魔法は解ける
「それは……決めていませんでした」
誰とキスして魔法を解くつもりだったか?
それは弟とする予定でした、なんて絶対言いたくない。ほかに相手がいないから仕方ないとはいえ、ルカルディオ陛下に変態だと思われてしまう。
「今、誰の顔を思い浮かべたんだ? 目が上に動いたぞ。私は11歳から政治の世界にいる。私を騙せると思うな」
めちゃくちゃ怒ってる陛下が迫ってくるので、私は後ろ歩きで距離を取ろうとする。
「でも私は絶対言いませんから!」
叫び、私はまた一歩後ろに下がった。
「そうか、やっぱりお前を愛する誰かがいるんだな?」
「うう……」
ジルのバカ。全然ロマンチックな展開になってない。ジルはいたずらな猫ちゃんなの? どうして魔法の解説書を二人で読んだら、何もかも了承して手に手を取り合ってキスするだなんて考えたの?
「お前にそういう相手がいてもいい。だからこっちを向け」
追い詰められ、私は一生懸命自分の靴を見ていたけれど、そのすぐ前に陛下の靴がやって来ていた。命じられて、恐る恐る陛下の顔を見上げる。怒っているかと思いきや悲しみを湛えているようで、私の心は揺らいだ。
「サーシャ……どうしてお前はそんなに私の心をかき乱すのだ」
私の眼前に、ルカルディオ皇帝陛下の端正な顔が迫る。翡翠のような瞳に、窓から射し込む夕陽のせいか熱が込もっているように見えた。そんな目で見られたら、どうしていいかわからなくなる。
「あ……あの、困ります……私は陛下の近衛騎士……」
「そうだ、私を守らねばならない。なのになぜそんなに離れようとする」
「だって……いたっ」
やっぱり恥ずかしくなって距離を取ろうと後ろ歩きを続けた結果、私は本棚に頭をぶつけた。
「サーシャ、もう逃がさない」
「あ……」
もう後ろに下がれない私の間近に陛下は迫る。そっと頬に触れられ、その手の熱さに、言い様のない気持ちになった。すごくドキドキするけど、これはいけない。
「いけません……陛下」
「どうして?こんなに頬を熱くしているのに、嫌なのか?」
私の頬まで熱くなっていると知らされて、恥ずかしさに一気に全身まで熱くなった。私にも夕陽が当たっているけれど、私は今、どう見えているんだろう。私の目は、どんな感情を伝えているんだろう。
「サーシャ……」
陛下の息が私の耳にかかる。
「ダ、ダメです陛下、許して下さい。ダメなんです!!」
だって、なんでいつまでもサーシャと呼んでるの?陛下は私がサーラだと知ってるんじゃないの?
私は一瞬の隙をつき、陛下の横をすり抜けて走り出した。
図書室を出て、長い廊下の角を曲がる。
「待て! サーシャ!」
後ろから陛下の声が聞こえるけれど私は待たなかった。適当な扉を開けて、とにかく逃げ続ける。どこも施錠されていないようだから、目眩ましにと片っ端から扉を開けてそのうちのひとつ、微かに外の匂いがしたところに入って後ろ手に扉を閉め、施錠する。
「わあ……」
そこは中庭に面した部屋だった。壁の一面は温室かと思うほど大きなガラスが張られている。斜めに赤い陽光が当たっていても中庭のお花は、やっぱり紫色だった。
「鍵など閉めても無駄だ」
「ひゃっ」
陛下が普通に扉を開けて入ってくる。音もなく魔法で鍵を開けたらしい。私はびっくりして、情けない声を漏らした。陛下は少し呼吸を荒げている。
「サーシャ、落ち着いて話をしよう」
「落ち着いてって言われましても」
陛下に近付かれたり、触れられて落ち着けるわけがない。私だって、ルカルディオ陛下は心をかき乱す存在だ。
「頼むから、逃げないでくれ。もう私はお前なしじゃいられないんだ」
「じゃあ私の名前をちゃんと呼んで下さい」
やけくそ気味に私は心の叫びを言い放った。サーシャと呼ばれて迫られるのは嫌だ。
「どうして私の名前を呼んでくれないんですか。ご存知なのでしょう」
