3.紅茶の味は
クレメントにお茶会に誘われるようになったのは、目覚めた五日ほど後からのことだった。
フルールはようやく一人で外に出られるようになった。
体力を戻すためにも、庭園の散策をしたり、王城の廊下を歩き回ったりしている。ーーいや、それは方便であった。
本当は、黒髪の王子を探していた。
あるとき、廊下の向こうにジルベルトがいるのを見つけた。
フルールは駆け寄ろうとしたのだが、ノエミに止められてしまった。
ノエミと話しているわずかな間に、ジルベルトの姿は消えていた。
そのとき、フルールは、落胆するとともに、いささか安堵もしていた。
目が合った瞬間、ジルベルトの顔が歪んだ気がしたのだ。彼は二年経った今でも、自分のことを嫌っているのかもしれない。--そう思うと悲しかった。
クレメントと過ごすお茶の時間は楽しかった。
ちょうどこの国が一番美しい季節。王妃の庭で過ごさせてもらえるだけでも幸せなことだった。
温室ではなく、本物の空の下で見る花たちは、不思議と生き生きとして見え、心なしか色鮮やかに見える。
クレメントは、二年の月日を経て、大人の男性に変わっていた。
もともとあった精悍さに加えて、その美貌にははっとするような鋭さが加わっていた。
執務で色々な経験をしたのかもしれない。
それでいて、そのような美貌の持ち主が、甘やかなほほ笑みを見せてくれるものだから、目が合うと赤面してしまうのだった。
フルールの好物を用意してくれていたり、この二年の間に発売された書物について教えてくれたりと、話題には事欠かなかった。
「そういえば、なにか最近気に入った書物はあったかい?」
クレメントが尋ねる。
「殿下が届けてくださった、砂の王国の物語が興味深かったです」
フルールが言うと、彼は目を瞬き「僕が届けた?」と訊いた。
「はい。いつも居室に戻ると、新しい本を用意してくださっているでしょう?
わたくし、最近は砂の王国に興味があるのです。その中でも、彼の国での婚約破棄騒動を描いた物語が印象に残りました」
それは、単なる感想ではなかった。本当に知りたいことを教えてもらうための、取っ掛りとしての話題であった。
クレメントはさまざまなことを聞かせてくれたが、サロメのことについては頑として教えてもらえなかった。
それから、フルールがどうして二年間も眠っていたのかも。
「いくつかの説があるのですよ。
追放された公女は王妃になったとされていますが、個人の日記のようなものによると、実は本当に愛する人を見つけ、他国へ渡ったのだとか」
フルールは、思わず声を上ずらせてしまった。妙に早口だったかもしれない。
クレメントはフルールの意図に気がついたのだろう。そっと両手でフルールの手を包み込むと、いたわるような視線をこちらに向けた。
「君が受け止めるには大きすぎると思うのだ。ーーだからせめて、もっと身体も心も安定してから。いつかは必ず話すから」
フルールは納得できていなかったけれど、頷くしかなかった。
夕暮れになると、フルールはサロメの眠る礼拝堂へ通うようにしていた。少し前まで、フルールも同じようにここで眠りについていたという場所へ。
クレメントは、サロメはもう死んでしまったのだと言っていた。
でも、フルールにはそうは思えなかった。
人形のように整った顔は、生気こそないものの、寸分違わず二年前と同じで、今にも動き出しそうなのだから。
サロメの周りは分厚い氷のような鉱物で覆われていた。触れても冷たくはない。フルールは、その氷に手を当てて祈った。彼女に再会できますように、と。
それからもジルベルトには会えず、また、会う勇気も持てずに日々を過ごしていた。
それはふと一人になったときのことだ。サーブルザント王国の歴史書を読もうと思ったのだが、そばにノエミは居ない。
仕方がないので、宛てがわれた居室を一人で出る。
あと角をひとつ曲がれば図書室だというところで、侍女たちのうわさ話を耳にしてしまった。
「--まあ! それじゃあ、やはりノエミと殿下は婚約を?」
「ご本人がそう言っていたわ。魔女騒動で心を痛めていた殿下を支えたのは彼女らしいもの。恋心が芽生えても仕方がないわね」
「でも、それじゃあフルール様は?」
侍女がふいに声を潜めて言う。
「新しく婚約が結び直されるのではないかしら。
妃殿下もそのつもりでフルール様を王城に住まわせているのでしょうし」
「確かにね。王子妃教育は過酷だと聞くわ。今から他の令嬢に行なうのは無理があるかもしれないわね」
手足の先がきんと冷たくなり、足元から崩れていくような感覚を覚えた。
