元王子アーロンと泉の精霊(2)
ふたたび目を覚ましたときも、まだ少女はいた。
ものすごく長い時間が経ったような気がするのに、空は明ける気配がない。
少女の透けた身体を通して、青い月と、金平糖のような星々が見えた。
アーロンはそのとき現実逃避をして、そういえば、このような星空を見るのははじめてだと思った。
少女がこちらを向いて何度も手を振ったり、顔を左右に動かしたりしていたが、彼は気づかないふりをした。
しかし、彼女が白目をむき、舌を出しておどけた表情をしたときには、思わず吹き出してしまった。
『よかった……!やっぱりあたしのことが視えるのね?』
少女の声が頭に響いた。
アーロンは身を固くする。
『あ、待って。逃げないで。
あたしは……そうね、泉の精霊だとでも思ってくれればいいわ』
「精霊だと? 貴様のような貧相な者がそのような存在だとは思えぬ」
アーロンは、怯えていたのを忘れ、居丈高に告げた。
少女は気にした様子もなく『あたしのことはアディって呼んでね』とにこにこして言う。
「貴様と馴れ合うつもりなどないわ!」
アーロンはふいと横を向く。
アディと名乗った少女は、やはり気にしたふうでもなく、彼のまわりをふよふよと飛び回った。
『誰かと話すなんて久しぶり! ねえ、あなたはどこから来たの? このあたりでは見ない服装ね。王都の人? 茶色の髪にめがねの、とっても優しい人を見なかった?』
まくしたてるようにいう少女に、アーロンは不快そうに眉根を寄せる。
「かしましい女は嫌いだ!」
『ねえ、あたし、人を探してるのよ』
「僕の知ったことではない。僕は王子……」
そこまで言って、アーロンは口ごもった。
自分は、王子ではなかった。
『茶色の髪にめがねの、とっても優しい人を知らない?』
アーロンははっと顔を上げた。
まるで壊れた装置のように、彼女はくり返したのだ。その声音は単調で先程までとは違う。
彼女はうつろな目をしており、血の涙を流していてーー。
アーロンは、今日何度目かになる失神をした。
目を覚ますと、エメラルドグリーンの空が広がっていた。
朝日がちょうど登ってくるところだった。
泉の水は、登ってきたばかりの光を取り込んだようにきらきらと輝いている。
透明なのに底の見えない泉には、青い魚が何匹か泳いでいた。
アーロンには行くあてなどない。
結局、山小屋に戻らざるを得なかった。
恐ろしい女を見て、人のそばに居たかったのもある。そして、ふたたびシェハーブの鉄拳を受けた。
「貴様は怠けぐせばかりついておるな。そのたるんだ身体はなんだ!
大方、祖国では肩書にあぐらをかいて、贅沢ばかりしていたのだろう」
シェハーブは、アーロンにバスケットを押し付けた。
「夕食の材料を採ってこい。リンデンピルツというきのこが森に生えている。
白い、星型のかさをしたきのこだ。今宵はきのこのスープを作ることになっている」
意外なことに、この屈強な見た目の間諜は、料理がとても得意だった。
山小屋の主の、亡くなった娘がつけていたという、桃色のエプロンを身につけ、手際よく料理を進めていく様は、さながら戦場のようであった。
それでいて、彼の出すものは繊細な味つけと盛りつけがなされており、貴族の食事のよう。
食べるのが好きなアーロンは、この山小屋生活で、食事の時間だけを唯一楽しみに生きていた。
山小屋を追い出されたアーロンは、とぼとぼと森の中へ向かった。
昨日の恐ろしい体験を思い出し、ぶるりと震える。
今日はあの場所に近づかぬようにしようと誓った。
ーーところが。ふと気がつくとアーロンは、またあの泉のほとりに立っていたのだ。
そして目の前には、ひらひらと手を振る女幽霊。
『ごめんなさい! あんなに驚くとは思わなくて』
少女は、勢いよく、直角に頭を下げた。
生身ではないはずなのに、波打つ金色の髪がふわりと香ったような気がして、アーロンは目を瞬かせる。
『もし自分が幽霊になったらやってみたいことだったのよね。人を脅かすの。
あんなにうまくいくとは思わなかったけれど……でも、やられたら怖いわよね?』
「ーーな、き、貴様、僕をからかったのか!」
アーロンは真っ赤になって怒った。
『ごめんなさい。人と話すのが本当に久しぶりで、ーーいろんなことを考えてしまって……』
少女の幽霊がうつむく。
それはまるで泣いているようで、ーーアーロンは何も言えなくなった。
それからも、森に入るたびに、導かれるようにこの泉にやってきていた。
「貴様がやっているのか?」
『え?』
「とぼけてもむだだ! 僕をここに迷い込ませていることだ」
アディーは首をふるふると振る。
『あたしにそんな力はないわ』
その目は嘘を言っているようには見えなかった。
そしてアーロンはふと自嘲する。いつのまにか、幽霊女にすっかり慣れてしまっている。
ーーあまつさえ、こうして誰かと他愛もない話をするのを楽しみにしているなど、あってはならないことだった。
けれども、アディーはアーロンを他の者とは違った目で見ていた。
そこには蔑みも嘲りもない。彼は本当はわかっていた。
皆に疎まれていることも、見下されていることも。それを認めたくなかっただけで。
ぽつりぽつりと話をするようになり、ーーいつのまにか、半年が過ぎていた。
真面目にとは言い難いが、アーロンは以前よりは少しだけ働き者になっていた。
あまりにも目に余るようだったら、国境の向こうへ放り出す。
シェハーブにそう宣言されたことも一因であった。




