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哲学

主人公サーラ視点に戻ります

「何かいた気がしたけど……」


 窓を閉めた私は、首を何度も傾げる。暗くて見えなかったけれど、野生の勘が、そこになにものかがいると告げていた。けれど悪いものではないとも告げていた。


「多分、あれが幽霊ってやつなのね。まあいいけど」


 歴史上、数多くの人が死んだ。なかには幽霊になった人だっているだろう。でも幽霊より生きてる人間の方が怖い。呪いをかけてくるのは、生きてる人間だ。だから幽霊は気にしない。


 私はベッドに戻り、置いたあった刺繍枠をはめたままのハンカチを持ち上げた。休憩がてら夜風を浴びたので、もう一文字くらいは刺せそうだ。


「サーシャが刺繍好きなのもわかって来たかも。こういうときにはいいわ。心が静まるっていうか」


 ハンカチには、サーシャが美しい下書きを施してくれていた。ルカルディオ・アレッサンドロ・ディランドラという長い長いお名前が飾り文字でバランス良く配置されているので、あとは私が丁寧に刺せばいいだけだ。


 もうすぐルカルディオ陛下のお誕生日がある。ささやかながらプレゼントするつもりだから、私は一針一針、心を込めて縫っていく。


 何を贈ろうか、本人に欲しいものをさりげなく聞いても「サーラがいてくれるだけでいい」と言われてしまったので、これくらいしか思いつかなかった。だってプレゼントは私よ、とかは私には絶対無理。


 大体、陛下はお金で買えるものは何でも買える。お金で買えないものも大体手に入る。


 でも、名前の刺繍入りハンカチだけは、命じて作らせるものじゃない。愛しい人へと自主的に刺繍してプレゼントすることに意義がある。サーシャ曰く、男の勲章らしい。


「……ルカ」


 ひとりで刺繍をなぞりながら陛下の愛称を呼び、私はごろごろ身もだえた。未だにほとんどルカと呼べない。ルカってかわいい響き過ぎる。


 これを渡したら、もっとルカと呼べるようになれるかもしれない。私は調子良く布地に針を刺した。


 ◆


 翌日、教師が来る前の早い時間に私はアントニオの部屋に行った。アントニオはすっかり立ち直ったらしく、爽やかな表情をしていた。意外と言っちゃ失礼だけど、陛下といいお話が出来たのかな。


「おはようアントニオ、調子はどう?」

「何ですか。手を後ろに隠してるのは言いにくい話があるからですよね?」


 じとっとアントニオは目を細め、鋭い指摘をしてくる。


「すごい、アントニオは優秀ね。その通りよ」

「私に何を言いたいのですか?」

「優秀なアントニオに頼みがあるのよ。あのね、昨日の子、ミロを助けてあげて欲しいの。つまり、ミロをアントニオの侍従にしてあげて」


 アントニオは無言で首を振る。嫌なんだろう。だけど悲しいことにミロがアントニオの侍従になるのは、大人の話し合いでもう決定している。私も汚い大人になったものだ。


「ミロを救ってあげられるのはアントニオしかいないの。アントニオが前に言ってたじゃない。どれだけ苦しくても臣民に尽くすって。まずはミロよ。袖振り合うも多生の縁、殴り合うのもちょっとした縁よね。ミロは多分、爵位を継げないのに長男の為に働かなきゃいけない三男だから鬱憤が溜まってるみたいね」


 私の必死の大演説に、アントニオはくすっと笑う。いい手応えと思っていいのかと、期待に胸が膨らんだ。


「わかってくれたの?」

「いえ、サーラらしいなと思いました」

「うん?」


 何か違う手応えだ。私は反撃を予感した。


「かなり前から知ってました。サーラは一見優しいけど、性格がきつい。激しい。苛烈なくらい厳しい人です。隙あらば私を千尋の谷に突き落とそうとしてきますよね」

「私をそんな風に思ってたの?!」

「はい」


 無邪気な笑みで、アントニオはひどいことを言う。でもアントニオとのふれあいの歴史を振り返るとそうかもしれない。私って、そんなだったんだ……


 ショックで肩を落とす私の肩に、少年のまだ細い手が添えられた。


「まあ、私は大抵の苦しみは耐えられるので気にしないで下さい」

「そ、そんなに苦しませるつもりじゃないのだけど。どうしてもミロと合わないなら、途中でやめてもいいの」

「私も正直、まだわかりません。ムカつく相手ってことだけしか」


 思い出すだけで不快なのか、アントニオは口の端を少し下げた。


「とりあえずお試しで、お願いね。だって貴族家に生まれてるのに皇子のあなたを蹴るなんて、相当悩みがあって爆発しかけてるんでしょ。本当なら不敬罪に問えるけどそこをなんとか」


 私は下手(したて)に出る戦法でアントニオに頼みこむ。問題児は、ある程度落ち着いた頃に他の問題児のお世話をさせると良いと育児書にあった。ミロが侍従なのでお世話するのは逆ではあるが、きっとアントニオの為になると信じたい。


「わかりました。ミロについての詳しい情報を宮殿に上がる前に、私に下さい」

「ええ、手配するわ」


 アントニオは作戦通りにやる気を見せてくれた。うまく行き過ぎてドキドキするが、もうやるしかない。


「ひとつ質問をしても?」

「どうぞ」


 金髪をさらっとかき上げ、アントニオは深い洞察をするように私を見据える。頭はめちゃくちゃいい子なので、並の頭脳しかない私は心拍数が上がった。やってることは所詮付け焼き刃、論破されたらどうしよう。


「サーラは敢えて、困難にぶつからせる。でも、困難から遠ざけるのが父上の考え方です。どちらが本当の優しさなんでしょうか?」


 想像以上にすごく難しい質問だった。哲学や倫理の勉強もさせているせいかもしれない。そう、陛下はそういう人だ。


「時と場合があるけど、どちらも本当の優しさだと思うわ」

「じゃあ、意見が対立するときはどうするんですか?」


 私の玉虫色の回答はあまりに隙だらけですぐつつかれる。アントニオは少年らしい素朴な質問を装っているけど、頭の中では高度な計算をしてるに違いない。


「対立したら、どちらかが折れるしかないのよね……」

「今回はサーラが折れるつもりですか?」


 訳知り顔で質問を重ねるアントニオに、私は大体の事情を察した。本当に意外だけど、陛下がアントニオに何やら相談したんだろう。私と陛下が、今後のことで意見が食い違っていることを。


「私は折れたふりをして、機を見て少しずつわかってもらうつもり。よく言うじゃない。夫婦って苦しみは分かち合い、嬉しいことは倍にするって。政務も少しずつ任せてもらえるようにがんばるわ」


 アントニオに話しているうちに頭が整理されて、すっきりした気持ちになっていた。多分、昨日陛下に言いかけたのはこれだ。


「わかりました。私はいつでもサーラの味方なので、あんまり父上が強情なら手を貸します」

「あはは、ありがとう」


 嬉しいことを言ってくれるので、笑いがこぼれた。一抹の罪悪感はあるが、のんびりやろうと私は気楽に思っていた。

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