これ以上聞いてはいけない気がして、フルールは踵を返し、部屋に戻った。
ノエミの態度が硬かったのも理解出来た。
きっと、元の婚約者であるフルールと、どう接したらいいのかわからなかったのだろう。
注意して観察してみると、ノエミのいない時間はよくあった。王妃のそばに侍っていることも多く、王子妃教育が進んでいるのかもしれない。
フルールは、胸の中にもやもやした悪感情が広がっていくのに気がついた。そこはフルールの居場所だったのに、と、嫌な気持ちが吹き出しそうになり、苦しい。
すっかり気落ちしたフルールは、城内を歩くのが億劫になってしまった。
クレメントの茶会に呼ばれたときは庭園に向かうが、それ以外の時間が問題だった。
ある日、温室まで足を伸ばしてみた。
ここにはあまり、人けがない。一人になりたかった。
「ーーフルールか?」
声をかけられて顔を上げる。
そこに居たのは、幼なじみのアンリだった。彼もまた、あの婚約破棄のときに、フルールに冷たい目を向けていたのを思い出す。
彼は何度も何度も、フルールに謝罪をした。そして、フルールが知りたかった、でも誰もが聞かせてくれなかったことを教えてくれた。
魔女の正体がサロメであったこと。恐らくなにかを悔いて、自らに魔法をかけたのではないかということを。
有能な王城魔法使いとして勤めると聞いていたが、結局は温室の御庭番として職を得たのだという。
職業に貴賤はないが、御庭番は出世コースとは言えず、たいていは平民の就くものであった。
「俺たち関係者にはお咎めはなかったんだ。ーーだが、俺は自分が情けなかった。たくさんの人に迷惑をかけておきながら、なんの罰もない。
そのほうが苦しかった。かと言って、ジルベルト王子のような才能もない。
ーーいや、違うな。本当は人目に触れたくなかったのだろう。誰もがあの事件を知っているから」
アンリはそう言って自嘲した。
温室の中には風がある。
魔法で創られた優しい風が、彼の金色の髪の毛をさらさらと吹き上げて、隠された目があらわになった。
金色の瞳には深い翳りがあった。
「ノエミとの婚約を解消したのも、負い目があったからなの?」
フルールは尋ねた。
二年前とは別人のようになってしまった彼女のことが気になっていた。
アンリは答えず、苦笑を漏らしただけだった。
それからというもの、フルールは温室に通い、本を読んだり、彼と他愛のない話をしたりして過ごした。
他の誰といるよりも気が楽だった。
同志のように思えたのもある。
アンリとフルールの間には、昔から恋愛感情がなかった。
だが、ノエミがジルベルトと婚約するかもしれないことや、彼女が王妃とよく話していることなどは告げられなかった。
ひと月ほど経った頃のことだ。
フルールはクレメントに求婚された。侍女たちが話していた通りだ、と思った。
この国でも恋愛結婚が主流になりつつあるが、少なくとも、王太子であるクレメントには選択の余地はないのだろう。
二年前も今も、変わらず優しくしてくれるが、それはきっと、王子妃教育を終えたフルールだからなのだろう。
とはいえ、まるで自分が好かれているのだと錯覚するくらいに優しくしてくれる彼は、誠実な人だ。
部屋に戻ると、あの忌々しいドニがやってきた。
何かと思い睨みつけると、彼は肩をすくめて、ジルベルトが会いたがっていると告げた。
「今度は何を企んでいるのかしら」
フルールが訊くと、ドニは目を見開き、それから心底うれしそうにくつくつと笑ったのだった。
食後のお茶を飲む。ひどく懐かしい味のお茶だ。
「こちらはサーブルザント王国から取り寄せたものだそうです。遠い異国の茶葉だそうですよ。香ばしいにおいがしますね」
ノエミは珍しくにこにこしていて、フルールも嬉しくなった。
その日はグラソンベリーの甘煮は出ず、ノエミは紅茶を下げに部屋を後にした。
ジルベルトに呼ばれていることを、ノエミにはなんとなく言えなかった。
不思議と誰ともすれ違わずに王城の外へと出ることが出来た。
春とはいえ、少し肌寒い夜気にぶるりと震える。
肩掛けを持ってくるべきだったと思ったが、フルールはドニに指定された待ち合わせの場所へと、歩を進めた。
ところが、ふいに目眩がした。立っていられず、思わず膝をつく。
「ーーおかしいな、どうしてこんなところに?」
最後に見たのは、金色をした髪の毛と、同じ色の瞳だった。
砂の王国の話は、上部の「王国シリーズ」からお読みいただけます。
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