陛下は、意を決したように引き結んでいた口を開く。
「サーラ。お前はサーラだろう」
「……っ」
陛下は私の目を見て、大事そうに名前を口にした。お願いしたのは私なのに、感情が膨れ上がって体に収まりきらず、涙が出てきそうになった。私はずっと、私として陛下に名前を呼ばれて、笑いかけて欲しかった。
「すまない。かなり前からサーラだとわかっていた」
「じゃあどうして……」
「今まではジルに止められていたのもあるが、さっきは言いかけて、急に怖くなった」
「何がですか」
皇帝陛下が何を怖いというのか、わからなかった。罪を背負っていて、咎められるべきは私だ。
「その……お前はサーラだろう、なんて私が言ったら脅しているみたいじゃないか? 罪を公にされたくなかったらと脅迫して関係を持とうとしてるようで……咄嗟に言えなくなった……すまない」
陛下は顔を赤らめて、いつもより歯切れ悪く話す。私は彼の優しさに胸が詰まって、息苦しくなった。
「陛下、悪いのは私ですから。今まで騙していてごめんなさい。身分詐称の罪は甘んじて受けるつもりです」
「だから、それはいいんだ。誰も被害を受けていないし、サーラは近衛騎士として十分役目を果たしてくれた。頼むからなかったことにしてくれ」
なぜか陛下の方が弱々しく頼んでくるので、うっかり口元が緩みそうになる。
「おかしいですよ。陛下はどうして、本当の姿だって見せていない私にそんなに優しくしてくれるんですか?」
「姿形はどうでもいい。私は、サーラの心が好きなんだ。考え方も、話す言葉も、全部。サーラがどんな姿をしていても、きっと惹かれていた」
さっきとは違って、陛下は恐々と手を伸ばしてくる。再び、私の頬に大きな手のひらが触れた。癖になりそうな熱さがある。
「本当にサーラを愛してるんだ。それを証明する機会を私にくれないか」
改まって確認されると照れてしまうから聞かないで欲しかった。でも陛下のそういうとこも好きかもしれない。頷いて、私は黙って目を閉じる。
唇に柔らかいものが触れた瞬間に、全身が熱くなった。魔法が解けた感覚なのか、別の感覚かはわからない。キスが何度か角度を変えて繰り返されるので、私は身動ぎした。
「あ、あの……多分、もう解けたかと」
息が苦しくなって陛下の胸を押して、やめてもらう。ルカルディオ陛下は顔を近づけたまま私を凝視した。
「やっとサーラに会えた」
私の前髪をかき上げて、額にも陛下はキスをした。それから、頬にも。今まで顔を見せていなかったからすごく恥ずかしい。
「かわいい。きれいだ。美しい」
「本当に恥ずかしいのでやめて下さい」
「恥ずかしい?」
頷いて、これ以上見られないように陛下の胸に顔を押しつけた。今まで魔法で隠していた分、素顔を見られるのは身ぐるみを剥がされたようで信じられないくらい心もとなく感じる。
「そうだな。私もこんなにかわいいサーラを誰にも見せたくない。このままこの宮殿に閉じ込めていいか?」
「それは困ります!」
「はは、冗談だ」
本当に冗談か疑わしいくらいに口調は平淡だった。見上げると目が笑っていなかった。
「だが、サーラがここに近衛騎士の格好でいるのも変だな。着替えたらどうだ?」
「一度フォレスティ邸に帰らないとドレスがありません」
「もう帰したくない。侍女たちを呼べばいい。この紫水晶宮はサーラにやるから」
「な、何をおっしゃってるんですか」
簡単に言うけど、この宮殿はかなりの広さだ。それに婚約だってまだ正式に交わしていない。
「私の持ち物は全てサーラにやる。私の心も、体もサーラのものだ。だからこれからは私だけを見てくれ」
私の手を取り、そこにも口づけながら陛下は上目遣いで微笑む。私の魔法は解けたけど、陛下は悪い魔法にかかったみたいだった。




