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13、

 まるで、氷が溶けるように……。


「どう? 美味しい?」


 ルイスが遠慮がちに尋ねてみると、クリームをつけたクッキーをかじっていたクレアはこくんとうなずく。

 その顔は、まだ涙にぬれていた。拭いて乾いたと思っても、何かが心に触れるらしくすぐにまた涙をこぼす。


「あ、明日にはクリームたっぷりのケーキを用意させるから。楽しみにしておいで」


 自分の失態がいたたまれなくて取り繕うように言葉を重ねると、それがクレアの涙を更に誘うことになる。


 クレアを泣かせてしまうことに気は動転するものの、その涙は溶けた氷から流れ出る清水のようで、ルイスは密かに安堵と期待を寄せる。


 これでクレアが心を開いてくれるようになればいいけれど……。


 焦っても結果は出ない。無理に問えばまた心を閉ざしてしまうかもしれない。

ルイスは涙の理由を聞きたいのを堪えて、クレアがクッキーを食べ、紅茶を飲むのを辛抱強く見守る。


 たくさん泣いて疲れたのだろう。紅茶を飲みながら、クレアは少し舟をこぎ出した。


「休むといいよ。今度は夜着に着替えて、夕飯までぐっすり眠るといい」


 着替えの手伝いを誰かに頼もうとしたけれど、マリリエンヌに視線で止められた。その件はあとで事情を聞くことにして、ルイスはクレアの涙を拭いてやり、衣裳部屋まで連れていく。



 衣裳部屋の扉が閉まり、マリリエンヌにクレアの世話を頼みに行こうとしたところで、バーナードが戻ってきた。

 ルイスがクレアとお茶の時間の仕切り直しをしている途中で来客があり、バーナードは対応に出ていたのだ。


「客はどうした? もう帰ったのか?」


「いえ、一階の応接室でお待ちいただいていますが……」


 何とも言い難い表情をして、バーナードは口を濁す。主人に都合の悪いことでもはっきり口にするバーナードにしては珍しい。


「困った客なのか?」


 眉をひそめて問うと、バーナードは更に困惑した表情で答える。


「クレア奥様のお父上がおみえです」


 その返答には、ルイスもさすがに目をむいた。


「本当か?」


 先ほど“クレアの父親に会って話を聞くべきだ”と話していたばかりで、何というタイムリーな。

 驚くルイスに、バーナードは神妙にうなずく。


「本当です。ルイス様の日頃の行いのおかげでしょうか?」


「……おまえがそう言うと、何か悪い意味に聞こえるな」


 ぶつくさ言いながら一階に下り、応接室に入る。

 白髪まじりで猫背ぎみの中年の男性は、ルイスより10は年上だ。しかし領主と領民という立場上、ソファに座っていたその男性は立ち上がり、ルイスに深く頭を下げる。

 ルイスはその男性の前のソファに座り、座るよう手振りで示した。


「クレアに会いに来たのだろうが、その前に聞きたいことがあります」


 厳しい口調で告げると、男性──ソファに座り直したクレアの父は更に身を縮込ませた。


「……は、話とは、一体何でしょう?」


 目の前でおどおどしているこの男が、後妻を愛するあまり先妻の娘をないがしろにした人物とは思えない。

 一カ月前のガーデンパーティーで会った時も、人が良すぎて腰が低く見えるくらいだった。だから、娘に不意に舞い込んだ結婚話に驚きながらも喜んだ彼の反応を、そのまま信じてしまったのだ。


