14(完結)
クレアの父の話が終わらないうちに、ルイスは応接室を飛び出し、二階にある寝室に駆けあがった。
そして勢いよく扉を開けて寝室に入ると、驚いて起き上がったクレアに背中を向かせ、緩いネグリジェの襟繰りに手をかける。
何をされるのか察し、クレアは声を上げて暴れた。
「いやっ! やめてください!」
けれどもルイスは、悲痛な叫び声に耳を貸さず、クレアの細い両肩をむき出しにするようにして、背中をさらす。
そこにあったのは、幾筋もの、太く赤黒い痣。
クレアの父が訪れた理由が、これだった。
──ルイス様は、クレアの背中をご覧になられましたでしょうか?
──いえ……。
まだ初夜も迎えていないとは言えずに、ルイスは言葉を濁す。
それを聞いたクレアの父は、先ほどより沈痛な面持ちで話し始めた。
──……このような話をわたしからしていいものかどうか迷いに迷ったのですが、クレアはきっと自分から話せないと思いましたので、こうして伺ったのです。どうか、クレアを見捨てないでやってください。
──ちょっと待ってください! 何のことかわからないですけど、僕がクレアを見捨てるわけないじゃないですか! 望んで手に入れた妻を見捨てるなんて、何で……っ。
──背中に、一生消えないだろう酷い傷跡があるんです。
──え?
──だからクレア奥様は、わたしにも着替えを手伝わせてくれなかったのですね。
突然マリリエンヌの声が聞こえ、ルイスはソファから飛び上がって驚く。
──うわっ! いつのまに!?
──最初からです。
マリリエンヌの隣に立っていたバーナードが淡々と答える。その姿を見て、ルイスは更にびくっとした。
──てっきりおまえたちは下がったものだと。てか、全然気配がなかったじゃないか!
──使用人は主人の邪魔にならぬよう、気配を消してひっそり控えているのが理想的ですから。
──それにしたって程度ってもんがあるだろう!
──ご主人様、今はそんなことよりクレア奥様の話でしょう?
マリリエンヌにたしなめられ、ルイスは我に返ってソファに座り直す。それを見て、三人のやり取りをぽかんと見ていたクレアの父も我に返り、言いにくそうに話を続けた。
──今年14になる後妻の娘が、ルイス様がクレアを選んだことで嫉妬に狂い、クレアの背中を何度も鞭打って酷い怪我を負わせたのです。……それも何度も。わたしの外出中のことで、クレアのドレスの背に血が滲んでいなければ、わたしも気付かなかったでしょう。何度も傷つけられ、ろくな手当もされなかったクレアの背中は、傷の表面は癒えても醜い傷跡を残すことになったのです。
余計な登場人物二名とのやりとりを含んだためいささか冗長な回想になってしまったが、ルイスはクレアの父の言葉を思い出しながら、その傷を指でなぞる。
傷は見た目だけではなく、なめらかであっただろう肌に痛々しい凹凸を作っていた。
クレアは傷跡を見られてしまったことで抵抗を諦め、両手でネグリジェの前を押さえ、背中を丸めて項垂れる。
傷跡をなぞる指がネグリジェにその先を阻まれた時、ルイスはクレアの背中から指を離して、彼女の細く小さな体を背中から抱きしめた。
「ごめん……あの時、結婚の準備の事なんか考えないで、あの場からさらってしまえばよかった──」
事情を何も知らなかったから、結婚のしきたりとか、家族との別れを惜しみたいのではとか余計なことを考えて、クレアを置き去りにしてしまった。
そのためについてしまった傷。
謝ったくらいじゃ償えない。
パーティーの席で衝動的に申し込んだりせず、密かに打診したり、下調べしてから求婚すればよかった。そうすれば、このようなことは防げたかもしれないのに。
後悔の念は、クレアの項に顔を埋めたルイスの目から滲み出て、彼女の肩から背中を伝う。
その時クレアの手が、彼女の胸元に回ったルイスの腕に触れた。小刻みに震え始めたクレアの喉から、か細い嗚咽が聞こえてくる。
「ルイス様……」
嗚咽交じりの呼び声と、ルイスの腕にしがみついてくる手。そしてその腕にかかる温かい涙。
──後妻の娘は、クレアに何度も“そんな傷がある女なんてすぐ捨てられるに決まってる”と吹き込んでいたんです。それでクレアは希望を持つことができず、結婚という晴れやかな席で笑顔一つこぼすことができなかった。ふがいない父とお笑いください。ですが、ルイス様におすがりすることしかわたしにはできないのです。クレアの背中を見ても、どうか捨てることなく妻として側に置いてやってください……!
