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「このテーブル、明日捨てるから」と夫に言われた私は、実は予約三年待ちの人気工房を支える影の職人でした

作者: マイコ
掲載日:2026/01/23

「このダイニングテーブル、明日処分するから」


結婚五年目の記念日。

私が腕によりをかけて作った夕食が並ぶその席で、夫・篠原圭介は当然のようにそう告げた。


私は箸を置くこともせず、煮物を口に運んだ。

よく味が染みている。我ながら上出来だ。


「聞いてる?」

「ええ、聞いてるわ」


このテーブル。

新婚当初、二人で何軒も家具屋を回って選んだ無垢材のテーブル。

私が毎日、傷一つつかないように丁寧に磨き上げてきたテーブル。


——そして、私が修行時代に初めて作った、処女作。


もちろん、夫はそんなこと知らない。


「新しいのはもう注文してある」


圭介は得意げに続けた。


「彩花が選んでくれたんだ。イタリア製のモダンなやつ。今の時代、こういう古臭いのは流行らないってさ」


彩花。

水野彩花。

夫の会社の後輩で、最近やたらと名前が出ると思っていた女。


(ああ、そういうことか)


私は静かにお茶を啜った。少しぬるい。でも、この状況には丁度いい温度だった。


「……反論しないの?」


圭介が眉を顰める。期待していた反応と違ったのだろう。泣いて縋りつくとでも思ったのか。それとも怒り狂って物を投げると?


残念ながら、私はそこまでエネルギーを割く気になれない。


「あなたが決めたことでしょう」


「…………」


圭介の顔が歪んだ。


「本当に君は何も感じないんだな」


感じてるわよ。今、ものすごく感じてる。

——この五年間は無駄じゃなかった、という確信を。


「だから駄目なんだ、君は」


駄目、か。


五年間、文句一つ言わず家を守ってきた私が。

毎日六時に起きて朝食を作り、彼のワイシャツにアイロンをかけ、帰宅時間に合わせて温かい夕食を用意してきた私が。


——廃業寸前だった実家の工房を匿名で立て直し、今や予約三年待ちの人気工房に育て上げた私が。


「そうね」


私は微笑んだ。

五年間かけて完成させた、従順な妻の微笑み。


「私は駄目な妻だったわね」


圭介は少し怯んだように見えた。反論がないことへの苛立ちと、どこか居心地の悪そうな表情。


当然だ。

人は「正しいことをしている」と思い込みたい生き物だから。私が泣いて怒れば、彼は自分を正当化できた。「ほら、やっぱりこいつはヒステリックな女だ」と。


でも私が何も言わなければ、彼は自分の選択を自分で背負うしかない。


(せいぜい後悔するといいわ)


「……もういい。明日の十時に業者が来る。それまでに私物があれば片付けておいて」


圭介は苛立たしげに席を立った。


私は一人残された食卓で、最後の煮物を口に運ぶ。

ふと、テーブルの木目を指でなぞった。


この木を選んだ日のことを覚えている。

師匠に何度もダメ出しをされながら、やっと完成させた日のことも。


(……ごめんね)


私は心の中で、テーブルに謝った。

あなたを作った私が、一番あなたを裏切ってしまった。「幸せな家族の食卓」にしてあげられなくて。


でも、明日の朝までに、やることがある。


テーブルの裏には、私だけが知っている秘密が二つあるのだから。





翌朝、業者が来る二時間前。


私は一人、ダイニングに立っていた。


圭介はとっくに出勤している。「彩花と朝食の約束があるから」と言い残して。結婚記念日の翌朝に浮気相手と朝食。なかなかの神経だと感心する。


(まあ、どうでもいいけど)


私はテーブルの下に潜り込んだ。

スカートの裾が汚れるのも構わず、天板の裏に手を伸ばす。


——あった。


指先に触れる、小さな凹凸。


新婚初夜、酔った圭介が彫った下手くそな文字。


『圭♡莉子』


あの頃の彼は、まだ少しだけ可愛げがあった。

「俺たちの証だ」なんて、恥ずかしいことを言いながら。


私は苦笑した。

その隣に貼られた、もう一つの「秘密」を剥がしながら。


クリアファイルに入った一枚の紙。

——離婚届のコピー。


結婚一年目の記念日に、私が黙って貼っておいたもの。


「いつか必要になると思って」


声に出して呟いてみる。

我ながら、可愛くない女だと思う。新婚一年目でこんな保険をかけておくなんて。


でも、私は知っていた。

あの男が、いつかこうなると。


木は正直だ。

木目を見れば、その木がどんな環境で育ったかわかる。歪みがあれば、どこかで無理をしている。


人間も同じ。

圭介の目には、最初から「芯」がなかった。

流行を追うだけの服装、上辺だけの優しさ、そして——私の実家が老舗工房だと知りながら「今どき職人なんて」と見下していた浅はかさ。


それでも結婚したのは、私にも打算があったから。

工房を継ぐつもりはない、普通の女として生きたい。

そう思っていた時期が、確かにあったのだ。


「……馬鹿みたい」


私は立ち上がり、テーブルの表面を最後に一度だけ撫でた。


五年間、毎日磨いてきた天板。

傷一つない、美しい無垢材の光沢。


これを「古臭い」と言った女と、その言葉を信じた男。


(お似合いよ、本当に)





