「このテーブル、明日捨てるから」と夫に言われた私は、実は予約三年待ちの人気工房を支える影の職人でした
「このダイニングテーブル、明日処分するから」
結婚五年目の記念日。
私が腕によりをかけて作った夕食が並ぶその席で、夫・篠原圭介は当然のようにそう告げた。
私は箸を置くこともせず、煮物を口に運んだ。
よく味が染みている。我ながら上出来だ。
「聞いてる?」
「ええ、聞いてるわ」
このテーブル。
新婚当初、二人で何軒も家具屋を回って選んだ無垢材のテーブル。
私が毎日、傷一つつかないように丁寧に磨き上げてきたテーブル。
——そして、私が修行時代に初めて作った、処女作。
もちろん、夫はそんなこと知らない。
「新しいのはもう注文してある」
圭介は得意げに続けた。
「彩花が選んでくれたんだ。イタリア製のモダンなやつ。今の時代、こういう古臭いのは流行らないってさ」
彩花。
水野彩花。
夫の会社の後輩で、最近やたらと名前が出ると思っていた女。
(ああ、そういうことか)
私は静かにお茶を啜った。少しぬるい。でも、この状況には丁度いい温度だった。
「……反論しないの?」
圭介が眉を顰める。期待していた反応と違ったのだろう。泣いて縋りつくとでも思ったのか。それとも怒り狂って物を投げると?
残念ながら、私はそこまでエネルギーを割く気になれない。
「あなたが決めたことでしょう」
「…………」
圭介の顔が歪んだ。
「本当に君は何も感じないんだな」
感じてるわよ。今、ものすごく感じてる。
——この五年間は無駄じゃなかった、という確信を。
「だから駄目なんだ、君は」
駄目、か。
五年間、文句一つ言わず家を守ってきた私が。
毎日六時に起きて朝食を作り、彼のワイシャツにアイロンをかけ、帰宅時間に合わせて温かい夕食を用意してきた私が。
——廃業寸前だった実家の工房を匿名で立て直し、今や予約三年待ちの人気工房に育て上げた私が。
「そうね」
私は微笑んだ。
五年間かけて完成させた、従順な妻の微笑み。
「私は駄目な妻だったわね」
圭介は少し怯んだように見えた。反論がないことへの苛立ちと、どこか居心地の悪そうな表情。
当然だ。
人は「正しいことをしている」と思い込みたい生き物だから。私が泣いて怒れば、彼は自分を正当化できた。「ほら、やっぱりこいつはヒステリックな女だ」と。
でも私が何も言わなければ、彼は自分の選択を自分で背負うしかない。
(せいぜい後悔するといいわ)
「……もういい。明日の十時に業者が来る。それまでに私物があれば片付けておいて」
圭介は苛立たしげに席を立った。
私は一人残された食卓で、最後の煮物を口に運ぶ。
ふと、テーブルの木目を指でなぞった。
この木を選んだ日のことを覚えている。
師匠に何度もダメ出しをされながら、やっと完成させた日のことも。
(……ごめんね)
私は心の中で、テーブルに謝った。
あなたを作った私が、一番あなたを裏切ってしまった。「幸せな家族の食卓」にしてあげられなくて。
でも、明日の朝までに、やることがある。
テーブルの裏には、私だけが知っている秘密が二つあるのだから。
◇
翌朝、業者が来る二時間前。
私は一人、ダイニングに立っていた。
圭介はとっくに出勤している。「彩花と朝食の約束があるから」と言い残して。結婚記念日の翌朝に浮気相手と朝食。なかなかの神経だと感心する。
(まあ、どうでもいいけど)
私はテーブルの下に潜り込んだ。
スカートの裾が汚れるのも構わず、天板の裏に手を伸ばす。
——あった。
指先に触れる、小さな凹凸。
新婚初夜、酔った圭介が彫った下手くそな文字。
『圭♡莉子』
あの頃の彼は、まだ少しだけ可愛げがあった。
「俺たちの証だ」なんて、恥ずかしいことを言いながら。
私は苦笑した。
その隣に貼られた、もう一つの「秘密」を剥がしながら。
クリアファイルに入った一枚の紙。
——離婚届のコピー。
結婚一年目の記念日に、私が黙って貼っておいたもの。
「いつか必要になると思って」
声に出して呟いてみる。
我ながら、可愛くない女だと思う。新婚一年目でこんな保険をかけておくなんて。
でも、私は知っていた。
あの男が、いつかこうなると。
木は正直だ。
木目を見れば、その木がどんな環境で育ったかわかる。歪みがあれば、どこかで無理をしている。
人間も同じ。
圭介の目には、最初から「芯」がなかった。
流行を追うだけの服装、上辺だけの優しさ、そして——私の実家が老舗工房だと知りながら「今どき職人なんて」と見下していた浅はかさ。
それでも結婚したのは、私にも打算があったから。
工房を継ぐつもりはない、普通の女として生きたい。
そう思っていた時期が、確かにあったのだ。
「……馬鹿みたい」
私は立ち上がり、テーブルの表面を最後に一度だけ撫でた。
五年間、毎日磨いてきた天板。
傷一つない、美しい無垢材の光沢。
これを「古臭い」と言った女と、その言葉を信じた男。
(お似合いよ、本当に)
◇
インターホンが鳴る。
「藤村様、家具回収に参りました」
私は玄関を開けた。
作業服を着た男性が二人、台車を押して立っている。
「あの、こちらのテーブルで間違いないですか?」
「ええ、そうです」
「かしこまりました。では——」
男性の一人が、テーブルに手をかけた瞬間。
「——っ、あ」
彼は驚いたように手を止めた。
「お客様、これ……」