ルイスが寝室に駆け込む直前の、クレアの父の懇願。
ああ……クレアを凍れる花嫁にしていたのは、そのせいだったのだ。
捨てられると信じ、絶望していたクレアの手が、ようやく希望に向かって伸ばされる。
自らの氷を溶かしすがってくる彼女を離すまいとして、ルイスは一層強く抱きしめた。
しばらくして。
「ルイス様……女性の寝起きを襲う趣味があると、本気で疑われたいのですか?」
冷ややかな声にぎくっとして振り返れば、開け放ったままだった扉の際に立ったバーナードが呆れかえった顔をしてルイスたちを眺めている。その隣では、興味津々に目を輝かせるマリリエンヌと、複雑な表情をしたクレアの父が顔をのぞかせていた。
それから更にしばらくして。
クレアが部屋着に着替えて応接室にやってくると、ソファに座ってじりじりしていたクレアの父は、弾かれたように立ち上がってクレアの側に急いだ。
「お父様……」
クレアは両手を伸ばして、父の両腕に触れる。
「クレア、許してくれとは言わない。……お別れを言いに来たんだ」
「お別れって……どこに行くんですか?」
青ざめるクレアに、クレアの父は悲しげに微笑んだ。
「どこにも行かない。だが、お前とはもう会えない。──ルイス様に迷惑をかけないため、おまえの幸せのために、縁を切ることにしたんだ」
「縁を切るって、どうして……っ!?」
「おまえもわかっているはずだ。後妻と後妻の実家が家名に泥を塗った。貪欲な奴らは、そのうちおまえを利用して、ルイス様──領主様にも迷惑をかけることになるだろう。だからルイス様から今の内に、おまえは実家とは縁を切ったと宣言してもらうんだ。だからといって、奴らがそうそう諦めるとは思えんが、ルイス様がおまえを守る時の手助けには、多少なりともなるだろう」
「でも、そうしたらお父様はどうなるの? 家は?」
泣きそうになるクレアをなだめるように、クレアの父はクレアの顔を覗き込んで穏やかに告げた。
「家を守れなかった責任はわたしにある。だから、おまえが気にすることはないんだよ。それに、家よりもおまえのほうが大事だ。──生きていれば、おまえの母さんもそう言ったに違いないよ」
「お父様……」
父親の努力の甲斐もなく、クレアの目に涙がたまる。
その時、耳が痛くなるほどの大声が応接室の中に響き渡った。
「よく言った!!!」
クレアも父親も、二人を見守っていたルイスも驚いて飛び上がる。何事かと見回すと、いつの間にか開いていた扉から、悠々と闊歩してくる人物が目に止まった。
「お、お、お、親父? いつ帰ってきたんだよ?」
動揺しながら尋ねると、ルイスが親父と呼んだ人物の後ろから、彼の妻(要するにルイスの母親)が顔を出してにっこり笑った。
「クレアさんのお父様がこの館を尋ねられて少ししてからよ」
何故そうタイミング良く(?)帰ってこれるんだ、とツッコミを入れる間もなく、ルイスの父がクレアの父の手を取ってぶんぶん振り回し話を始める。
「よく決断した! そうだよな。家より娘が大事だ。それだけの覚悟があるなら、あとはわたしに任せたまえ!」
この後の父親の話はめんどくさいので端折るが(←ヲい)、ルイスの両親は新婚旅行で遠出していると見せかけて、以前ルイスが都会で使っていたタウンハウスで暮らしていたそうだ。そこで都会を満喫しながら、執事が集めてきた情報を受け取っていたという。
クレアの実家のことは予てからの懸案だったそうで、地元の有力者の苦境は地元の苦境、手を貸したいが頼まれてもいないのに口を出して矜持を傷つけるわけにもいかずと手をこまねいていたそうだ。
ルイスがクレアと結婚したことで事態が動き、何らかの手助けができるようになるのではと思い、この館の離れに身をひそめていたらクレアの父が訪れたとの連絡が入り、“今だ!”とばかりに出てきたとのこと。