インターホンが鳴る。


「藤村様、家具回収に参りました」


私は玄関を開けた。

作業服を着た男性が二人、台車を押して立っている。


「あの、こちらのテーブルで間違いないですか?」

「ええ、そうです」

「かしこまりました。では——」


男性の一人が、テーブルに手をかけた瞬間。


「——っ、あ」


彼は驚いたように手を止めた。


「お客様、これ……」

「はい?」

「いえ、その……」


彼は困ったように同僚と顔を見合わせた。


「俺、一応この業界長いんですけど……こんな木目、見たことないです。どこの工房のテーブルですか?」


私は微笑んだ。


「さあ。夫が昔買ってきたものなので」


嘘ではない。形式上は、確かに彼が「買った」ことになっている。

私が作ったものを、私が匿名で工房に卸し、それを二人で「選んだ」のだから。


「……もったいないなあ」


作業員がぼそりと呟いた。


「これ、相当な職人が作ってますよ。丁寧に使えば百年持つのに」


——知ってる。


私が作ったんだもの。


「ご主人、分かってないんですね。これの価値」


作業員は気の毒そうに私を見た。

その視線に、少しだけ胸が痛んだ。


でも、もういい。


このテーブルは、私の「過去」だ。

しがみついていても、前には進めない。


「大切にしてくださる方に届けてください」

「……はい。必ず」


テーブルが運び出されていく。

私は最後まで見届けて、それから——スーツケースを手に取った。


三日前からこっそり詰めておいた荷物。

必要最低限のものしか入っていない。

この家に、私の「もの」はほとんど無かったから。


玄関を出る。

振り返らない。


五年間の「従順な妻」は、今日で終わり。


——さて、実家に帰ろうか。


『藤村木匠』の一人娘として。

私が育てた、あの工房に。





「——お帰り、莉子」


工房の引き戸を開けた瞬間、木屑と漆の匂いが鼻腔を満たした。


五年ぶりの、我が家の匂い。


「ただいま、お父さん」


藤村源一郎。

白髪に深い皺、しかし背筋だけは真っすぐな、昔気質の職人。

私の父であり、師匠であり——『藤村木匠』の二代目当主。


「……痩せたな」

「そう?」

「飯、食っとったんか」

「食べてたわよ。ちゃんと」


父は何も言わず、作業台の椅子を引いた。

「座れ」という意味だ。昔から、この人は言葉が少ない。


私は素直に腰を下ろした。

椅子が軋む音。この椅子も、私が修行時代に作ったものだ。もう十五年は経つのに、まだしっかりしている。


「茶、淹れてくる」

「私が——」

「座っとれ」


父の背中を見送る。

少し丸くなった気がする。五年前より、確実に。


(……ごめんね、お父さん)


私は工房を見回した。


変わっていない。

壁に並ぶ鉋、鑿、玄翁。

隅に積まれた木材。

天井から吊るされた作りかけの椅子の脚。


——いや、一つだけ変わっていた。


工房の奥。

以前は空だった飾り棚に、小さな写真立てが置いてある。


近づいて、息を呑んだ。


私だ。

高校生の頃の私が、完成したばかりの椅子の横で笑っている。師匠——父に褒められて、照れくさそうに。


(こんな写真、撮ってたんだ……)