「はい?」
「いえ、その……」
彼は困ったように同僚と顔を見合わせた。
「俺、一応この業界長いんですけど……こんな木目、見たことないです。どこの工房のテーブルですか?」
私は微笑んだ。
「さあ。夫が昔買ってきたものなので」
嘘ではない。形式上は、確かに彼が「買った」ことになっている。
私が作ったものを、私が匿名で工房に卸し、それを二人で「選んだ」のだから。
「……もったいないなあ」
作業員がぼそりと呟いた。
「これ、相当な職人が作ってますよ。丁寧に使えば百年持つのに」
——知ってる。
私が作ったんだもの。
「ご主人、分かってないんですね。これの価値」
作業員は気の毒そうに私を見た。
その視線に、少しだけ胸が痛んだ。
でも、もういい。
このテーブルは、私の「過去」だ。
しがみついていても、前には進めない。
「大切にしてくださる方に届けてください」
「……はい。必ず」
テーブルが運び出されていく。
私は最後まで見届けて、それから——スーツケースを手に取った。
三日前からこっそり詰めておいた荷物。
必要最低限のものしか入っていない。
この家に、私の「もの」はほとんど無かったから。
玄関を出る。
振り返らない。
五年間の「従順な妻」は、今日で終わり。
——さて、実家に帰ろうか。
『藤村木匠』の一人娘として。
私が育てた、あの工房に。
◇
「——お帰り、莉子」
工房の引き戸を開けた瞬間、木屑と漆の匂いが鼻腔を満たした。
五年ぶりの、我が家の匂い。
「ただいま、お父さん」
藤村源一郎。
白髪に深い皺、しかし背筋だけは真っすぐな、昔気質の職人。
私の父であり、師匠であり——『藤村木匠』の二代目当主。
「……痩せたな」
「そう?」
「飯、食っとったんか」
「食べてたわよ。ちゃんと」
父は何も言わず、作業台の椅子を引いた。
「座れ」という意味だ。昔から、この人は言葉が少ない。
私は素直に腰を下ろした。
椅子が軋む音。この椅子も、私が修行時代に作ったものだ。もう十五年は経つのに、まだしっかりしている。
「茶、淹れてくる」
「私が——」
「座っとれ」
父の背中を見送る。
少し丸くなった気がする。五年前より、確実に。
(……ごめんね、お父さん)
私は工房を見回した。
変わっていない。
壁に並ぶ鉋、鑿、玄翁。
隅に積まれた木材。
天井から吊るされた作りかけの椅子の脚。
——いや、一つだけ変わっていた。
工房の奥。
以前は空だった飾り棚に、小さな写真立てが置いてある。
近づいて、息を呑んだ。
私だ。
高校生の頃の私が、完成したばかりの椅子の横で笑っている。師匠——父に褒められて、照れくさそうに。
(こんな写真、撮ってたんだ……)
「——莉子ちゃんっ!」
バタバタと足音がして、工房の奥から誰かが飛び出してきた。
三島香織。
私の幼馴染で、工房の番頭的存在。
「やっと帰ってきた! もう、どれだけ待ったと思ってるの!」
「香織……」
「五年よ五年! あんな男のどこがよくて——いや、今はいいわ。とにかくお帰り!」
抱きつかれて、少しよろめいた。
相変わらず、この子は感情表現が激しい。
「ちょっと、苦しい」
「苦しくさせてやる! 連絡もろくによこさないで!」
「ごめんって……」
「ごめんで済んだら鉋いらないわよ!」
何その言い回し。
思わず笑ってしまった。五年ぶりに、心から。
「……やっと笑った」
香織が、少し泣きそうな顔で言った。
「莉子ちゃんが笑ったの、久しぶりに見た」
「……そんなことない」
「あるわよ。あの男と結婚してから、莉子ちゃん全然笑わなくなったもん。たまに会っても、なんか……能面みたいだった」
能面、か。
確かに、そうだったかもしれない。
「もう大丈夫よ」
私は香織の頭をぽんぽんと叩いた。
「帰ってきたから」
◇
父が淹れた緑茶は、濃くて苦くて——懐かしい味がした。
「……それで」
湯呑みを置いて、父が口を開く。
「どうする気だ」
「どうって?」
「工房のことだ」
私は茶を啜った。熱い。でも、この熱さが今は心地いい。
「……知ってたの?」
「何がだ」
「私が『匿名のスポンサー』だったこと」
父は表情を変えなかった。
「……木は正直じゃ」
出た、口癖。
「お前が嫁に行った年、工房は潰れかけとった。従業員も辞め、注文も途絶え、俺はもう終わりかと思っとった」
父は湯呑みを見つめながら続けた。
「そこに、匿名の投資家が現れた。経営を立て直し、新しい販路を開拓し、SNSとやらで宣伝までしてくれた。誰かは分からんが、この工房を心底愛しとる人間だと分かった」
私は黙っていた。
「——で、その『投資家』の指示書の筆跡が、どう見てもお前だった」
……バレてたんだ。
「なんで黙ってたの?」
「お前が黙っとったからだ」
父は静かに言った。
「言いたくない理由があるんだろうと思った。だから待っとった。お前が自分から帰ってくるまで」
私は湯呑みを握りしめた。
「……ごめん」
「謝るな。お前のおかげで工房は生き延びた。礼を言うのはこっちだ」
父は不器用に頭を下げた。
——その瞬間、涙が溢れた。
五年間、ずっと堪えていたものが、一気に決壊した。
「……っ、ごめん、なさ……っ」
「だから謝るなと言っとろう」
「でも、私……っ、お父さんに何も言わないで、勝手に……っ」
「勝手にやったから、お前は偉いんだ」