 ルイスはクレアの父を観察しながら、おもむろに口を開いた。


「後妻と、後妻との間に生まれた娘を溺愛するあまり、クレアをないがしろにし続けたそうですね」


 すると、クレアの父はほっとしたように表情を緩めた。


「ああ、そちらの話なのですね」


 その態度に腹が立って、ルイスは目の前のテーブルにこぶしを強く叩きつけて怒鳴る。


「母親を亡くし、父親にも愛してもらえなくなったクレアが、どれだけ辛い思いをしたかわからないんですか!? そのせいで、彼女が今どれだけ苦しんでいるか……っ!」


 感情が高ぶり過ぎて、言葉に詰まってしまう。

 ルイスの怒声を浴びて、クレアの父は沈痛な面持ちで俯いた。


「わかっています。ですが、そうするしかなかったのです」


 “そうするしかなかった”なんて言い訳にはならない。

 そう思いつつもまずは話を聞こうじゃないかと促したルイスは、話を聞くにつれ、その思いを撤回するしかなくなっていった。


「わたしが婿入りした時、妻の実家はこの地方の有力者とは名ばかりで、内情は火の車でした。わたしも家を支えるために努力しましたが、潰れかけた事業はすでに手の施しようがなく、けれども有力者の面子にかけて無駄な投資を続けてでも事業を続けていかなければならないありさまだったのです。──性質の悪い金貸しから金を借りていたと知ったのは、先代が亡くなった時でした。その頃にはすでに妻は病に冒され、とてもじゃありませんがそのことを話せる状態ではありませんでした。でも、薄々感づいていたのかもしれません。実家を自分が生んだ娘の婿に継がせることを遺言に残し、妻は亡くなりました。以前からそのチャンスを待っていたのでしょう。金貸しは自分の娘と結婚するよう迫ってきました。その娘と結婚すれば、今までの借金はチャラにするし、事業の立て直しにも力を貸すと言って。もちろん、わたしは悩みました。金貸しの娘と結婚すれば、義理父や妻が守ろうとしてきた家を汚すことになるだろう。けれどわたしには、事業を立て直し家名を守る力はない。もし断ればそれまでの借金返済を迫られ、土地や館を売るだけでは返済に足らず、クレアはどこかに売り飛ばされてしまうかもしれない。──それだけは何としてでも阻止しなければならないと思いました。それで金貸しの条件を受け入れることにしたのです」


 名誉を取るか、クレアを守るか。究極の二択。

 いや、クレアの父には、彼女を守ることしか選択肢になかったのだ。


「高利貸しの娘を妻に娶ると、高利貸しは案の定家名を使ってあくどい商売を始めました。事業のほうも悪事の隠れ蓑として使われ、表向き立て直しはかないました。ですが、後妻となった高利貸しの娘にとって、クレアは目障りな存在だったのです。後妻は、自分がちやほやされなければ我慢ならない性分でした。わたしがクレアを可愛がれば可愛がるほど後妻はクレアにつらく当たり、そしてとうとうクレアに手を上げたと知った時、わたしはクレアに関心を持たない振りをすることでクレアを守る決意をしました。──寂しい思いをさせてしまったのはわかっています。後妻の監視の目があったためクレアに説明さえできず、謝って許してほしいなどととてもじゃないが言えません。──父親のわたしができることは、クレアが年頃になった頃、良い相手を見つけてやって嫁がせ、実家と縁を切らせてやることだけでした。ですからルイス様がクレアを花嫁に望んでくださったのは、わたしとクレアにとって天の恵みだったのです」


 そんな風に言われても、ルイスは何と言っていいかわからなかった。

 領主という地位と、有り余るほどに蓄えられた財産を受け継いだルイスなら、クレアの身柄を高利貸しの手から守ることは可能だ。

 だが、クレアの心までは守ってやることはできない。

 心が溶け始めたクレアを密かに喜ぶことはできても、泣き続けるクレアを慰めることさえできなかったのだ。


 何と言っていいかわからず、ルイスはぽつぽつと事実を並べた。


「今、クレアは泣き疲れて眠っています。先ほど、泣き通しだったんです。僕が彼女の好物だと勘違いしてパンとクリームとジャムを用意させたことで傷つけてしまったせいですが、それ以前からクレアは僕と打ち解けようとはせず、まるで諦めたかのように虚ろな表情をしていました」


 話しているうちに思い出す。何に一番引っかかっていたかを。


「一カ月前、ガーデンパーティーから外れた隠れ家のような庭で出会った時、クレアは恥じらい緊張しながらも、僕と話しているうちに笑顔も見せてくれたんです。なのに先日再会した時、クレアはまるで凍りついてしまったかのようは表情のない顔をして、僕の前に現れました。──一カ月の間に、一体何があったんですか? どうしてクレアから笑みが消えてしまったんですか?」


 詰め寄るように前のめりになって尋ねれば、クレアの父は一瞬ためらうように顎を引き、それから観念したように下を向いた。


「……実は、そのことを話しに来たのです」



次話が最終回です。最後までお楽しみいただけると嬉しいです。

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