「——莉子ちゃんっ!」


バタバタと足音がして、工房の奥から誰かが飛び出してきた。


三島香織。

私の幼馴染で、工房の番頭的存在。


「やっと帰ってきた! もう、どれだけ待ったと思ってるの!」

「香織……」

「五年よ五年! あんな男のどこがよくて——いや、今はいいわ。とにかくお帰り!」


抱きつかれて、少しよろめいた。

相変わらず、この子は感情表現が激しい。


「ちょっと、苦しい」

「苦しくさせてやる! 連絡もろくによこさないで!」

「ごめんって……」

「ごめんで済んだら鉋いらないわよ!」


何その言い回し。

思わず笑ってしまった。五年ぶりに、心から。


「……やっと笑った」


香織が、少し泣きそうな顔で言った。


「莉子ちゃんが笑ったの、久しぶりに見た」

「……そんなことない」

「あるわよ。あの男と結婚してから、莉子ちゃん全然笑わなくなったもん。たまに会っても、なんか……能面みたいだった」


能面、か。

確かに、そうだったかもしれない。


「もう大丈夫よ」


私は香織の頭をぽんぽんと叩いた。


「帰ってきたから」





父が淹れた緑茶は、濃くて苦くて——懐かしい味がした。


「……それで」


湯呑みを置いて、父が口を開く。


「どうする気だ」

「どうって?」

「工房のことだ」


私は茶を啜った。熱い。でも、この熱さが今は心地いい。


「……知ってたの?」

「何がだ」

「私が『匿名のスポンサー』だったこと」


父は表情を変えなかった。


「……木は正直じゃ」


出た、口癖。


「お前が嫁に行った年、工房は潰れかけとった。従業員も辞め、注文も途絶え、俺はもう終わりかと思っとった」


父は湯呑みを見つめながら続けた。


「そこに、匿名の投資家が現れた。経営を立て直し、新しい販路を開拓し、SNSとやらで宣伝までしてくれた。誰かは分からんが、この工房を心底愛しとる人間だと分かった」


私は黙っていた。


「——で、その『投資家』の指示書の筆跡が、どう見てもお前だった」


……バレてたんだ。


「なんで黙ってたの?」

「お前が黙っとったからだ」


父は静かに言った。


「言いたくない理由があるんだろうと思った。だから待っとった。お前が自分から帰ってくるまで」


私は湯呑みを握りしめた。


「……ごめん」

「謝るな。お前のおかげで工房は生き延びた。礼を言うのはこっちだ」


父は不器用に頭を下げた。


——その瞬間、涙が溢れた。


五年間、ずっと堪えていたものが、一気に決壊した。


「……っ、ごめん、なさ……っ」

「だから謝るなと言っとろう」

「でも、私……っ、お父さんに何も言わないで、勝手に……っ」

「勝手にやったから、お前は偉いんだ」


父の大きな手が、私の頭にそっと置かれた。


「帰ってきて、よかった」


木屑だらけの、節くれ立った手。

私の手の「原型」。


「……うん」


私は子供みたいに泣いた。

五年分の涙を、全部。





三日後。

私は作業着に着替えて、工房に立っていた。


「——さて」


久しぶりに握る鉋。

手に馴染む、使い込まれた木の柄。


私は木材に向き合った。

今日は椅子の座面を削る。単純な作業だけど、これが一番好きだ。


木に刃を当てる。

すうっと、薄い削りかすが舞う。


——ああ、この感触。


五年間、忘れていたわけじゃない。

でも、やっぱり違う。実際に手を動かすと、体が思い出す。


木の声を聴く、ということを。


「相変わらず、いい音させるわね」


香織が作業場を覗き込んでいた。


「莉子ちゃんが削ると、木が喜んでるみたい」

「そんなわけないでしょ」

「あるわよ。源一郎さんも言ってたもん。『あの子が作ったテーブルには、木が喜んでおる』って」


父がそんなことを。

少し照れくさくて、私は手を止めた。


「……ねえ、香織」

「ん?」

「私、表に出ようと思う」


香織が目を丸くした。


「表って……まさか」

「うん。『藤村木匠』の職人として。顔を出して、取材も受ける」


五年間、私は影に徹してきた。

経営は匿名で、制作は父の名前で。


でも、もう隠れている理由はない。


「——いいの? あの男に知られたら……」

「知られて何が困るの?」


私は鉋を置いた。


「私はもう、あの人の妻じゃない。好きに生きていいのよ」


香織の顔が、ぱあっと明るくなった。


「——待ってた。その言葉」

「え?」

「莉子ちゃんがそう言うの、ずっと待ってたの!」


香織は私の手を握った。


「大丈夫、私が全力でサポートする! 取材のセッティングも、SNSの運用も、全部任せて!」

「……頼りにしてる」

「当然よ! 莉子ちゃんの幼馴染なめないで!」


力強い言葉に、私は笑った。


そうだ。

私には味方がいる。

父がいる。香織がいる。そして——この手がある。


木を削り、形にする、この手が。


「……よし」


私は再び鉋を握った。


新しい人生の、最初の一削り。

すうっと、木屑が舞う。


——いい音。


今日から私は、「藤村莉子」として生きていく。

誰かの妻でも、誰かの影でもなく。


ただの、一人の職人として。





『若き女性匠、伝統工房を継ぐ——藤村莉子、29歳の挑戦』


取材記事が出てから、工房は騒がしくなった。


問い合わせの電話、見学希望のメール、SNSのフォロワー急増。

香織が「嬉しい悲鳴」と言って駆け回っている横で、私は黙々と木を削っていた。


「莉子ちゃん、また取材依頼来てるけど——」

「断って」

「でも今度は全国ネットの——」

「断って。今は作ることに集中したい」


香織は呆れたように肩を竦めた。


「……相変わらずね」

「何が?」

「いいけど。でも、今日のお客さんだけは対応してね」

「お客さん?」

「予約なしで来たんだけど、どうしても莉子ちゃんに会いたいって。業界では有名な人らしいわよ」


私は手を止めた。

予約なし、というのは困る。制作中は集中を乱されたくない。


「名前は?」

「桐谷凛さん。インテリアデザイナーだって」


——桐谷凛。


聞いたことがある。というか、業界で知らない人はいない。

「氷の美学」と呼ばれる完璧主義者。クライアントを選び、気に入らなければ平気で仕事を断る傲慢な天才。


なぜそんな人が、うちの工房に?


「……分かった。会う」

「お、珍しい。素直」

「気になるだけよ」


私は鉋を置き、作業着の埃を払った。





工房の応接スペース——といっても、木のベンチがあるだけの質素な空間——に、男が座っていた。


第一印象は「冷たい」。


切れ長の目、整いすぎた顔立ち、銀縁眼鏡の奥の瞳は常に冷ややか。長身痩躯で隙のないスーツ姿は、木屑だらけの工房には明らかに場違いだった。


「お待たせしました。藤村莉子です」

「……桐谷凛」


立ち上がりもせず、名刺すら出さない。


(感じ悪いわね)


内心で呟きながら、私は正面に座った。


「それで、ご用件は?」

「見れば分かるだろう」


彼は工房を見回した。冷たい目で品定めするように。


「……あなたの仕事を見に来た」

「仕事?」

「記事を読んだ。『木が喜ぶ家具を作る』とか何とか。胡散臭いと思った」


胡散臭い。

初対面でそれを言うか。


「それで、わざわざ確かめに?」

「ああ」


彼は眼鏡を直した。


「俺は完璧な空間を設計する。そのために使う家具も完璧でなければならない。だが——」


彼の目が、私の手を見た。

節くれ立った、職人の手。


「——職人に用はない。作品にだけ興味がある」


傲慢な言い方だった。

でも、私は腹が立たなかった。


この人、本気だ。

言葉は冷たいけど、目は真剣だ。自分の仕事に、妥協したくないのだろう。


「……作りかけでよければ、見せましょうか」

「頼む」


私は立ち上がった。

彼を作業場に案内する。普段は見せない場所だけど、なぜか見せてもいい気がした。


作業台の上には、削りかけのテーブルの脚があった。

楓の木。白く美しい木目が特徴的な木材。


「……触っていいか」

「どうぞ」


彼は慎重に手を伸ばした。

指先で木肌をなぞる。その仕草は意外なほど丁寧で——


「——っ」


彼が息を呑んだ。


「……なぜだ」

「え?」

「なぜ、木が泣いていないんだ」


私は目を見開いた。


——この人、分かるの?