父の大きな手が、私の頭にそっと置かれた。
「帰ってきて、よかった」
木屑だらけの、節くれ立った手。
私の手の「原型」。
「……うん」
私は子供みたいに泣いた。
五年分の涙を、全部。
◇
三日後。
私は作業着に着替えて、工房に立っていた。
「——さて」
久しぶりに握る鉋。
手に馴染む、使い込まれた木の柄。
私は木材に向き合った。
今日は椅子の座面を削る。単純な作業だけど、これが一番好きだ。
木に刃を当てる。
すうっと、薄い削りかすが舞う。
——ああ、この感触。
五年間、忘れていたわけじゃない。
でも、やっぱり違う。実際に手を動かすと、体が思い出す。
木の声を聴く、ということを。
「相変わらず、いい音させるわね」
香織が作業場を覗き込んでいた。
「莉子ちゃんが削ると、木が喜んでるみたい」
「そんなわけないでしょ」
「あるわよ。源一郎さんも言ってたもん。『あの子が作ったテーブルには、木が喜んでおる』って」
父がそんなことを。
少し照れくさくて、私は手を止めた。
「……ねえ、香織」
「ん?」
「私、表に出ようと思う」
香織が目を丸くした。
「表って……まさか」
「うん。『藤村木匠』の職人として。顔を出して、取材も受ける」
五年間、私は影に徹してきた。
経営は匿名で、制作は父の名前で。
でも、もう隠れている理由はない。
「——いいの? あの男に知られたら……」
「知られて何が困るの?」
私は鉋を置いた。
「私はもう、あの人の妻じゃない。好きに生きていいのよ」
香織の顔が、ぱあっと明るくなった。
「——待ってた。その言葉」
「え?」
「莉子ちゃんがそう言うの、ずっと待ってたの!」
香織は私の手を握った。
「大丈夫、私が全力でサポートする! 取材のセッティングも、SNSの運用も、全部任せて!」
「……頼りにしてる」
「当然よ! 莉子ちゃんの幼馴染なめないで!」
力強い言葉に、私は笑った。
そうだ。
私には味方がいる。
父がいる。香織がいる。そして——この手がある。
木を削り、形にする、この手が。
「……よし」
私は再び鉋を握った。
新しい人生の、最初の一削り。
すうっと、木屑が舞う。
——いい音。
今日から私は、「藤村莉子」として生きていく。
誰かの妻でも、誰かの影でもなく。
ただの、一人の職人として。
◇
『若き女性匠、伝統工房を継ぐ——藤村莉子、29歳の挑戦』
取材記事が出てから、工房は騒がしくなった。
問い合わせの電話、見学希望のメール、SNSのフォロワー急増。
香織が「嬉しい悲鳴」と言って駆け回っている横で、私は黙々と木を削っていた。
「莉子ちゃん、また取材依頼来てるけど——」
「断って」
「でも今度は全国ネットの——」
「断って。今は作ることに集中したい」
香織は呆れたように肩を竦めた。
「……相変わらずね」
「何が?」
「いいけど。でも、今日のお客さんだけは対応してね」
「お客さん?」
「予約なしで来たんだけど、どうしても莉子ちゃんに会いたいって。業界では有名な人らしいわよ」
私は手を止めた。
予約なし、というのは困る。制作中は集中を乱されたくない。
「名前は?」
「桐谷凛さん。インテリアデザイナーだって」
——桐谷凛。
聞いたことがある。というか、業界で知らない人はいない。
「氷の美学」と呼ばれる完璧主義者。クライアントを選び、気に入らなければ平気で仕事を断る傲慢な天才。
なぜそんな人が、うちの工房に?
「……分かった。会う」
「お、珍しい。素直」
「気になるだけよ」
私は鉋を置き、作業着の埃を払った。
◇
工房の応接スペース——といっても、木のベンチがあるだけの質素な空間——に、男が座っていた。
第一印象は「冷たい」。
切れ長の目、整いすぎた顔立ち、銀縁眼鏡の奥の瞳は常に冷ややか。長身痩躯で隙のないスーツ姿は、木屑だらけの工房には明らかに場違いだった。
「お待たせしました。藤村莉子です」
「……桐谷凛」
立ち上がりもせず、名刺すら出さない。
(感じ悪いわね)
内心で呟きながら、私は正面に座った。
「それで、ご用件は?」
「見れば分かるだろう」
彼は工房を見回した。冷たい目で品定めするように。
「……あなたの仕事を見に来た」
「仕事?」
「記事を読んだ。『木が喜ぶ家具を作る』とか何とか。胡散臭いと思った」
胡散臭い。
初対面でそれを言うか。
「それで、わざわざ確かめに?」
「ああ」
彼は眼鏡を直した。
「俺は完璧な空間を設計する。そのために使う家具も完璧でなければならない。だが——」
彼の目が、私の手を見た。
節くれ立った、職人の手。
「——職人に用はない。作品にだけ興味がある」
傲慢な言い方だった。
でも、私は腹が立たなかった。
この人、本気だ。
言葉は冷たいけど、目は真剣だ。自分の仕事に、妥協したくないのだろう。
「……作りかけでよければ、見せましょうか」
「頼む」
私は立ち上がった。
彼を作業場に案内する。普段は見せない場所だけど、なぜか見せてもいい気がした。
作業台の上には、削りかけのテーブルの脚があった。
楓の木。白く美しい木目が特徴的な木材。
「……触っていいか」
「どうぞ」
彼は慎重に手を伸ばした。
指先で木肌をなぞる。その仕草は意外なほど丁寧で——
「——っ」
彼が息を呑んだ。
「……なぜだ」
「え?」
「なぜ、木が泣いていないんだ」
私は目を見開いた。
——この人、分かるの?
