後日談 グラソンベリーの果樹園にて(1)
ニパスと名乗っていた男が駆けつけたとき、アデルの瞳からはすでに光が失われていた。
命が抜けていってしまう。ニパスははっとして、アデルの名を何度も何度も呼んだ。愛らしい声でニパスの名を呼んでくれた赤いくちびるに生気はない。少しずつ、身体が冷たく硬くなっていく。
二人はすれ違ったまま終わりを迎えてしまったのだった。
アデル・ド・ブリーは、ネージュニクス王国の東部に住む、果樹農家の娘だった。
ブリー家では、ネージュニクス王国の特産品であるグラソンベリーを育てていた。
冬の特に寒い時期、木の枝からつららのように垂れ下がることから名づけられたものだ。円錐形の形も、透明度があるところもつららににている。
グラソンベリーは宝石菓子に似ている。菓子などが手に入りにくい平民たちには、憧れの贅沢品として好まれていた。
外側はシャリシャリと砂糖のような食感の、赤くて透きとおった皮に覆われており、中はぷにゅりと柔らかい。甘みが強く、香りも良くて、しかもこのネージュニクス王国でしか取れない果物だった。
その家に住んでいたのは、アデルと双子の姉のニコルだけだ。
二人とも、くすんだ金髪に林檎色の目を持ち、寸分違わず同じ顔立ちをしていたが、中身は別物だった。
少し臆病だが働き者で気立てがよいアデルに対し、ニコルは物怖じしない性格ではあるものの怠け者でどうすれば楽ができるかばかりを考えていた。
「ニコル、収穫に行きましょう」
アデルがにこやかに言う。ニコルは「あたしは家の仕事をするから」とそっけなく答える。
「いつもありがとう」
アデルはほほ笑みながら、手をひらひらと振って出ていった。
朝は晴れ渡っていたのに、午後からは吹雪になった。
頭に雪を積もらせたアデルが、大きな熊をつれて、焦燥して戻ってきた。
彼女には、動物と心を通わせる魔法があり、森の動物たちはアデルの手助けをしてくれる。
王国では異端のものらしく、ブリー一家はこの魔法のことを隠していた。幸い、近隣に家はなく、誰かに知られることはなかった。
熊の背には人間の男が乗っていた。
「森の入り口で行き倒れていたの」
背が高いわけでも低いわけでもなく、ありふれた薄茶色の髪をしたその男は、アデルによって手厚い看病を受けた。
しばらくすると起き上がれるようになったが、男は一切の記憶を失っていた。
アデルは、男にニパスという呼び名をつけた。それはこのあたりの方言で、吹雪という意味だった。
ニパスは寡黙な男だったが、起き上がれるようになると、父やアデルを手伝ってよく働いた。
見知らぬ男を拾ったことで最初は警戒していた父だが、真摯に手伝うニパスを気に入り、少しずつ自分の仕事を教えていった。
一年が経つころには、ブリー家の者しか作ることの出来ない、グラソンベリー酒の作り方まで教えるほどだった。どうやら、アデルと結婚させようとしているらしかった。
それは、秋のはじめ、グラソンベリーの樹に乳白色の透きとおった花が咲いたころのことだった。
王都から商人のハリーがやってきた。この辺りには村や街がほとんどなく、自給自足とハリーだけが頼みだった。冬になると悪路になってしまうので、これが今年、ハリーがやってくる最後の行商になるだろう。
ニコルは密かに彼との結婚を夢見ていた。
恋をしていたわけではない。華やかな王都に連れて行ってほしいという打算めいた気持ちだけがあった。
とにかく機会を窺っていたニコルは、これ幸いとばかりに、森の中でハリーを追った。
少し開けた場所にたどり着いたそのとき、ニコルは、彼に待ち合わせの相手がいたことを知る。
それは父であった。
よく聞こえないものの、二人の顔色はよくなかった。内容が聞こえるようにと、もう少しだけそばに寄る。
「それじゃあ、間違いないのか? ニパスが王都の伯爵家のせがれだなんて……」
父は困ったように言った。
ニコルは飛び跳ねたくなった。王都へ行くまでの足がかりにハリーを利用しようと思っていたけれど、そんな手間はなくなった。
ニパスを落とせばいいのだと気がついたのだ。
ーー当時、ネージュニクス王国は恋愛結婚が主流となっており、恋愛小説がたくさん書かれていた。年頃の娘たちが喜ぶだろうと、ハリーが仕入れてきたのもいけなかった。
彼女は、貴族が農民と結婚しないということを知らなかった。むしろ、書物のような貧しい娘の成功物語が現実に起きるのだと、確信してしまったのだ。
しかも、慌ててその場を離れたために、もっとも大切なことを聞きそびれていた。もしもニコルが、あと数分でもその場にいたならば、ニパスを落とそうだなんて思わないはずだった。
グラソンベリーについては、別作品「砂の王国と滅びの聖女」にも登場します。現代の怪異とある王国の闇が、ひとりの少女によって繋がっていく作品です。