木を削るとき、無理な力をかけると木が「泣く」。繊維が悲鳴を上げるように、微かな違和感を残す。素人には分からない。熟練の職人でも、気づかない人は多い。


それを、この人は一瞬で見抜いた。


「答えろ。なぜ、この木は——」

「……木の声を聴いているから」

「声?」

「木には、それぞれ削ってほしい方向がある。それを無視すると泣く。だから、私は聴くの。この木はどこを削ってほしいのか。どこを残してほしいのか」


彼は黙っていた。

長い沈黙の後、ぽつりと呟いた。


「……狂ってる」

「は?」

「そんな繊細な仕事、効率が悪すぎる。工場生産なら——」

「工場の家具には魂がないでしょう」


私は言い返した。


「大量生産で作られた家具と、職人が一つ一つ作った家具。見た目は同じでも、十年後に違いが出る。使い込むほど馴染むのが手作り。劣化するのが工場品」


彼の目が、わずかに揺れた。


「……記憶、か」

「え?」

「あなたの作るテーブルには、記憶が宿っている気がする」


予想外の言葉に、私は言葉を失った。


「俺は空間を設計する。完璧な配置、完璧な照明、完璧な調和。だが——いつも何かが足りないと思っていた」


彼は削りかけの脚を見つめていた。


「温度だ。俺の設計には温度がない。人が暮らした痕跡。記憶が積み重なる余地。——それを、あなたの家具には感じる」


私は彼を見た。


冷たい目。傲慢な物言い。

でも、その奥に——何かを求めている飢えがある。


「……桐谷さん」

「何だ」

「あなた、家に食卓がなかったでしょう」


彼が固まった。


「——なぜ、そう思う」

「木は正直だから」


私は微笑んだ。


「あなたの目。家具を見る目じゃない。見たことがないものを、必死に理解しようとしている目よ」


長い沈黙。

彼の手が、かすかに震えていた。


「……帰る」

「え、ちょっと——」

「また来る」


彼は踵を返した。

背中を向けたまま、低く呟く。


「——あなたのテーブルが、欲しい。何を払っても」


引き戸が閉まる音。

私は一人、作業場に立ち尽くしていた。


(……何なの、あの人)


傲慢で、無礼で、突然現れて突然帰って。

なのに——


心臓が、少しだけ早く打っていた。





桐谷凛は、本当に「また来た」。


翌日も、その翌日も、その翌々日も。

予約なし、連絡なし。ただ工房に現れて、黙って私の作業を見ている。


「……また来たの」

「ああ」

「仕事は?」

「調整した」

「毎日?」

「問題あるか」


問題しかない。


「邪魔なんだけど」

「黙って見ているだけだ」

「その『黙って見ている』のが気になるのよ」


彼は眼鏡を直した。

なぜか、私の作業を見るときだけ眼鏡を外す癖があることに気づいた。


「……気にしなければいい」

「無理よ。あなた、存在感ありすぎ」

「褒め言葉か」

「皮肉よ」


彼は黙った。

でも、帰らない。


仕方なく、私は作業を再開した。

今日は椅子の背もたれ。微妙なカーブを削り出す繊細な工程。


しばらく無言で削っていると、ふと彼が口を開いた。


「——俺の実家には、食卓がなかった」


手が止まった。


「……急にどうしたの」

「前に、あなたが言ったことの答えだ」


彼は窓の外を見ていた。作業場の小窓から差し込む午後の光が、冷たい横顔を照らしている。


「両親は仲が悪かった。同じ家に住んでいたが、一緒に食事をしたことは一度もない」


私は黙って聞いていた。


「母は自室で、父は書斎で、俺は子供部屋で。食事はいつも一人だった。食卓という『場所』が、俺の家には存在しなかった」


——だから「温度がない」と言ったのか。


彼の設計には、温度がない。人が暮らした痕跡がない。

それは、彼自身が「温かい食卓」の記憶を持っていないから。


「俺は食卓を設計できない」


彼は続けた。


「クライアントから『家族が集まる空間』を依頼されると、いつも分からなくなる。集まって何をするんだ? 何を話すんだ? なぜ同じテーブルを囲む必要がある?」


私は鉋を置いた。


「……桐谷さん」

「何だ」

「食卓は、ただ食事をする場所じゃないのよ」


彼が振り向いた。


「その日あったことを話したり、黙ったまま同じおかずを食べたり、時々喧嘩したり。何気ない時間の積み重ねが、『家族』を作っていく。食卓は——その記憶の器なの」


彼の目が、わずかに揺らいだ。


「記憶の器……」


「だから私は、長く使ってもらえる家具を作りたい。十年、二十年、時には百年。その間に、たくさんの記憶が刻まれていく。傷も、染みも、全部含めて」


私は椅子の背もたれをなでた。


「私が作ったテーブルで、誰かが笑って、誰かが泣いて、誰かが誕生日を祝って、誰かが受験の合格を報告して——そういう記憶が積み重なっていくことを想像すると、この仕事が好きだと思える」


長い沈黙があった。


「……狂ってる」

「また言った」

「褒め言葉だ。今度は」


彼は眼鏡をかけ直した。

でも、その目は——少しだけ、柔らかくなっている気がした。


「もう少し、見ていてもいいか」

「……好きにすれば」


私は作業を再開した。

彼の視線を背中に感じながら。


——変な人。


でも、嫌じゃない。

そう思ってしまう自分が、少しだけ悔しかった。





彼が通い始めて、二週間。


香織が興味津々で聞いてきた。


「ねえ、あの人何者? 毎日来てるけど」

「桐谷凛。インテリアデザイナー」

「それは知ってる。そうじゃなくて、莉子ちゃんとはどういう関係?」

「……ただの見学者よ」

「見学者が毎日来る?」


香織はにやにやしていた。


「——絶対、気があるわよ」

「馬鹿言わないで」

「だって見てたもん。莉子ちゃんが作業してるとき、あの人、全然瞬きしないの。ずっと、莉子ちゃんの手を見てる」


手を、見てる?


「……変態じゃない?」

「そうかも。でも、職人の手ってセクシーだからね。莉子ちゃんの手、特にいいし」

「からかわないで」

「からかってないわよ。本気で言ってる」


香織は真面目な顔になった。


「莉子ちゃん、あの人のこと、嫌い?」

「……別に」

「じゃあ、好き?」

「そんなわけ——」


言いかけて、止まった。


嫌いじゃない。確かにそう思う。

彼は傲慢で、無礼で、人の気持ちを考えない。

でも、彼が私の作業を見つめる目には——嘘がない。


「……分からない」

「ふーん」


香織はにやりと笑った。


「まあ、ゆっくり考えなよ。時間はあるんだから」


そう言って、彼女は作業場を出ていった。





その日の夕方。


作業を終えて片付けをしていると、桐谷が珍しく声をかけてきた。


「藤村」

「何?」

「これを」


彼は紙袋を差し出した。

中を覗くと——分厚い本が何冊か入っている。


「……これは?」

「資料だ」

「資料?」

「北欧の家具デザインの歴史書。君の参考になると思った」


私は本を手に取った。

確かに、どれも興味深いタイトルだ。しかも、日本では手に入りにくい洋書ばかり。


「……ありがとう。でも、なぜ?」

「言っただろう。資料だ」

「資料って言えば何でも許されると思ってる?」


彼は黙った。

耳が、微かに赤くなっている。


(——まさか)


これ、プレゼントなのでは?