木を削るとき、無理な力をかけると木が「泣く」。繊維が悲鳴を上げるように、微かな違和感を残す。素人には分からない。熟練の職人でも、気づかない人は多い。
それを、この人は一瞬で見抜いた。
「答えろ。なぜ、この木は——」
「……木の声を聴いているから」
「声?」
「木には、それぞれ削ってほしい方向がある。それを無視すると泣く。だから、私は聴くの。この木はどこを削ってほしいのか。どこを残してほしいのか」
彼は黙っていた。
長い沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「……狂ってる」
「は?」
「そんな繊細な仕事、効率が悪すぎる。工場生産なら——」
「工場の家具には魂がないでしょう」
私は言い返した。
「大量生産で作られた家具と、職人が一つ一つ作った家具。見た目は同じでも、十年後に違いが出る。使い込むほど馴染むのが手作り。劣化するのが工場品」
彼の目が、わずかに揺れた。
「……記憶、か」
「え?」
「あなたの作るテーブルには、記憶が宿っている気がする」
予想外の言葉に、私は言葉を失った。
「俺は空間を設計する。完璧な配置、完璧な照明、完璧な調和。だが——いつも何かが足りないと思っていた」
彼は削りかけの脚を見つめていた。
「温度だ。俺の設計には温度がない。人が暮らした痕跡。記憶が積み重なる余地。——それを、あなたの家具には感じる」
私は彼を見た。
冷たい目。傲慢な物言い。
でも、その奥に——何かを求めている飢えがある。
「……桐谷さん」
「何だ」
「あなた、家に食卓がなかったでしょう」
彼が固まった。
「——なぜ、そう思う」
「木は正直だから」
私は微笑んだ。
「あなたの目。家具を見る目じゃない。見たことがないものを、必死に理解しようとしている目よ」
長い沈黙。
彼の手が、かすかに震えていた。
「……帰る」
「え、ちょっと——」
「また来る」
彼は踵を返した。
背中を向けたまま、低く呟く。
「——あなたのテーブルが、欲しい。何を払っても」
引き戸が閉まる音。
私は一人、作業場に立ち尽くしていた。
(……何なの、あの人)
傲慢で、無礼で、突然現れて突然帰って。
なのに——
心臓が、少しだけ早く打っていた。
◇
桐谷凛は、本当に「また来た」。
翌日も、その翌日も、その翌々日も。
予約なし、連絡なし。ただ工房に現れて、黙って私の作業を見ている。
「……また来たの」
「ああ」
「仕事は?」
「調整した」
「毎日?」
「問題あるか」
問題しかない。
「邪魔なんだけど」
「黙って見ているだけだ」
「その『黙って見ている』のが気になるのよ」
彼は眼鏡を直した。
なぜか、私の作業を見るときだけ眼鏡を外す癖があることに気づいた。
「……気にしなければいい」
「無理よ。あなた、存在感ありすぎ」
「褒め言葉か」
「皮肉よ」
彼は黙った。
でも、帰らない。
仕方なく、私は作業を再開した。
今日は椅子の背もたれ。微妙なカーブを削り出す繊細な工程。
しばらく無言で削っていると、ふと彼が口を開いた。
「——俺の実家には、食卓がなかった」
手が止まった。
「……急にどうしたの」
「前に、あなたが言ったことの答えだ」
彼は窓の外を見ていた。作業場の小窓から差し込む午後の光が、冷たい横顔を照らしている。
「両親は仲が悪かった。同じ家に住んでいたが、一緒に食事をしたことは一度もない」
私は黙って聞いていた。
「母は自室で、父は書斎で、俺は子供部屋で。食事はいつも一人だった。食卓という『場所』が、俺の家には存在しなかった」
——だから「温度がない」と言ったのか。
彼の設計には、温度がない。人が暮らした痕跡がない。
それは、彼自身が「温かい食卓」の記憶を持っていないから。
「俺は食卓を設計できない」
彼は続けた。
「クライアントから『家族が集まる空間』を依頼されると、いつも分からなくなる。集まって何をするんだ? 何を話すんだ? なぜ同じテーブルを囲む必要がある?」
私は鉋を置いた。
「……桐谷さん」
「何だ」
「食卓は、ただ食事をする場所じゃないのよ」
彼が振り向いた。
「その日あったことを話したり、黙ったまま同じおかずを食べたり、時々喧嘩したり。何気ない時間の積み重ねが、『家族』を作っていく。食卓は——その記憶の器なの」
彼の目が、わずかに揺らいだ。
「記憶の器……」
「だから私は、長く使ってもらえる家具を作りたい。十年、二十年、時には百年。その間に、たくさんの記憶が刻まれていく。傷も、染みも、全部含めて」
私は椅子の背もたれをなでた。
「私が作ったテーブルで、誰かが笑って、誰かが泣いて、誰かが誕生日を祝って、誰かが受験の合格を報告して——そういう記憶が積み重なっていくことを想像すると、この仕事が好きだと思える」
長い沈黙があった。
「……狂ってる」
「また言った」
「褒め言葉だ。今度は」
彼は眼鏡をかけ直した。
でも、その目は——少しだけ、柔らかくなっている気がした。
「もう少し、見ていてもいいか」
「……好きにすれば」
私は作業を再開した。
彼の視線を背中に感じながら。
——変な人。
でも、嫌じゃない。
そう思ってしまう自分が、少しだけ悔しかった。
◇
彼が通い始めて、二週間。
香織が興味津々で聞いてきた。
「ねえ、あの人何者? 毎日来てるけど」
「桐谷凛。インテリアデザイナー」
「それは知ってる。そうじゃなくて、莉子ちゃんとはどういう関係?」
「……ただの見学者よ」
「見学者が毎日来る?」
香織はにやにやしていた。
「——絶対、気があるわよ」
「馬鹿言わないで」
「だって見てたもん。莉子ちゃんが作業してるとき、あの人、全然瞬きしないの。ずっと、莉子ちゃんの手を見てる」
手を、見てる?
