2.目覚めたあとのこと
まるで浦島太郎になった気分だ。ーーフルールは長く息を吐いた。
二年も眠っていた。その間になにもかもが変わっていた。スピカが消え、追い出したはずのドニが戻ってきており、親友が氷漬けになっていた。
急な変化に追いつかずに、心が疲弊していた。
「フルール様、湯浴みの準備が整いました」
そう言って入ってきたのは、学院で共に過ごしたノエミだった。
彼女もアンリとの婚約が破談になったことから、王城で侍女として働き出したのだという。
かつては肩ほどまでの長さだった栗色の巻毛は、背中につくほど長く伸び、後ろで複雑に編み込まれていた。
優しげに垂れていた若葉色の瞳は、今はどこか冷たさがあった。大人びた化粧が施されているせいかもしれない。
確実に時が流れているのを感じざるを得なかった。
公爵領に戻らず王城で過ごすようにと言ってくれたのは王妃だ。
身体を動かすのがまだ辛かったので、それはありがたい配慮であった。
「ジルベルト様にお会いできるかしら」
目覚めたばかりのフルールを王城まで運んでくれたのは、ジルベルトだという。彼にも一度会って礼を言いたいと思った。
「ーーおやめになったほうがよろしいかと」
ノエミは首を振った。
「どうして?」
「……それは、わたくしの口からは言えません」
胸の中にぎしりと嫌な音がするのに気がついた。
学院のときのように気安く過ごしたかったが、わずか二年の間に彼女はつんと大人びていて、頑なに自分との距離感を崩そうとはしない。
フルールは言いようのない寂しさを感じたが、それを吐き出せる相手もいなかった。
眠りにつく前はいつだってそばにいてくれたシュネージュの姿も、どこにも見当たらなかった。
「このようなもの、以前はあったかしら」
瑠璃詰草が描かれたラベルのついた入れ物を手に、フルールは訊いた。
それは実験で使うシャーレのような、平たい円形をした硝子の容器だった。
中にはとろりとしたクリームのようなものが入っている。
ノエミは「ここ一年で台頭してきたコッホ商会のものです」と答える。
「なんでも、サーブルザント王国から輸入しているそうですよ。これを使うと、くちびるが乾かず潤いを保てると評判なのです」
「砂の王国……? あの国との交易はなかったのではないかしら」
王子妃教育の内容を反芻しながら尋ねる。
サーブルザントという国は、隣の大陸の、広大な砂漠の奥にある古い王国だ。
ネージュニクス王国と同じようにやや閉鎖的。というのも、砂漠を越えるのがとにかく困難だからだ。
そのため、この国に限らず、彼の国と交易を持っているというのは聞いたことがない。
「商会主はまだ十四歳の少年なのですが、なんでも数年前に、彼の国の王子を助けたとかで。
それで輸入の窓口となったそうです。
とにかく勢いがすごくて、ここ一年で王室御用達の商会にまで上り詰めました」
フルールは興味深く聞いた。
確かに手渡された「リップクリーム」は素晴らしいものだった。前世で当たり前に買っていたものと同程度には。
ネージュニクス王国にはこれまで、そのようなものがなかった。
雪季はかなり乾燥するので、フルールはいつもくちびるに蜂蜜を塗ってやり過ごしていた。
身体を磨かれて、夜着をまとうと、硝子の丸テーブルの上に菓子が用意されていた。
「これは?」
「先ほど厨房の者が持ってきました。グラソンベリーの甘煮です。なんでも、生命力を補ってくれる効果があるそうですよ」
生のグラソンベリーは食したことがある。
鉱物菓子に似ていて、外側はしゃりしゃりとした食感で、内側は餅のように弾力があるのだ。
けれども、目の前に置かれたこのデザートは、それとは違う食感だった。とろりと舌の上でほどけるように柔らかい。
「あら? ーーこのシロップはもしかして……」
かすかに葡萄のようなさわやかな芳香がした。
フルールは、領地に生えているキャンディツリーを思い起こした。そして、思わず笑みをこぼす。
この花を摘むときって、本当に痛いのよねーーと。
茎の部分に生えている無数の棘は、恐らく魔力を帯びているのだろう。手袋をしても刺さる感覚があるのだ。しかも痛みは数時間も取れない。
フルールは痛い思いをすると苛立たしく感じるたちのようで、花を摘むときは、いつも淑女らしくなく地団駄を踏んでいたことを思い出す。