「資料」と称した、不器用な贈り物では?


「……桐谷さん」

「何だ」

「ありがとう。嬉しい」


彼の目が、一瞬だけ見開かれた。

そしてすぐに、いつもの冷たい顔に戻る。


「……礼を言われることじゃない」

「言いたいから言ったの。受け取って」


彼は何も言わず、背を向けた。

でも、その背中は——いつもより少しだけ、柔らかく見えた。


私は胸の奥が温かくなるのを感じていた。


——香織の言葉が、頭をよぎる。


「気がある」、か。


まさか。

でも——まさか。


私は首を振った。

今は、考えないでおこう。


工房の外では、夕日が沈みかけていた。

橙色の光が、削りかけの椅子を照らしている。


——もうすぐ、完成する。


私は静かに、明日の作業のことを考えた。





それは、工房に凛が通い始めてから一ヶ月が経った頃のことだった。


私はいつものように木を削っていた。

今日は彼が来ない日で——珍しく、打ち合わせがあると言っていた——静かな作業場で一人、黙々と手を動かしていた。


と、工房の引き戸が開いた。


「香織? 今日は早——」


振り向いて、固まった。


「……久しぶり、莉子」


篠原圭介が、そこに立っていた。





「帰って」


私の第一声は、それだった。


「待ってくれ。話を——」

「話すことなんてない」

「あるんだ。俺は——」

「離婚届にサインはした? まだなら今すぐして帰って」


圭介の顔が歪んだ。

以前は「端正」だと思っていたその顔。今見ると、どこか安っぽく見える。目の下の隈、荒れた肌、皺の寄ったワイシャツ。


「莉子、頼むから——」

「頼む?」


私は鉋を置いた。


「あなた、私に何を頼める立場だと思ってるの?」

「それは……」

「結婚記念日に、私が大切にしていたテーブルを捨てると言った。新しいテーブルは浮気相手に選ばせた。私を『ただの専業主婦』だと見下して、五年間、一度も感謝しなかった」