「……変態じゃない?」
「そうかも。でも、職人の手ってセクシーだからね。莉子ちゃんの手、特にいいし」
「からかわないで」
「からかってないわよ。本気で言ってる」
香織は真面目な顔になった。
「莉子ちゃん、あの人のこと、嫌い?」
「……別に」
「じゃあ、好き?」
「そんなわけ——」
言いかけて、止まった。
嫌いじゃない。確かにそう思う。
彼は傲慢で、無礼で、人の気持ちを考えない。
でも、彼が私の作業を見つめる目には——嘘がない。
「……分からない」
「ふーん」
香織はにやりと笑った。
「まあ、ゆっくり考えなよ。時間はあるんだから」
そう言って、彼女は作業場を出ていった。
◇
その日の夕方。
作業を終えて片付けをしていると、桐谷が珍しく声をかけてきた。
「藤村」
「何?」
「これを」
彼は紙袋を差し出した。
中を覗くと——分厚い本が何冊か入っている。
「……これは?」
「資料だ」
「資料?」
「北欧の家具デザインの歴史書。君の参考になると思った」
私は本を手に取った。
確かに、どれも興味深いタイトルだ。しかも、日本では手に入りにくい洋書ばかり。
「……ありがとう。でも、なぜ?」
「言っただろう。資料だ」
「資料って言えば何でも許されると思ってる?」
彼は黙った。
耳が、微かに赤くなっている。
(——まさか)
これ、プレゼントなのでは?
「資料」と称した、不器用な贈り物では?
「……桐谷さん」
「何だ」
「ありがとう。嬉しい」
彼の目が、一瞬だけ見開かれた。
そしてすぐに、いつもの冷たい顔に戻る。
「……礼を言われることじゃない」
「言いたいから言ったの。受け取って」
彼は何も言わず、背を向けた。
でも、その背中は——いつもより少しだけ、柔らかく見えた。
私は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
——香織の言葉が、頭をよぎる。
「気がある」、か。
まさか。
でも——まさか。
私は首を振った。
今は、考えないでおこう。
工房の外では、夕日が沈みかけていた。
橙色の光が、削りかけの椅子を照らしている。
——もうすぐ、完成する。
私は静かに、明日の作業のことを考えた。
◇
それは、工房に凛が通い始めてから一ヶ月が経った頃のことだった。
私はいつものように木を削っていた。
今日は彼が来ない日で——珍しく、打ち合わせがあると言っていた——静かな作業場で一人、黙々と手を動かしていた。
と、工房の引き戸が開いた。
「香織? 今日は早——」
振り向いて、固まった。
「……久しぶり、莉子」
篠原圭介が、そこに立っていた。
◇
「帰って」
私の第一声は、それだった。
「待ってくれ。話を——」
「話すことなんてない」
「あるんだ。俺は——」
「離婚届にサインはした? まだなら今すぐして帰って」
圭介の顔が歪んだ。
以前は「端正」だと思っていたその顔。今見ると、どこか安っぽく見える。目の下の隈、荒れた肌、皺の寄ったワイシャツ。
「莉子、頼むから——」
「頼む?」
私は鉋を置いた。
「あなた、私に何を頼める立場だと思ってるの?」
「それは……」
「結婚記念日に、私が大切にしていたテーブルを捨てると言った。新しいテーブルは浮気相手に選ばせた。私を『ただの専業主婦』だと見下して、五年間、一度も感謝しなかった」
私は淡々と言った。
感情は込めない。込める必要がない。
「そのあなたが、何を頼みに来たの?」
圭介は唇を噛んだ。
「……彩花に、逃げられた」
知ってる。
香織から聞いた。「奥さんがいない家って寒いね」と言って出ていったらしい。
「テーブルも、三ヶ月で傷だらけになった。彩花が雑に使うから——」
「それで?」
「それで……俺、初めて分かったんだ。莉子がどれだけ——」
「——やめて」
私は手を上げた。
「聞きたくない。今さらそんな言葉」
「莉子……」
「あなたは失って初めて気づいただけ。私の価値じゃない。『便利な存在がいなくなった不便さ』に気づいただけでしょう」
圭介が息を呑んだ。
「違う、俺は——」
「同じよ。あなたは私を愛してたんじゃない。私が提供していたサービスを愛してたの。食事、洗濯、掃除、家の管理。それがなくなって困ってるだけ」
私は作業台に手を置いた。
節くれ立った、職人の手。
「私は道具じゃない。あなたの生活を便利にするための装置じゃない」
圭介の顔が青ざめた。
「……戻ってきてくれ」
絞り出すような声だった。
「なんでもする。反省してる。やり直させてくれ」
「無理よ」
「なぜだ」
「なぜ?」
私は微笑んだ。
従順な妻の笑顔ではない。
自分自身の足で立っている、一人の女の笑顔。
「私はもう、誰かに選ばれるのを待つ椅子じゃないの」
圭介の目が見開かれた。
「……椅子?」
「あなたは私を座り心地のいい椅子だと思ってた。いつでも座れる、いつでも待っている、自分の好きなときに使える椅子。でも——」
私は鉋を手に取った。
「私は椅子じゃない。椅子を作る側よ」
圭介は何も言えないようだった。
言葉を失い、立ち尽くし——そして、工房の奥に視線を向けた。
「……これ、全部お前が?」
「そうよ」
「嘘だろ。お前、ただの——」
「——ただの何?」
私は静かに問うた。
「ただの専業主婦? ただの木工職人の娘? 今どき職人なんて、と言ったのはあなたよね」
圭介の顔が歪んだ。
「俺は……そんな……」
「言ったわ。何度も。私の前で、私の父の仕事を見下したわ」
私は作業台の椅子を指した。
「この椅子、私が十五年前に作ったの。まだ高校生の頃。でもちゃんと使えるでしょう? 職人の仕事って、そういうものよ。百年持つものを、一つ一つ作る」
圭介は黙っていた。
「あなたが捨てようとしたテーブル、あれも私が作ったの。知らなかったでしょう?」
「……え?」
「私の処女作。修行時代に初めて完成させたテーブル。毎日磨いて、大切にしてた。——それを、あなたは『古臭い』と言って捨てようとした」
