後日談 グラソンベリーの果樹園にて(2)
それからというもの、ニコルは、アデルとニパスの仲を引き裂くことに注力した。
「ねえ、アデル。こんなことを言いたくはないのだけれど、ニパスには気をつけたほうがいいわ」
ニコルは、優しい姉の顔をして囁いた。
「どうして? ニパスは静かだけど、まじめで誠実な人だわ」
「それはどうかしらね。そもそも、記憶がないというのも本当かどうか……」
「どういうこと?」
「実は、この間父さんとハリーが森の中で話しているのを聞いてしまったのよ」
ニコルは声をひそめる。
「実は、ニパスは王都の貴族らしいの。こんな辺境にいるなんておかしいわ。ーー属性外魔法の使い手を探してるだとか、なにか秘密の任務があったりして」
アデルの顔がざっと青くなった。
「私みたいに火魔法があるならよかったのにね。アデルの魔法は命魔法だもの。王都の人間に知られたらどう思われることか。王都ではみんな徹底的に秘しているというでしょ? もしかしたら、処罰があるかも」
「ーーでも、ニパスなら、たとえ知ったとしてもきっと変わらずにいてくれるわ」
アデルの反応から、ニコルは魔力のことをすでに打ち明けたのだろうと察した。そして、同情的な顔を崩さないよう気をつけながら、心の中でにんまりと笑う。
「それは……もしかして、あなたを逃さないためではなくて? 私が思うに、ニパスはきっと諜報員なのよ。だって、都合が良すぎると思わない? 記憶を失っているなんて。……もしかして、一緒に王都へ行こうと誘われてないかしら」
ニコルが聞くと、アデルは顔色をさらに悪くした。
少しずつ不信感を植え付けただけだったけれど、アデルは少しずつニパスを避けるようになった。
一方のニパスのほうは、アデルと対話をしようと日々奮闘していたが、結局それは、永遠に叶わなかった。
それからしばらく経ったある日のことだった。
アデルが果樹園から戻らなかった。
朝は晴れていたのだが、夕方から吹雪になった日だった。ちょうどニパスを拾ったときのように。
父やニパスは憔悴していたが、日が暮れそうになったのを見て、二人共飛び出していった。夜のほうが危ないのに、とニコルは他人事のように思った。
その日の夜半だった。森の熊が、真っ白になったアデルを運んできた。彼女は足を痛めていた。崖下などに滑り落ちていたのかもしれない。
ニコルは、この子はもうだめかもしれないな、と思いつつ、一応暖炉の火を強め、身体を清めてから布団を何枚も重ねてやった。
「ねえ、ニパス」
アデルがぽつりと言った。
彼女の目は、もう見えていないようだった。
「ーー私、捕縛しにきたのでもいい。やっぱり、ニパスを愛しているの」
それが最期の言葉だった。ガラス玉のように光が失われた瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
ニパスと名乗っていた男が駆けつけたとき、アデルの瞳からはすでに光が失われていた。
命が抜けていってしまう。ニパスははっとして、アデルの名を何度も何度も呼んだ。愛らしい声でニパスの名を呼んでくれた赤いくちびるに生気はない。少しずつ、身体が冷たく硬くなっていく。
二人はすれ違ったまま終わりを迎えてしまったのだった。
ニパスがむせび泣いていると、彼女の姉であるはずのニコルがすり寄ってきた。彼は不快感でいっぱいになり、ニコルの腕を振り払った。
ニコルはきょとんとしていて、その目には、妹を失った悲しさも焦りも何一つ見られない。
そしてはっとする。ここのところ、不自然にアデルに避けられるようになっていた原因について、思い当たったのだ。
ニパスは、ーードニ・デ・ボンタンは、すべてを思い出した。自分が犯した罪について。
ドニ・デ・ボンタンは伯爵家の三男だった。
だが、彼には家に居場所なんてなかった。
長男でもなく次男ですらないということは、爵位を継ぐことのできぬ、未来の約束されていない不安定な地位だ。
それだけではない。彼は、父親の愛人が生んだ子どもだ。現ボンタン伯爵は、父ではない。義母である。
義母は苛烈な人で、ドニは義母や義兄たちに疎まれながら育った。命の危険を感じたことも一度や二度ではない。
父だけは唯一の味方だったが、日和見主義で、彼がしてくれたことと言えば、家から離れられるように、王宮での侍従の仕事を見つけてきてくれたことだけだった。
だが、王宮に上がったことこそが、ドニの転落の始まりだったのだ。
ドニが仕えていたのは、この国の第二王子だ。
病弱で先がなく、はずれ王子と蔑まれている。いつも暗い部屋にこもり、一人で本を読んでばかりだ。
はじめのうち、ドニは話し相手としての役割を頑張ろうとしていた。だが、いくら話しかけても気のない返事ばかりで、王子はいつも分厚い本に目を落としていた。
第二王子は、変わろうとする努力をせず、いつも本に逃げてばかりいたのだが、美しくたおやかな婚約者に恵まれており、しかも、彼が眠ったあとには王や王妃、第一王子が揃って様子を見に来るという溺愛ぶりだった。
ドニは、日を追うごとに王子のことが憎くてたまらなくなっていった。ドニがほしいものを何でも持っているのに、それに気づくことなく、ただ己の不運を嘆いている。
ドニはそんな王子の卑屈な心を後押ししてあげるだけでよかった。
「あいつと会うと、うまく喋れなくてどうにもいらいらするんだ」
「ジルベルト様は、本当にフルール嬢のことがお嫌いなのですね」
彼の心情に、誤訳をつける。
たったそれだけでよかった。王子は勝手に勘違いをし、フルール嬢に辛く当たるようになっていった。
そんなふうにドニは、少しずつ小さな毒を王子の心に仕込んでいった。
ついでに、成人して城を去った後のことを考えて、王子の持ち物を少しずつ拝借しては売り払ったり、王子がもらったものを自分で着服したりもしていた。
幸いドニは賢かった。ジルベルトの本を一緒に読んだり、ともに家庭教師の授業を受けていたことで、突出した知識を身につけていたのだ。王城での仕事を終えても、きっと生きていけると思っていた。
今ならばわかる。ドニは、ジルベルトのことが羨ましかったのだ。