私は淡々と言った。

感情は込めない。込める必要がない。


「そのあなたが、何を頼みに来たの?」


圭介は唇を噛んだ。


「……彩花に、逃げられた」


知ってる。

香織から聞いた。「奥さんがいない家って寒いね」と言って出ていったらしい。


「テーブルも、三ヶ月で傷だらけになった。彩花が雑に使うから——」

「それで?」

「それで……俺、初めて分かったんだ。莉子がどれだけ——」

「——やめて」


私は手を上げた。


「聞きたくない。今さらそんな言葉」

「莉子……」

「あなたは失って初めて気づいただけ。私の価値じゃない。『便利な存在がいなくなった不便さ』に気づいただけでしょう」


圭介が息を呑んだ。


「違う、俺は——」

「同じよ。あなたは私を愛してたんじゃない。私が提供していたサービスを愛してたの。食事、洗濯、掃除、家の管理。それがなくなって困ってるだけ」


私は作業台に手を置いた。

節くれ立った、職人の手。


「私は道具じゃない。あなたの生活を便利にするための装置じゃない」


圭介の顔が青ざめた。


「……戻ってきてくれ」


絞り出すような声だった。


「なんでもする。反省してる。やり直させてくれ」

「無理よ」

「なぜだ」

「なぜ?」


私は微笑んだ。

従順な妻の笑顔ではない。

自分自身の足で立っている、一人の女の笑顔。


「私はもう、誰かに選ばれるのを待つ椅子じゃないの」


圭介の目が見開かれた。


「……椅子?」

「あなたは私を座り心地のいい椅子だと思ってた。いつでも座れる、いつでも待っている、自分の好きなときに使える椅子。でも——」


私は鉋を手に取った。


「私は椅子じゃない。椅子を作る側よ」


圭介は何も言えないようだった。

言葉を失い、立ち尽くし——そして、工房の奥に視線を向けた。


「……これ、全部お前が?」

「そうよ」

「嘘だろ。お前、ただの——」

「——ただの何?」


私は静かに問うた。


「ただの専業主婦? ただの木工職人の娘? 今どき職人なんて、と言ったのはあなたよね」


圭介の顔が歪んだ。


「俺は……そんな……」

「言ったわ。何度も。私の前で、私の父の仕事を見下したわ」


私は作業台の椅子を指した。


「この椅子、私が十五年前に作ったの。まだ高校生の頃。でもちゃんと使えるでしょう? 職人の仕事って、そういうものよ。百年持つものを、一つ一つ作る」


圭介は黙っていた。


「あなたが捨てようとしたテーブル、あれも私が作ったの。知らなかったでしょう?」

「……え?」

「私の処女作。修行時代に初めて完成させたテーブル。毎日磨いて、大切にしてた。——それを、あなたは『古臭い』と言って捨てようとした」


圭介の顔から、血の気が引いた。


「そんな……聞いてない……」

「言わなかったからよ。言っても、あなたには分からないと思ったから」


私は背を向けた。


「帰って。もう来ないで」

「莉子——」

「私は前に進むの。あなたのいない場所で、私の人生を生きる。邪魔しないで」


長い沈黙があった。

そして——足音。引き戸の開く音。閉まる音。


私は振り返らなかった。

振り返る必要がなかった。





「——大丈夫?」


夕方、凛が工房に来た。


「なぜそう思うの?」

「顔色が悪い」


私は苦笑した。

この人、意外と人のことを見ている。


「……元夫が来たの」


凛の目が、一瞬だけ鋭くなった。


「何を言われた」

「戻ってこいって」

「……で?」

「断った」


凛は何も言わず、いつもの場所に座った。

そして——珍しく、口を開いた。


「君の手が動くのを見ていると、眠れなかった夜を思い出さなくなる」


私は手を止めた。


「……どういう意味?」

「俺は子供の頃、よく眠れなかった。家が静かすぎて。誰も話さない、誰も笑わない、ただ沈黙だけがある家」


彼は窓の外を見ていた。


「でも、君の作業を見ていると——鉋の音、木の香り、君の真剣な顔——不思議と落ち着く。眠れなかった夜のことを、忘れられる」


私は彼を見た。


冷たい目。完璧主義の仮面。

でもその奥に——ずっと孤独だった子供が、まだいる。


「……凛さん」

「何だ」

「今日、一緒にご飯食べない?」


彼が目を見開いた。


「……なぜ」

「なぜって、お腹が空いたからよ。あなたも空いてるでしょう?」

「そうじゃなくて——」

「難しく考えないで。ただの食事よ」


私は微笑んだ。


「——私が作ったテーブルで、一緒に食べましょう」


長い沈黙。

そして——彼は、ぎこちなく頷いた。


「……ああ」


その声は、いつもより少しだけ——温かかった。





「共同プロジェクト、ですか」


私は凛の言葉を復唱した。

工房の応接スペース。今度は二人とも座っている。


「ああ。俺が空間を設計し、君が家具を作る。『記憶を繋ぐダイニング』——そういうコンセプトだ」


凛は珍しく熱を込めて語っていた。


「食卓は家族の記憶の器だ。君はそれを分かっている。俺は分からなかったが——今は、少しだけ分かる気がする」


私は黙っていた。

彼が何を言いたいのか、見極めようとしていた。


「俺の設計には温度がなかった。君の家具には温度がある。組み合わせれば——」

「——お互いの弱点を補える?」

「……そういうことだ」


私は考えた。

確かに、面白い企画だと思う。凛の設計は冷たいが美しい。私の家具は温かいが、空間全体の調和には弱い。


でも——


「本当に、それだけ?」

「何がだ」

「仕事のため、だけじゃないでしょう」


凛が黙った。


「……何が言いたい」

「あなた、私の技術を独占したいんでしょう」


彼の目が、わずかに揺れた。


「……なぜ分かった」

「あなた、分かりやすいのよ。言葉は冷たいけど、目は嘘をつけない」


私は微笑んだ。


「いいわよ。受けましょう」

「——本当か」

「ただし条件がある」

「何だ」


私は指を一本立てた。


「私の仕事には口を出さないこと。木の選定から仕上げまで、全部私が決める」

「当然だ。俺は空間を設計する。家具には手を出さない」

「もう一つ」


私は二本目の指を立てた。


「——私と対等でいること」


凛が眉を顰めた。


「どういう意味だ」

「あなた、上から目線でしょう。『俺が設計してやる』『俺が認めてやる』そういう態度。私は嫌よ」

「……」

「パートナーとして組むなら、対等じゃなきゃ。あなたの設計が私の家具を活かすように、私の家具もあなたの設計を活かす。どちらが上でも下でもない」


長い沈黙があった。


「……難しいことを言う」

「難しい?」

「俺は他人と対等に組んだことがない」


凛は苦い顔をした。


「いつも俺が全部決める。クライアントの意見は聞かない。職人の提案も却下する。俺の設計が正しいから——そう思っていた」

「思っていた?」

「君と会って、分からなくなった」


彼は私を見た。

冷たい目——でも、その奥に戸惑いがある。


「君は俺の言うことを聞かない。俺の設計を褒めない。でも——俺は君の作業をずっと見ていたい。なぜだ」


私は笑ってしまった。


「それ、自分で分からないの?」

「分からない。だから聞いている」

「……本当に、不器用な人ね」


私は立ち上がった。