圭介の顔から、血の気が引いた。
「そんな……聞いてない……」
「言わなかったからよ。言っても、あなたには分からないと思ったから」
私は背を向けた。
「帰って。もう来ないで」
「莉子——」
「私は前に進むの。あなたのいない場所で、私の人生を生きる。邪魔しないで」
長い沈黙があった。
そして——足音。引き戸の開く音。閉まる音。
私は振り返らなかった。
振り返る必要がなかった。
◇
「——大丈夫?」
夕方、凛が工房に来た。
「なぜそう思うの?」
「顔色が悪い」
私は苦笑した。
この人、意外と人のことを見ている。
「……元夫が来たの」
凛の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「何を言われた」
「戻ってこいって」
「……で?」
「断った」
凛は何も言わず、いつもの場所に座った。
そして——珍しく、口を開いた。
「君の手が動くのを見ていると、眠れなかった夜を思い出さなくなる」
私は手を止めた。
「……どういう意味?」
「俺は子供の頃、よく眠れなかった。家が静かすぎて。誰も話さない、誰も笑わない、ただ沈黙だけがある家」
彼は窓の外を見ていた。
「でも、君の作業を見ていると——鉋の音、木の香り、君の真剣な顔——不思議と落ち着く。眠れなかった夜のことを、忘れられる」
私は彼を見た。
冷たい目。完璧主義の仮面。
でもその奥に——ずっと孤独だった子供が、まだいる。
「……凛さん」
「何だ」
「今日、一緒にご飯食べない?」
彼が目を見開いた。
「……なぜ」
「なぜって、お腹が空いたからよ。あなたも空いてるでしょう?」
「そうじゃなくて——」
「難しく考えないで。ただの食事よ」
私は微笑んだ。
「——私が作ったテーブルで、一緒に食べましょう」
長い沈黙。
そして——彼は、ぎこちなく頷いた。
「……ああ」
その声は、いつもより少しだけ——温かかった。
◇
「共同プロジェクト、ですか」
私は凛の言葉を復唱した。
工房の応接スペース。今度は二人とも座っている。
「ああ。俺が空間を設計し、君が家具を作る。『記憶を繋ぐダイニング』——そういうコンセプトだ」
凛は珍しく熱を込めて語っていた。
「食卓は家族の記憶の器だ。君はそれを分かっている。俺は分からなかったが——今は、少しだけ分かる気がする」
私は黙っていた。
彼が何を言いたいのか、見極めようとしていた。
「俺の設計には温度がなかった。君の家具には温度がある。組み合わせれば——」
「——お互いの弱点を補える?」
「……そういうことだ」
私は考えた。
確かに、面白い企画だと思う。凛の設計は冷たいが美しい。私の家具は温かいが、空間全体の調和には弱い。
でも——
「本当に、それだけ?」
「何がだ」
「仕事のため、だけじゃないでしょう」
凛が黙った。
「……何が言いたい」
「あなた、私の技術を独占したいんでしょう」
彼の目が、わずかに揺れた。
「……なぜ分かった」
「あなた、分かりやすいのよ。言葉は冷たいけど、目は嘘をつけない」
私は微笑んだ。
「いいわよ。受けましょう」
「——本当か」
「ただし条件がある」
「何だ」
私は指を一本立てた。
「私の仕事には口を出さないこと。木の選定から仕上げまで、全部私が決める」
「当然だ。俺は空間を設計する。家具には手を出さない」
「もう一つ」
私は二本目の指を立てた。
「——私と対等でいること」
凛が眉を顰めた。
「どういう意味だ」
「あなた、上から目線でしょう。『俺が設計してやる』『俺が認めてやる』そういう態度。私は嫌よ」
「……」
「パートナーとして組むなら、対等じゃなきゃ。あなたの設計が私の家具を活かすように、私の家具もあなたの設計を活かす。どちらが上でも下でもない」
長い沈黙があった。
「……難しいことを言う」
「難しい?」
「俺は他人と対等に組んだことがない」
凛は苦い顔をした。
「いつも俺が全部決める。クライアントの意見は聞かない。職人の提案も却下する。俺の設計が正しいから——そう思っていた」
「思っていた?」
「君と会って、分からなくなった」
彼は私を見た。
冷たい目——でも、その奥に戸惑いがある。
「君は俺の言うことを聞かない。俺の設計を褒めない。でも——俺は君の作業をずっと見ていたい。なぜだ」
私は笑ってしまった。
「それ、自分で分からないの?」
「分からない。だから聞いている」
「……本当に、不器用な人ね」
私は立ち上がった。
「いいわ。一緒に作りましょう。『記憶を繋ぐダイニング』」
「……ああ」
「その代わり、ちゃんと対等でいてね。私を下に見たら、その瞬間に契約解除だから」
「分かった」
凛は頷いた。
その顔は——少しだけ、嬉しそうに見えた。
◇
三ヶ月後。
「記憶を繋ぐダイニング」シリーズは、業界で大きな話題となっていた。
凛の冷たく美しい空間設計と、私の温かみのある手作り家具。相反するはずの二つが、不思議なほど調和している——そう評価された。
メディアの取材も増えた。
「氷の美学」と「若き女性匠」のコラボレーション。キャッチーな見出しが躍る。
「——また取材依頼。今度はテレビ」
「断って」
「……凛さんも同じこと言うと思った」
香織はため息をついた。
「二人とも、もう少し愛想よくできないの?」
「愛想を売る暇があったら、手を動かしたい」
「俺も同意見だ」
凛が隣で頷いた。
最近、彼は工房に常駐している。設計のアトリエを一時閉鎖し、私の作業場の隣で図面を引いている。
「……本当に仲いいわよね、二人」
「仲がいい?」
「良好なビジネスパートナーというだけだ」
「はいはい」
香織はにやにやしながら去っていった。
私は作業を続けた。
今日は最終展示会に出す、メインテーブルの仕上げ。楓の一枚板を使った、渾身の作品。
「……藤村」
「何?」