「息子の結婚式に出席もしないで、いつから離れにいたんだ!? てか、誰も親父たちが離れにいたことに気付かなかったのか!?」
「執事さんから食事を運ぶよう言われていましたから、薄々は気付いていましたよ? 一応バーナードさんには報告しました」
「マリリエンヌさんから報告を受けて把握はしていましたが、主人に聞かれもしないのに主人のご両親が隠したがっていることを告げ口していいものか迷いまして」
「バーナード、おまえは誰の味方なんだ!?」
「戻ってきたのは結婚式の前日だ。だが、あの段階で出ていくのは得策ではないと思い、離れでこっそりお祝いしていたのだよ。ルイス、おまえはまだまだ甘いね。これから二週間、クレアさんの実家の問題を片付けながら領主の仕事をみっちり教えよう。奴らが金にどうにも困るようになったら、二束三文で家名を買い取ればいいだろう。そうしたらルイス、おまえとクレアの間に産まれた子の一人に家を継がせてやればいい」
馬鹿だ馬鹿だと思っていた父親も、さすがは広大な領地を長年治めてきただけのことはある。──と負け惜しみを心の中で呟きながら、ルイスは父親から領主の仕事をみっちり教わり、きっかり二週間後、両親は今度こそ本当に二度目のハネムーンに出掛けてしまう。
ルイスの父は、クレアと彼女の父に今後関わらないことを条件にクレアの実家の当主の名を金貸しの名に書き換えることを許可した。それからクレアの父を、ほとぼりが冷めるまでルイスの父が外国で展開している事業所で預かることにする。
後妻の娘については、何故クレアの父が“後妻の娘”と呼び続けていたのか、話し合いの最中にわかった。
クレアの父の実の娘ではないのだそうだ。後妻は身重で嫁いできて、クレアの父の子として娘を産んだ。そのことを知る後妻の娘は、表向き父親を慕う可愛い娘を演じていたが、他人のいないところでは母親と一緒になって父親を蔑んでいたのだという。家名が欲しかっただけの後妻は、夫となった人を軽蔑し、“指一本触れてくれるな”と宣言したのだという。クレアの父にその気は全くなかったことも知らずに。
有力者の家名を実質手に入れた金貸しは、一度は喜ぶものの、あらかじめ内密に回されていた回状のせいで取引が次第に上手くいかなくなり、やがて金にあかせて他人を脅す真似ができないほどに蓄財を減らすことになる。
金貸しが家名を手に入れた後、離縁して娘と一緒に実家に戻った後妻は、没落していく実家と運命を共にした。
それから三十年後。
「僕たちが結婚した時は、ハネムーンには行けなかったからね。息子に領主の地位を譲ったからには、僕たちはもう自由だ。クレア、君の好きなところへどこへだって連れて行ってあげるよ」
「嬉しい、あなた。わたしはあなたの行くところへなら、どこまででもついていきます」
「嬉しいことを言ってくれるね。では結婚三十一年目にして初めてのハネムーンに行こうじゃないか! そういうわけで息子よ。後のことは任せた! あ、バーナードとマリリエンヌも連れて行くから。二人もハネムーンにも行けず、我が家のためにずっと働いてくれていたからな。そろそろ褒美があってもいい頃だろう。……それにしても、バーナードの熟女好きがここまでとは……」
「しっかり領地を治めるのですよ」
クレアが涙を浮かべながら笑顔で息子に告げると、馬車は走り出し、次第に速度を上げていく。
早朝叩き起こされてまだ目が覚めきっていなかった息子は、馬車が遠ざかっていくのを見て我に返ったのか、寝巻の上にガウンという着の身着のままで、追いつけるわけがないのに追いかけてきて叫んだ。
「何が“そういうわけ”だ! 戻ってきてちゃんと説明しろ、バカップルーーー!」
血は争えない、歴史は繰り返すということで。
おしまい
投票に付き合ってくださった皆様、お読みくださった皆様、ありがとうございました!