「いいわ。一緒に作りましょう。『記憶を繋ぐダイニング』」

「……ああ」

「その代わり、ちゃんと対等でいてね。私を下に見たら、その瞬間に契約解除だから」

「分かった」


凛は頷いた。

その顔は——少しだけ、嬉しそうに見えた。





三ヶ月後。


「記憶を繋ぐダイニング」シリーズは、業界で大きな話題となっていた。


凛の冷たく美しい空間設計と、私の温かみのある手作り家具。相反するはずの二つが、不思議なほど調和している——そう評価された。


メディアの取材も増えた。

「氷の美学」と「若き女性匠」のコラボレーション。キャッチーな見出しが躍る。


「——また取材依頼。今度はテレビ」

「断って」

「……凛さんも同じこと言うと思った」


香織はため息をついた。


「二人とも、もう少し愛想よくできないの?」

「愛想を売る暇があったら、手を動かしたい」

「俺も同意見だ」


凛が隣で頷いた。

最近、彼は工房に常駐している。設計のアトリエを一時閉鎖し、私の作業場の隣で図面を引いている。


「……本当に仲いいわよね、二人」

「仲がいい?」

「良好なビジネスパートナーというだけだ」

「はいはい」


香織はにやにやしながら去っていった。


私は作業を続けた。

今日は最終展示会に出す、メインテーブルの仕上げ。楓の一枚板を使った、渾身の作品。


「……藤村」

「何?」

「君のその手を、ずっと見ていたい」


私の手が止まった。


「……また言ってる」

「事実だ」

「それ、告白と何が違うの」


凛が黙った。


「……告白?」

「好きだから見ていたいんでしょう。違う?」


長い沈黙。


「……分からない」

「まだ分からないの?」

「君のことを考えると、胸が苦しい。君が笑うと、俺も嬉しい。君が他の男と話していると、腹が立つ。——これが何なのか、俺には分からない」


私は鉋を置いた。

そして、彼の顔を見た。


冷たい目——でも今は、必死に何かを訴えている。

自分の感情が分からなくて、戸惑っている。


「……凛さん」

「何だ」

「それ、全部『好き』って言うのよ」


彼が目を見開いた。


「——好き」

「そう」

「俺が、君を?」

「そうみたいね」


私は微笑んだ。


「——私もよ。たぶん」


凛の顔が、ゆっくりと赤くなっていった。

「氷の美学」と呼ばれた男が、耳まで真っ赤になっている。


「……たぶん、とは」

「まだ確信がないの。あなたと同じ」

「なら——」


彼は立ち上がった。

そして、私の手を取った。


「確かめる時間をくれ。展示会が終わったら——俺の気持ちを、ちゃんと言葉にする」


私は頷いた。


「待ってる」


彼の手は——意外なほど、温かかった。





最終展示会の前日。


私は搬入作業のために、会場となるギャラリーを訪れていた。

凛の設計した空間に、私の家具を配置していく。


「——このテーブルは、ここに」

「ああ。その角度がベストだ」


凛と二人、細かな調整を重ねる。

彼の「氷の美学」と、私の「記憶の器」。二つが融合した空間は、自分で言うのもなんだが——美しかった。


「……いいわね」

「ああ」

「明日が楽しみ」

「俺もだ」


凛は珍しく穏やかな顔をしていた。

この三ヶ月で、彼は少しだけ変わった気がする。相変わらず無愛想だけど、目が温かくなった。


「——あの」


後ろから声がした。

振り返ると——若い女性が立っていた。

巻き髪、派手なメイク、ブランドバッグ。


水野彩花。


「お久しぶりです、藤村さん」


私は黙っていた。

何を言えばいいのか、分からなかった。


「あの……謝りたくて」

「謝る?」

「圭介さんとのこと。私——」

「——藤村、知り合いか」


凛が横から口を挟んだ。

彩花は凛を見て、少し怯んだようだった。


「えっと、この方は……」

「仕事のパートナーよ」

「そう、ですか……」


彩花は居心地悪そうに視線を泳がせた。


「あの、私——」

「聞きたくないわ」


私は遮った。


「謝罪なら、受け取れない。あなたに謝られても、私は何も感じないから」

「でも——」

「私が怒っていたのは、あなたにじゃない。自分自身によ」


彩花が目を見開いた。


「五年間、見て見ぬふりをしてきた。夫の気持ちが離れていくのを感じながら、何もしなかった。それは私の責任。あなたのせいじゃない」


私は淡々と言った。


「だから、謝らなくていい。私はもう前に進んでるから」


彩花は何か言いたそうだったが、言葉が出ないようだった。

しばらく立ち尽くした後——小さく頭を下げて、去っていった。





「……あれが、浮気相手か」


凛が低い声で言った。


「そう」

「……腹が立つ」

「え?」

「君があんな女に傷つけられたと思うと、腹が立つ」


私は少し笑った。


「傷ついてないわよ」

「嘘をつくな。今、一瞬だけ顔が曇った」

「……見てたの」

「いつも見てる」


凛は私の手を取った。


「明日が終わったら——俺は君に伝えることがある。それまで、待っていてくれ」

「……何を?」

「言葉にできたら、伝える」


彼の目は真剣だった。

私は頷いた。


「分かった。待ってる」





その夜。

私は実家の工房で、一人で作業していた。


明日の展示会用ではない。

ただ——手を動かしていたかった。


木を削る音。

鉋が滑る感触。

木屑が舞う匂い。


全部が、私を落ち着かせてくれる。


「……お父さん」


工房の隅で、父がお茶を淹れていた。


「なんだ」

「私、幸せになっていいのかな」


父は黙っていた。

しばらくして、ぽつりと言った。


「木は正直じゃ」

「……また言った」

「お前の顔を見れば分かる。迷っとるな」


私は手を止めた。


「……うん」

「何に迷っとる」

「……分からない。桐谷さんのことは、好きだと思う。でも——」

「前の旦那のことが、引っかかるか」


私は頷いた。


「また同じ失敗をしたらって思うと、怖い」

「そうか」


父はお茶を私の前に置いた。


「——お前が選んだ道なら、間違いじゃない」

「え?」

「五年前、お前はあの男を選んだ。結果は失敗だった。でも、その経験があったから今のお前がおる」


父は続けた。


「今度は、お前の目で見極めろ。あの男を見て、何を感じる?」


私は凛のことを思い出した。


冷たい目。無愛想な物言い。

でも——私の作業をずっと見ていた目。

木に触れたとき、「なぜ泣いていないんだ」と驚いた声。

「記憶の器」という言葉を理解したときの、戸惑った顔。


「……彼は、嘘をつかない」

「そうか」

「言葉は冷たいけど、目は正直。私が何を作っても、本当のことしか言わない」


父は頷いた。


「なら、信じてみろ。お前の目を」


私はお茶を啜った。

父が淹れた、濃くて苦いお茶。


「……ありがとう、お父さん」

「礼を言うな。当然のことだ」


父は立ち上がった。


「——あの男、木が分かる」

「え?」

「初めて工房に来たとき、俺の作りかけの椅子を見て言った。『この木は、削られて喜んでいる』と」


私は目を見開いた。

凛が父と話していたなんて、知らなかった。


「木の声が聴ける人間は、そうおらん。お前を任せるなら——」


父は背を向けた。


