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中編

――それは重い雲が空を覆う、雨の降る日だった。


バシャバシャと跳ねる水が鬱陶しかったけど、そんな事気にする余裕なんて全く無くて、全身濡れることも厭わずに薄暗い路地裏を駆けていた。

辺りは全て灰色に染まっていて、時刻の判別もつかない。


後ろから聞こえる罵声は、遠くなったり、近くなったり。

それも、雨音に混じってのものだった。



雨の日は、嫌いだ。



市場は閑散としていて、人通りが少ない。

人があまり来ないと分かって、休業する店も多い。


人通りが少ないと、バレないように財布を盗める確率は低いし、休業する店が多いと食べ物を盗れる店が限られてくる。

雨の日にやってる店は何故か総じて大きい店で、必ず用心棒を雇っている。


きっと、俺みたいに物を盗む孤児が他にもいるんだと思う。


「おい!見つけたぞ!」

「――――っ、うぐっ?!」


燃えるような喉と対照的に、足が冷えて感覚が無くなってきた頃、間近で聞こえた怒声に顔を上げようとした。


しかし左頬に衝撃を感じて、俺の小さな身体は宙を舞った。

吹き飛ばされて、近くの壁に右腕を打ち付ける。

思わず手の中にあった林檎を、落としてしまった。


左頬が熱い、殴られたんだろうな。


俺は何処か冷静に、他人事のように、自分の置かれた状況を見ていた。


「やっと、捕まえた。手間掛けさせやがって」


灰色に汚れた石畳に放り出された林檎が、雨に打たれていた。

灰色に染まった世界で林檎だけが、俺の目には赤く色鮮やかに色付いていた。


それがまるで、あの、俺と同じで名の無いの綺麗な赤い髪のようで。


「聞いてんのかてめぇ!!」


一瞬の浮遊感の後に、堅い石畳の上に叩き付けられた。

身体がギシッと音をたてて、軋む。

息が詰まった。


待っているんだ。あの娘が。

俺の帰りを。


鮮やかな短い赤い髪を揺らし、琥珀色のアーモンドアイを少し細めて、照れたように。彼女は可憐な笑みを浮かべて、いつも俺に「おかえり」と言ってくれる。


凛とした、その声を聞くまで。

彼女に食べ物を届けるまで。

俺は何としてでも、彼女の元に帰らないと。


人を守る為の法律は、王都の隣に寄り添うようにして発達しているスラム街では、紙切れ同然。

むしろ、ゴミよりも価値の無いものだ。


俺も、彼女も、あそこで生まれ育った。いや、もしかしたらあそこで捨てられたのかもしれない。

どちらにしても、親は居なかった。


一歩先の未来に、俺は世界に存在していないんじゃないかっていう不安に怯え、楽になれるのならば、このまま消えてしまいたいという相反する気持ちを抱えて過ごしていた日々に、一筋の光が差したのだ。




彼女と出会った日も今日と同じ、曇天だった。

閉店してからだいぶ時が過ぎた、寂れた店先で雨宿りをしていた俺の隣に彼女がいた。


初めは人3人分離れた所、時間が経つにしたがって冷えていく俺の身体を温めるように、彼女自身の身体を温めるように、俺達は距離を縮めた。

そして俺とすぐ隣に彼女が来た時、俺の中に暗い喜びが沸き上がった。


初めて、誰かに必要とされた。

初めて、誰かを必要とした。


彼女の顔立ちは整っていたから、人拐いに捕まって売られないように俺が拠点にしている廃墟の奥深くに隠し、俺が彼女の分まで食べ物を探した。


正直、大変だった。2倍に増えた食糧を調達するのは。

でも、それより喜びが勝った。


同時に彼女を失った時、俺はもう立ち直れないだろうなと予感めいたものを感じていた。




「おい、こいつ反応しねぇぞ。つまんねぇな」


男の声が頭上から降ってくる。いつの間にか視界に映った足の数は、10を越えていた。


反応したら、むしろ殺すまでお前達はやるだろ?

反応した方が楽しいんだろ?


この世界で生きてきた俺は、そういった自己防衛の術を学んでいた。

泥水にまみれても、生きて彼女の元へ帰らないと。


だって、彼女が俺を必要としている。


視界に入る林檎はとても鮮明に焼き付いて、ああ、そういえば最近雨が続いて、何日も食べていなかったな等と、どうでも良い事を思い出していた。



雨の日は、嫌いだ。でも、感謝している。



「ねぇ、その子。わたくしに下さらない?」


路地裏に似つかわしくない、品のある言葉遣い。

突如として現れた声の主を、俺は地に這いつくばったまま半ば夢うつつの状態で見上げた。


漆黒のドレスを身に纏い、キラキラと輝く金髪を縦に巻いた、一目見て貴族と分かる少女が毅然として立っていた。

年は俺と同じ位、いやもう少し年上か。雨に濡れてびしょびしょだったが、ややつり目の赤よりも暗い、紅色の瞳は強い意思の光が灯っていた。


「ロゼッタ!もう、急に馬車を降りるから、吃驚したよ」


少女と同じ年位の少年が少女に駆け寄って、着ていた漆黒の上着を脱ぐ。

そして、少女の剥き出しになっている肩に掛けた。


灰色の街に映えるような金髪。一瞬合った瞳は、青空みたいな碧眼だった。

ロゼッタと呼ばれた少女と対になるのがしっくりくる、そんな少年。


人外のように整った顔立ちの二人を見て、神様をほんの、ほんの少しだけ信じてしまった。


少年は芸術みたいに整いすぎた微笑みを浮かべて、男達に告げた。


「取り引きをしようか」


俺が触ったこともない札を束にして、騎士の鎧を着た屈強そうな男が俺を虐げた男達へと渡す。


この二人は、誰?


