おまじない
とりあえず私も湯浴みをして、ルカルディオ陛下が戻ってくるのを待つことにした。何もないと思うけど、人として、清潔にするのは大事なことだ。そう、人として。
超速の大急ぎで体を清めて、その痕跡を消し、私は「百年前からここにいました」みたいな雰囲気にするべく、ベッドに入った。何となく湯浴みをしたと知られたくない。手近な本などを開くが内容は頭に入らず、時間ばかりが過ぎた。
「……遅いなあ」
もしかして、陛下は体を清めたら冷静になってしまって、ご自分の翡翠宮に帰ってしまったのかもと心配した頃。ノックしなくてもいいように、少し開けておいた扉から、滑るように陛下が部屋に入ってくる。
さすが陛下。さっき泊まってくれるって言ったからには、ちゃんと戻ってきてくれた。有言実行を常に体言する人だ。
陛下は湯上がりの血色のいい頬をしていた。金色の髪は乾かしてあるけど、前髪が全部下ろした状態でいつもより少年っぽさがある。
暑いのか、ナイトガウンはゆるまっていて鍛え上げられた胸元がよく見えていた。
昼間にお姫様抱っこされたときにその感触を堪能したけれど、遠目から見ても素晴らしい造形だ。政務で忙しいから3日おきにしか鍛練していないとは思えない仕上がり。なんて舐めるように観察ばかりしてないで何か言うべきだと思った私は、
「どうぞこちらに」
すごく上ずった声を出した。
「ああ」
陛下は静かにベッドに近寄ってくる。ここでまた私は、決定的な間違いに気づいた。逆だったのだ。普通、女性の方が身支度に時間がかかるので、男性がベッドで待っていて後から女性がベッドに入る。初夜とかはそうらしい。
今は初夜じゃないけど、ふんぞり返ってベッドで待ってた私って何やつ――
「ベ、ベッドを温めておきましたので!!どうぞお入り下さい!!」
かばっと掛けふとんをめくって、自分のいた場所を譲る。
「サーラはかわいいな」
控えめに笑って、陛下は私のいた場所に横になる。私は陛下の肩まできっちり掛けふとんで覆い、同じように横になった。
「陛下、これはあれです。武将のために部下が履き物や鎧を温めておくようなものですから。私は陛下の婚約者ですから、ベッドを温めたんです」
こんな下らないことを言っていないと、私がやってしまった非礼とか、陛下が醸し出す色気による緊張感、そういうものでおかしくなりそうだった。
「わかってる。その心遣いに礼を言おう。サーラがよく温めてくれたから、久しぶりに眠れそうだ。最近は寝る時間もなかったし、ベッドに入っても眠れない日々だった」
「……そうだったんですね」
どうして話してくれなかったの、と言いたいのを堪えて私は相づちだけを口にした。もし話してくれてたら、何が出来ただろうと考える。
「陛下に、良く眠れるおまじないをしてもいいですか? 両親が子供の頃にしてくれたんです」
「いいな、頼む。今は別の意味で緊張しているから」
全然緊張してるのを表に出していなかったのに、ルカルディオ陛下は急に恥ずかしそうに笑った。胸がきゅんと鳴ったような気がした。困った人だ。
「目を閉じてください」
「ん?」
私は体を起こして陛下の目元を片手で覆い隠す。私がやろうとしていることを察してか、陛下は固まった。ぴしっと、石のように硬直してしまった。
「おやすみ、ルカ。良い夢を」
滅多に呼ばないルカ呼びをして、私は顔を近づけた。こうやって両親が子供の頃、キスしてくれたのは頬なのだけど――私は直前まで迷いながらも、端整な唇に口づけた。陛下は身動ぎひとつせず固まってるのに、唇は柔らかかった。
目元を覆っていた手を外し、きらめく翡翠の瞳を開いた陛下と目が合う。私は恥ずかしさをごまかすように笑った。
「本当は頬ですけど、いいですよね。だって私たち……」
陛下の瞳から、ぽろっと涙が零れた。玉のような雫は、美しく頬を伝い流れる。
「い、嫌でした?」
「違う、嬉しいんだ……」
「そうですか」
どうやら、私よりも誰よりも清らかな乙女が陛下の心にいるようだった。私は今さっき陛下の瞳から零れ落ちた涙の行った先に目をやる。涙が真珠になって光り輝いてるんじゃないかな。陛下なら、そんなおとぎ話のお姫様みたいなこともあり得る。
やはりルカルディオ陛下は、いや、ルカは守らなくてはならない人だ。皇帝としての彼の心のずっと奥に、繊細で美しい心が隠れている。こんな純真な人が結婚前にふしだらなことをする訳がなく、私は自身を恥じた。
「サーラ、おいで」
上半身を起こしたままの私を陛下は優しく呼んだ。腕を横に伸ばしていて、そこに頭を置けと明確に示していた。腕枕というやつだ。それは確かに、天国への入り口に思えた。
「はい……」
私は陛下にすり寄る形で頭をもたげる。陛下は体格まで素晴らしいので大樹に甘えるような安心感があった。枕を引っ張ってきて、頭の重さが陛下の腕だけにかからないように調整した。
「すごくいいです」
「私もだ」
果てしない充足感に、私は深く呼吸した。陛下は普段から匂いのある石鹸などを好まれないらしく、特に香りがしない。それでも密着すると湿度のある温かさの奥に、私に幸せを感じさせる何かがある。森林浴でもしてるような心地よさだった。陛下は疲れてるのに、私ばっかりこんなに幸福になってしまって申し訳なくなる。
「あの、腕が痛くなりませんか?普通にして下さっても」
「大丈夫だ。……大切なんだ、本当にサーラが」
陛下が小さな声で呟く。強調するために倒置法まで使ってくれてぞくぞくした。
「私もです。体格的にこっちの方が安定ですけどいつでも逆の体勢にしますよ」
「はは、サーラの細腕では私の枕にならない」
笑いながら、陛下は下にしている腕で私の肩を抱いた。自然と密着度が高くなる。その辺の女性よりは鍛えているけど、残念ながら私は筋肉がつきにくい体質だと思う。陛下も残念そうに息を吐き、私の頭頂部をくすぐった。
「どうしました? 私の腕がそんなにあれですか?」
「いや、こんな風にしていられるのは今くらいだ。明日から、私はしばらく忙しくなる」
悲しいお知らせに私は不満の声をあげるところだった。
「そうなんですか?」
「ああ、事後処理で開戦前より忙しくなる。23万の軍勢を動かしたし、カルタローネ領は統治者が不在になったし、色々とな」
つまり、陛下はしばらく時間が取れないから、陛下自身を私に大放出してくれたらしい。そんなのって、ない。
「そんなお話、今はいいですよ。もう何も考えないで眠って下さい」
陛下の胸に顔をすり付けて、私はいっぱい幸福物質を吸った。
「だが、真面目なことを考えないとバカなことを考えてしまいそうなんだ」
「どういうことですか?」
「何でもない……」
珍しく歯切れが悪く陛下はそう言った。おしゃべりをしてると眠れないので、私はもう黙った。陛下の呼吸の音を聞いているうちに、眠気は訪れた。
翌朝、朝陽でキラキラしながら起こしてくれたルカルディオ陛下の姿が最後だった。それから10日間、私は陛下抜きの生活を送らざるを得なかった。