「——悪くない、と思う」


不器用な父の、精一杯の言葉だった。





展示会当日。


ギャラリーには、大勢の人が集まっていた。

業界関係者、メディア、一般の来場者。「記憶を繋ぐダイニング」シリーズは、予想以上の反響を呼んでいた。


「藤村さん、素晴らしい作品ですね」

「桐谷さんとのコラボレーション、最高でした」

「次回作も楽しみにしています」


私は笑顔で挨拶を返しながら、心の中では別のことを考えていた。


——凛は、どこにいるんだろう。


展示会が始まってから、彼の姿が見えない。設営のときは一緒にいたのに。


「莉子ちゃん、大丈夫?」


香織が心配そうに覗き込んできた。


「うん。ちょっと探し物」

「探し物?」

「——彼」


香織はにやりと笑った。


「ああ、桐谷さんなら、さっき倉庫の方に行ってたわよ」

「倉庫?」

「なんか大きな荷物を運んでた。何だろうね」


私は首を傾げながら、倉庫の方へ向かった。





倉庫の扉を開けると——凛がいた。


そして、その隣に。


「——え」


私は声を失った。


テーブル。

無垢材のテーブル。

私が作った、最初のテーブル。


圭介が捨てようとした、あのテーブル。


「……なぜ、これが」

「業者から買い取った」


凛が静かに言った。


「回収されると聞いて、すぐに連絡を取った。金額は関係なかった。これだけは、他人の手に渡したくなかったから」


私はテーブルに近づいた。


傷一つない天板。

私が毎日磨いていた、あの光沢。


「……修復したの?」

「ああ。少しだけ傷がついていた。職人に頼んで直してもらった」


凛は続けた。


「俺は君に伝えたいことがあった。でも、言葉にできなかった。俺は言葉が下手だから」


彼はテーブルの裏を指さした。


「——だから、これを見てくれ」


私は身を屈めて、テーブルの裏を覗き込んだ。


そこには——


『圭♡莉子』


新婚初夜に圭介が彫った、下手な文字。

それは、まだ残っていた。


でも、その隣に。

新しい文字が彫られていた。


『莉子の未来へ』


私の目から、涙が溢れた。


「……これ」

「俺が彫った」


凛は恥ずかしそうに目を逸らした。


「……下手だろう。彫刻なんてしたことがないから」

「……馬鹿」

「え?」

「馬鹿よ、あなた」


私は泣きながら笑った。


「こんなことされたら——断れないじゃない」

「断る……?」


凛が目を見開いた。


「俺は何も言っていないが」

「言わなくても分かるわよ。このテーブルで、新しい記憶を作りたいんでしょう。私と」


凛は黙った。

そして——ゆっくりと頷いた。


「……ああ。そうだ」


彼は私の手を取った。


「俺の実家には食卓がなかった。温かい記憶がなかった。だから分からなかったんだ、家族というものが」


彼の目は、真剣だった。


「でも君と過ごすうちに、初めて——欲しいと思った。温かい食卓が。誰かと一緒に食事をする時間が。君と、同じテーブルを囲む未来が」


私は泣いていた。

止められなかった。


「このテーブルで、俺と新しい記憶を作ってくれないか」


それは——彼なりの、不器用な告白だった。


私は頷いた。


「……うん」

「本当か」

「本当よ。馬鹿」


凛は笑った。

初めて見る、彼の笑顔。

氷の仮面が溶けて、その下から——温かい何かが現れた。


「ありがとう」

「……私の台詞よ」


私たちはテーブルの前に立っていた。

私が作った、最初のテーブル。

傷だらけの記憶と、新しい希望が刻まれたテーブル。


「——さて」


私は涙を拭いた。


「展示会に戻りましょう。お客さん、待ってるわ」

「ああ」


凛は頷いた。

そして——私の手を離さなかった。


「……このまま行くの?」

「駄目か」

「……いいわよ」


私たちは手を繋いだまま、倉庫を出た。


ギャラリーに戻ると、香織が目を丸くしていた。


「——ちょっと、何があったの?」

「色々」

「色々って——手、繋いでるじゃない!」

「そうね」

「そうねって——!」


香織の絶叫を背に、私は笑った。


新しい人生が、始まる。

大切なテーブルと、大切な人と一緒に。


——私はもう、誰かに選ばれるのを待つ椅子じゃない。


自分で選んで、自分で歩いていく。

この手で作った家具のように、長く、しっかりと。





一年後。


工房に、新しいテーブルが置かれていた。

私と凛が一緒に作った、初めての共作。


「——いい出来だな」

「そうね」


私たちは向かい合って座っていた。

テーブルの上には、香織が作ってくれた昼食。


「いただきます」

「いただきます」


静かな食卓。

でも——温かい。


「……凛さん」

「何だ」

「幸せ?」


彼は少し考えてから、頷いた。


「——ああ。これが幸せか」

「大げさね」

「大げさじゃない。俺は初めて知ったんだ。誰かと同じテーブルで食事をする幸せを」


私は微笑んだ。


「……私もよ」

「え?」

「私も、初めて知った。ちゃんと向き合ってくれる人と食卓を囲む幸せを」


凛は目を伏せた。

耳が、少しだけ赤くなっている。


「……君は、俺を照れさせるのが上手いな」

「あなたが照れやすいだけでしょう」

「違う」

「違わないわよ」


私たちは笑った。


窓の外には、春の陽射しが差し込んでいた。

工房には木の香りが満ちている。


私の手は、まだ節くれ立ったままだ。

職人の手。

これからも、木を削り続ける手。


でも今は——隣に、この手を取ってくれる人がいる。


「食べ終わったら、作業に戻るわね」

「ああ。俺も図面を引く」

「今度は何を作るの?」

「——揺り椅子」

「揺り椅子?」


凛は少し照れくさそうに言った。


「……いつか、必要になるかもしれないだろう」


私は目を見開いた。

そして——笑った。


「気が早いわよ」

「準備は早い方がいい」

「……そうね」


私はテーブルの上に手を置いた。

無垢材の温かさが、掌に伝わってくる。


このテーブルには、これからたくさんの記憶が刻まれていく。

二人の記憶。

そしていつか——もっと多くの記憶が。


私は静かに、木の声を聴いた。


——喜んでいる。


木は正直だ。

だから私にも分かる。


今、この瞬間が——幸せだということを。

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― 新着の感想 ―
素晴らしい、何十年振りに泣けた作品でした。 有難うございました、感無量です。
2026/02/10 14:03 通りすがり
 浮気、不倫は駄目絶対ではあるんですが話が進むにつれて、元夫の方も職業差別とか不愉快な奴ではあるんですが、それはそれでまぁ確かにこんな奥さんなら嫌になるだろうなって共感も湧いてきました。  あからさま…
職人を見下す気はさらさらないが、ここまで傲慢になるほど偉いんかとは思う 木質とか木目とかを考慮はしても、木の声だか意思だかは、頭がおかしいとしか思えない 後、専業主婦をさんざん強調しているのに、どうや…
2026/02/08 11:40 通りすがり
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