「君のその手を、ずっと見ていたい」
私の手が止まった。
「……また言ってる」
「事実だ」
「それ、告白と何が違うの」
凛が黙った。
「……告白?」
「好きだから見ていたいんでしょう。違う?」
長い沈黙。
「……分からない」
「まだ分からないの?」
「君のことを考えると、胸が苦しい。君が笑うと、俺も嬉しい。君が他の男と話していると、腹が立つ。——これが何なのか、俺には分からない」
私は鉋を置いた。
そして、彼の顔を見た。
冷たい目——でも今は、必死に何かを訴えている。
自分の感情が分からなくて、戸惑っている。
「……凛さん」
「何だ」
「それ、全部『好き』って言うのよ」
彼が目を見開いた。
「——好き」
「そう」
「俺が、君を?」
「そうみたいね」
私は微笑んだ。
「——私もよ。たぶん」
凛の顔が、ゆっくりと赤くなっていった。
「氷の美学」と呼ばれた男が、耳まで真っ赤になっている。
「……たぶん、とは」
「まだ確信がないの。あなたと同じ」
「なら——」
彼は立ち上がった。
そして、私の手を取った。
「確かめる時間をくれ。展示会が終わったら——俺の気持ちを、ちゃんと言葉にする」
私は頷いた。
「待ってる」
彼の手は——意外なほど、温かかった。
◇
最終展示会の前日。
私は搬入作業のために、会場となるギャラリーを訪れていた。
凛の設計した空間に、私の家具を配置していく。
「——このテーブルは、ここに」
「ああ。その角度がベストだ」
凛と二人、細かな調整を重ねる。
彼の「氷の美学」と、私の「記憶の器」。二つが融合した空間は、自分で言うのもなんだが——美しかった。
「……いいわね」
「ああ」
「明日が楽しみ」
「俺もだ」
凛は珍しく穏やかな顔をしていた。
この三ヶ月で、彼は少しだけ変わった気がする。相変わらず無愛想だけど、目が温かくなった。
「——あの」
後ろから声がした。
振り返ると——若い女性が立っていた。
巻き髪、派手なメイク、ブランドバッグ。
水野彩花。
「お久しぶりです、藤村さん」
私は黙っていた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
「あの……謝りたくて」
「謝る?」
「圭介さんとのこと。私——」
「——藤村、知り合いか」
凛が横から口を挟んだ。
彩花は凛を見て、少し怯んだようだった。
「えっと、この方は……」
「仕事のパートナーよ」
「そう、ですか……」
彩花は居心地悪そうに視線を泳がせた。
「あの、私——」
「聞きたくないわ」
私は遮った。
「謝罪なら、受け取れない。あなたに謝られても、私は何も感じないから」
「でも——」
「私が怒っていたのは、あなたにじゃない。自分自身によ」
彩花が目を見開いた。
「五年間、見て見ぬふりをしてきた。夫の気持ちが離れていくのを感じながら、何もしなかった。それは私の責任。あなたのせいじゃない」
私は淡々と言った。
「だから、謝らなくていい。私はもう前に進んでるから」
彩花は何か言いたそうだったが、言葉が出ないようだった。
しばらく立ち尽くした後——小さく頭を下げて、去っていった。
◇
「……あれが、浮気相手か」
凛が低い声で言った。
「そう」
「……腹が立つ」
「え?」
「君があんな女に傷つけられたと思うと、腹が立つ」
私は少し笑った。
「傷ついてないわよ」
「嘘をつくな。今、一瞬だけ顔が曇った」
「……見てたの」
「いつも見てる」
凛は私の手を取った。
「明日が終わったら——俺は君に伝えることがある。それまで、待っていてくれ」
「……何を?」
「言葉にできたら、伝える」
彼の目は真剣だった。
私は頷いた。
「分かった。待ってる」
◇
その夜。
私は実家の工房で、一人で作業していた。
明日の展示会用ではない。
ただ——手を動かしていたかった。
木を削る音。
鉋が滑る感触。
木屑が舞う匂い。
全部が、私を落ち着かせてくれる。
「……お父さん」
工房の隅で、父がお茶を淹れていた。
「なんだ」
「私、幸せになっていいのかな」
父は黙っていた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「木は正直じゃ」
「……また言った」
「お前の顔を見れば分かる。迷っとるな」
私は手を止めた。
「……うん」
「何に迷っとる」
「……分からない。桐谷さんのことは、好きだと思う。でも——」
「前の旦那のことが、引っかかるか」
私は頷いた。
「また同じ失敗をしたらって思うと、怖い」
「そうか」
父はお茶を私の前に置いた。
「——お前が選んだ道なら、間違いじゃない」
「え?」
「五年前、お前はあの男を選んだ。結果は失敗だった。でも、その経験があったから今のお前がおる」
父は続けた。
「今度は、お前の目で見極めろ。あの男を見て、何を感じる?」
私は凛のことを思い出した。
冷たい目。無愛想な物言い。
でも——私の作業をずっと見ていた目。
木に触れたとき、「なぜ泣いていないんだ」と驚いた声。
「記憶の器」という言葉を理解したときの、戸惑った顔。
「……彼は、嘘をつかない」
「そうか」
「言葉は冷たいけど、目は正直。私が何を作っても、本当のことしか言わない」
父は頷いた。
「なら、信じてみろ。お前の目を」
私はお茶を啜った。
父が淹れた、濃くて苦いお茶。
「……ありがとう、お父さん」
「礼を言うな。当然のことだ」
父は立ち上がった。
「——あの男、木が分かる」
「え?」
「初めて工房に来たとき、俺の作りかけの椅子を見て言った。『この木は、削られて喜んでいる』と」
私は目を見開いた。
凛が父と話していたなんて、知らなかった。
「木の声が聴ける人間は、そうおらん。お前を任せるなら——」
父は背を向けた。
「——悪くない、と思う」
不器用な父の、精一杯の言葉だった。
◇
展示会当日。
ギャラリーには、大勢の人が集まっていた。
