられるだけで私は幸せです」
社交辞令の一種なのかもしれないけど、こっちが困るキザな台詞をベラノヴァ団長は返してくる。
「ふふ、サーラ様の困ってる姿もまた一興……」
「実は酔ってますね。閣下の前ではおさえてたんですね?」
「その通りです」
ふと、私は気配を感じて足を止める。団長が合わせてぴたっと止まった。
「どうしました?」
「誰かいます」
「こんな遅くに?」
ベラノヴァ団長が私の肩を抱き寄せた。多分守ろうとしてくれてるので私は抵抗しなかった。静かに息をひそめ、風の流れに集中する。
「……あっ、幽霊!」
目を凝らしても見えないのに、確かな熱源が庭園の木の陰に立っていた。先日、私室の窓辺に立っていた幽霊と同じ気配だ。私は駆け寄ろうとするが、ベラノヴァ団長が力強く私を止める。
「幽霊なんていませんよ」
「いますよ! そこに!!」
「サーラ様は酔ってますね。さあ帰りましょう」
「本当にいるのに」
だけど私の発言には説得力がない。酔っぱらいが幽霊だあ、なんて走り出したら私だって止める。私は大人しく紫水晶宮へと送ってもらった。




