元王子アーロンと泉の精霊(1)
森の奥には泉がある。
そこには人間ではないとひと目でわかる、透きとおった身体を持つ女性がいた。
ゆるく波打つ金色の髪に、グラソンベリーの果実のように赤い目。
猫のようにきゅっと吊り上がった瞳なのに、どこかたおやかで柔らかい雰囲気のその人に、アーロンは恋をした。
アーロンは自信家だった。
サーブルザント王国の第六王子という肩書は、物心ついたときから周りに傅かれ、甘やかされる生活を彼に与えた。
取り巻きたちは、アーロンに言った。
王侯貴族でないものなど無価値であると。
彼らは自分たち尊き者の踏み台であり、玩具であり、いくらでも替えのきくものなのだ、と。
生来、素直な性格であった彼は、それを真に受けて、ひどく傲慢に育った。
小太りの身体を揺らして、取り巻きといっしょになって身分が下の者を罵倒した。
けれども、取り巻きのような苛烈な行動はできず、青い顔をしてその場を立ち去る彼は、とにかく半端者であった。
善人でもなく、完全な悪人にもなりきれぬ、王国の者たちからすれば出来損ないであった。
そして彼は、周りの者たちが彼を見る目が、嫌らしい三日月型であることなど微塵も気がついていなかった。
時折彼らが符号のように口にする「卑しい黒まんじゅう」というのが自分を指すあだ名だということも、微塵も知らなかったのだ。
日々献上される甘い菓子の数々。
平民は無価値だという刷り込み。
それを真に受けて日に日に醜く成長し、傲慢になっていく平民を馬鹿にすること。
取り巻きたちにとって他愛のない遊戯であったにすぎない。
一定以上の身分を持つものは、第六王子アーロンが、本当は異国の平民の子どもであると知っていたのだ。
環境は大きく変わった。
アーロンは、自らの出生の秘密を知り、打ちひしがれた。
祖国に帰れなくなったアーロンは、祖国の間諜であったシェハーブとともに、王都から離れた山の中へと送られることとなった。
そこは店の一つもない陰気な森の中の、犬小屋のように粗末な家。
獣や蛇、気持ちの悪い虫などがはびこる、最悪の環境だった。
ともにやってきたシェハーブは、屈強な身体を生かしてよく働いた。
だが、アーロンは「なぜ自分がこのようなことを」とばかり考えていた。
自らが馬鹿にしていた平民だと気づいてもなお、ずっと刷り込まれ続けてきた考えは消えなかった。
「アーロン、貴様また怠けおって」
容赦なくシェハーブの鉄拳が飛んでくる。
この男は野蛮だ。かつて殴り飛ばされたことを思い出し、彼は恐怖した。
そして、虫のようにかさかさと、壁に後ろ手をついて逃げ出し、森の奥へと駆けていった。
すべてが嫌だった。
自分が平民だったことも、もうあのような豪華な暮らしもできないことも。
こんな山奥でなんの楽しみもなく、ひたすら肉体労働に勤しまなければいけないことも。
けれども、いくら嘆いてもどうしようもないことであった。
アーロンは、王子の婚約者であり、この国の貴族をかどわかした犯罪者である。
そもそも命があることが温情なのだった。
どれくらい歩いただろう。
アーロンは、これまで見たこともないほど奥深くまで、森に入り込んでしまっていた。
すっかり日が沈み、森はあまりにも静かで恐ろしい。
心臓が嫌な感じにばくばくと鳴った。
木々の幹を抱きしめ、目をつむってその先の幹を手探りで探し、ーーそうして進んだとき、ふと森が開けた。
そこには小さな泉があった。
夜だというのに、不思議とその泉の透明度が高いことがわかる。
泉はまるで内側から発光しているように美しい。
そのとき彼は、異様な喉の渇きに気がついた。
そして、ふらふらと引き寄せられるように泉のそばへ行き、しゃがみこんで、泉の水をすくって飲んだ。
水とは思えぬ、甘くて濃厚な味がした。
ひとすくい、またひとすくいと、夢中になって水を飲み干し、ようやく人心地ついた。
アーロンはふう、と大きな息を吐き出しながら、後ろに倒れた。
やわらかな草に身体が埋まり、香りのいい茶のような不思議なにおいがする。
疲れ切っていたアーロンは、そのまま眠ってしまった。
どれくらい経っただろう。
寒さで彼は目を覚まし、自分の身体を抱きしめるようにした。
それからひっと息を飲んだ。
誰かが自分の顔を覗き込んでいたのだ。
それは、金色の髪に、赤い目をした少女だった。
少女から女性になる間の年ごろといった感じで、きゅっと吊り上がった目尻がまるで猫のよう。
けれども、その顔から感じるのは苛烈さではなく、小動物のような気弱さといたいけさであった。
その人は、アーロンが目を覚ましたのに気がつくとほほ笑んだ。
つられて彼も笑ったが、次の瞬間、少女の身体が透けていることに気がつく。
そして、意識を失った。
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