業界関係者、メディア、一般の来場者。「記憶を繋ぐダイニング」シリーズは、予想以上の反響を呼んでいた。
「藤村さん、素晴らしい作品ですね」
「桐谷さんとのコラボレーション、最高でした」
「次回作も楽しみにしています」
私は笑顔で挨拶を返しながら、心の中では別のことを考えていた。
——凛は、どこにいるんだろう。
展示会が始まってから、彼の姿が見えない。設営のときは一緒にいたのに。
「莉子ちゃん、大丈夫?」
香織が心配そうに覗き込んできた。
「うん。ちょっと探し物」
「探し物?」
「——彼」
香織はにやりと笑った。
「ああ、桐谷さんなら、さっき倉庫の方に行ってたわよ」
「倉庫?」
「なんか大きな荷物を運んでた。何だろうね」
私は首を傾げながら、倉庫の方へ向かった。
◇
倉庫の扉を開けると——凛がいた。
そして、その隣に。
「——え」
私は声を失った。
テーブル。
無垢材のテーブル。
私が作った、最初のテーブル。
圭介が捨てようとした、あのテーブル。
「……なぜ、これが」
「業者から買い取った」
凛が静かに言った。
「回収されると聞いて、すぐに連絡を取った。金額は関係なかった。これだけは、他人の手に渡したくなかったから」
私はテーブルに近づいた。
傷一つない天板。
私が毎日磨いていた、あの光沢。
「……修復したの?」
「ああ。少しだけ傷がついていた。職人に頼んで直してもらった」
凛は続けた。
「俺は君に伝えたいことがあった。でも、言葉にできなかった。俺は言葉が下手だから」
彼はテーブルの裏を指さした。
「——だから、これを見てくれ」
私は身を屈めて、テーブルの裏を覗き込んだ。
そこには——
『圭♡莉子』
新婚初夜に圭介が彫った、下手な文字。
それは、まだ残っていた。
でも、その隣に。
新しい文字が彫られていた。
『莉子の未来へ』
私の目から、涙が溢れた。
「……これ」
「俺が彫った」
凛は恥ずかしそうに目を逸らした。
「……下手だろう。彫刻なんてしたことがないから」
「……馬鹿」
「え?」
「馬鹿よ、あなた」
私は泣きながら笑った。
「こんなことされたら——断れないじゃない」
「断る……?」
凛が目を見開いた。
「俺は何も言っていないが」
「言わなくても分かるわよ。このテーブルで、新しい記憶を作りたいんでしょう。私と」
凛は黙った。
そして——ゆっくりと頷いた。
「……ああ。そうだ」
彼は私の手を取った。
「俺の実家には食卓がなかった。温かい記憶がなかった。だから分からなかったんだ、家族というものが」
彼の目は、真剣だった。
「でも君と過ごすうちに、初めて——欲しいと思った。温かい食卓が。誰かと一緒に食事をする時間が。君と、同じテーブルを囲む未来が」
私は泣いていた。
止められなかった。
「このテーブルで、俺と新しい記憶を作ってくれないか」
それは——彼なりの、不器用な告白だった。
私は頷いた。
「……うん」
「本当か」
「本当よ。馬鹿」
凛は笑った。
初めて見る、彼の笑顔。
氷の仮面が溶けて、その下から——温かい何かが現れた。
「ありがとう」
「……私の台詞よ」
私たちはテーブルの前に立っていた。
私が作った、最初のテーブル。
傷だらけの記憶と、新しい希望が刻まれたテーブル。
「——さて」
私は涙を拭いた。
「展示会に戻りましょう。お客さん、待ってるわ」
「ああ」
凛は頷いた。
そして——私の手を離さなかった。
「……このまま行くの?」
「駄目か」
「……いいわよ」
私たちは手を繋いだまま、倉庫を出た。
ギャラリーに戻ると、香織が目を丸くしていた。
「——ちょっと、何があったの?」
「色々」
「色々って——手、繋いでるじゃない!」
「そうね」
「そうねって——!」
香織の絶叫を背に、私は笑った。
新しい人生が、始まる。
大切なテーブルと、大切な人と一緒に。
——私はもう、誰かに選ばれるのを待つ椅子じゃない。
自分で選んで、自分で歩いていく。
この手で作った家具のように、長く、しっかりと。
◇
一年後。
工房に、新しいテーブルが置かれていた。
私と凛が一緒に作った、初めての共作。
「——いい出来だな」
「そうね」
私たちは向かい合って座っていた。
テーブルの上には、香織が作ってくれた昼食。
「いただきます」
「いただきます」
静かな食卓。
でも——温かい。
「……凛さん」
「何だ」
「幸せ?」
彼は少し考えてから、頷いた。
「——ああ。これが幸せか」
「大げさね」
「大げさじゃない。俺は初めて知ったんだ。誰かと同じテーブルで食事をする幸せを」
私は微笑んだ。
「……私もよ」
「え?」
「私も、初めて知った。ちゃんと向き合ってくれる人と食卓を囲む幸せを」
凛は目を伏せた。
耳が、少しだけ赤くなっている。
「……君は、俺を照れさせるのが上手いな」
「あなたが照れやすいだけでしょう」
「違う」
「違わないわよ」
私たちは笑った。
窓の外には、春の陽射しが差し込んでいた。
工房には木の香りが満ちている。
私の手は、まだ節くれ立ったままだ。
職人の手。
これからも、木を削り続ける手。
でも今は——隣に、この手を取ってくれる人がいる。
「食べ終わったら、作業に戻るわね」
「ああ。俺も図面を引く」
「今度は何を作るの?」
「——揺り椅子」
「揺り椅子?」
凛は少し照れくさそうに言った。
「……いつか、必要になるかもしれないだろう」
私は目を見開いた。
そして——笑った。
「気が早いわよ」
「準備は早い方がいい」
「……そうね」
私はテーブルの上に手を置いた。
無垢材の温かさが、掌に伝わってくる。
このテーブルには、これからたくさんの記憶が刻まれていく。
二人の記憶。
そしていつか——もっと多くの記憶が。
私は静かに、木の声を聴いた。
——喜んでいる。
木は正直だ。
だから私にも分かる。
今、この瞬間が——幸せだということを。