そんな疑問が脳裏を掠めたが、俺は夢のようにぼんやりと転がった林檎を見つめていた。

手を伸ばせば、届きそうな位置にある。

でも、手は動かなかった。


「貴方が落としたの?」


少女の小さな手が林檎を拾う。

手の中にある林檎を弄ぶ少女の姿は、まるで魔女みたいだった。


「貴方を拾ったのは気まぐれよ。勘違いしないで頂戴ね。わたくしは優しくないわ」


返事のしない俺に、幼子に語り掛けるように穏やかな口調で少女は続ける。


「わたくし、使えない者は要らないの。だから覚悟しなさい」


林檎の輪郭をなぞる少女の指は、とても優しかった。

少女――ロゼッタお嬢様が言葉とは裏腹に、優しいお方だと知ったのはマーヴィン様に仕えてからだった。






「何を見ているの?」


マーヴィン様の声に、窓の外で激しく降り続ける雨をぼんやり眺めていた俺は、ハッと我に返った。


いけない、仕事中にぼんやりとしていた。


「雨が降っているな、と思いまして。申し訳ありません」


慌てて頭を下げると、ゆっくり紅茶を楽しんでいたマーヴィン様は「謝らなくて良いよ」と微笑んだ。


ここ1週間のマーヴィン様は、ご機嫌だ。


元々フォグルス公爵家に連なる分家の末端の庶子として生まれたマーヴィン様は、魔力の多さと賢さで本家の養子に入ったお方だった。


分家の末端筋であるマーヴィン様が、このまま公爵家を継ぐのは他の分家が黙っていないだろうと、先日立太子した第一王子も口添えしたお陰で、マーヴィン様が婿入りする形にしてロゼッタお嬢様と婚約を結んだのである。


婚約破棄騒動から、約9ヶ月。

学院の第2学年冬季休業時の出来事だ。


フォグルス公爵当主が首を縦に振ったのは、第一王子の口添えによる所が大きいだろう。本当、これもマーヴィン様の計画の内な気がしてならない。


頭の中の大半が、ロゼッタお嬢様の事で占められているのに。

いやむしろ、ロゼッタお嬢様効果が半端ねえ。


「お前達と初めて会ったのも、こんな日だったね」


ソファに腰掛けてロゼッタお嬢様の腰を抱きながら、マーヴィン様は懐かしそうに笑った。

俺はちらりと部屋の隅で待機している、メイド服を着た赤髪の娘を見る。


「本当に感謝しております」

「これはお前達の努力のお陰だよ。僕も使えない者は要らない。お前達は優秀だった。それだけの事だよ。――ああ、でも、お前の瞳が良かったのかもしれないな」

「瞳……ですか?」

「そうだよ」


俺の瞳は特別珍しくもない、藍色なんだけどな。


問うような視線をマーヴィン様に向けたが、理由を教えてはくれなかった。


「ロゼッタは見る目があるね。僕以外の奴なんて見てほしくないけど」


話の流れを変えるように、ロゼッタお嬢様に向かって囁くマーヴィン様の声音は、砂糖を吐きそうな位に甘い。


さっきまでは、他人が聞いたら誉めているのかどうか分からないような言い回しで、俺達が優秀だと誉めたのに。何て変わりようだ。


まあ、マーヴィン様の世界はロゼッタお嬢様中心で回っているから仕方がないか。


「わたくしもマーヴィンがわたくし以外の者を見るのは嫌だわ。でも、マーヴィンの一番はわたくしでしょう?マーヴィンはわたくしが居なければ、生きていけないでしょう?」

「当たり前じゃないか。ロゼッタが死んだら、僕も死ぬ。ロゼッタが何処か遠くへ行ってしまったら、僕は地の果てへでも追い掛ける。まあ、そうなる前にロゼッタを鎖で繋いで、監禁するけどね。その時は、僕も一緒に檻の中に入るよ」

「まあ、嬉しいわ」


頬を薄紅色に染め、恋する乙女のように幸せそうにロゼッタお嬢様は微笑む。


ヤンデレ怖い。

かなり恐ろしい事を言われているのに、気付いているのだろうか。


ロゼッタお嬢様を眩しそうに目を細めて見つめたマーヴィン様は、自身の婚約者の髪を一房掬って、キスを落とした。



情婦の母親から要らない子と言われ、暴力を受けてきた少年と、壁のある使用人達と冷酷な両親に囲まれて育った少女。

お互いが、お互いを必要としたのは、自然の流れだったのかもしれない。


いつの日だったか、マーヴィン様とロゼッタお嬢様は俺に言った。


お互いに、依存し合って生きているのだと。

自分という存在は、片方無くしては成り立たないのだと。


それを聞いた時、失礼だが、俺達と同じだと思った。


自分を産んだ母親からの執拗な暴力を受けた少年、恵まれた裕福な環境に居たお嬢様、スラム街で一人生き抜いてきた俺とあの娘。

全員に足りなかったのは、きっと“愛”だったんだろう。



マーヴィン様がロゼッタお嬢様と深いキスをしながら、手を挙げて使用人を退出するように命じる。


窓の外で降り続く雨は、未だに止む気配を見せない。

暖炉の火が爆ぜる音に混じった雨音を聞きながら、俺は後ろ手でマーヴィン様とロゼッタお嬢様の部屋の扉を閉めた。



雨の降る日は、嫌いだ。でも、感謝している。

あの娘と仕える主と引き合わせてくれたから。

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